「俺、心配なんだよ…」
父親そっくりの超美少年顔に憂いを滲ませ、明仁はため息をついた。

茶の間で届いたばかりの夕刊を広げた義春は、興味津々な様子で明仁を見た。
郁実が生まれて家に居候が増えたわけだが、元々が鷹揚な性格の義春は明仁とユッキーを
すっかり家族と認識している。

自分は一人っ子だったし、賑やかな家庭に憧れていたのだ。
メンバーに喋るうさぎが混じっていることも、全くもって気にならなかった。

ちなみにそのユッキーはといえば、カラのくずかごを倒してそこを入口に見立て、出たり入っ
たりを繰り返し、郁実に見せてやっている。
何が面白いのか、郁実はきゃっきゃと声をあげ喜んでいた。

「ほら、郁実さま〜いないいなーい」
いないと言いながら、尻尾のついたお尻のところを見せているので、郁実は手をのばしそこを
ちょいちょいと引っぱった。
なんとも微笑ましい光景だ。
まあ普通、うさぎは赤ん坊をあやしたりしないが、そんな事はどうだっていい。


むしろ、郁実さえいれば常勝ハッピーなはずの明仁の憂い顔が気になった。
それに父親になりたての義春は、まだ赤ん坊の郁実よりも明仁に向かってお父さんぶって
みたい気持ちもあった。

「お、何や何や〜?おじさんが何でも相談にのったるで、明仁くん」
この子ぐらいの年の男の子の悩みって何やろ…と必死に考えた義春は、やがてひとつの結論
に辿りつき、ポンと手を打つ。
「あっ!分かった。クラスに好きな女の子できたんちゃう?」

自分ではいいセンいってると思ったのだが、明仁は世にも可哀想なものを見るような目つきを
した。
「おじさん…そんな事ばっかり言ってるとさ」
「うんうん」
「郁ちゃんが大きくなった時に父親として尊敬してもらえないと思うよ」
「えっ!アカンかった!?」
「まあ、俺が郁ちゃんに尊敬してもらえるような男になるから、おじさんはありのままでいても
別にいいけど」


言っている事こそ手厳しかったが、実のところ明仁はこの叔父を好いていた。
優しいし懐深いというか、あったかい感じがする。
第一、いくら親戚筋とはいえ、霊能力者である明仁とその使い魔まであっさりと同居を許して
くれたあたり、大物だなあと思った。

あと、まだ聞き慣れないが関西弁の響きも悪くない。
郁実が大きくなって、こんな風に喋ったらさぞかわいいだろうと想像したりもした。

「俺の悩みはもっとずっと深刻なことなんだよ」
「そ…そうやったんか。スマン」
「郁ちゃんの体重が、本に書いてある生後8カ月の平均より750gも少ないんだ…」

ハァ…とため息をついて明仁は郁実を見やった。
いつの間にか郁実は、ユッキーを中に入れたままくずかごを起こしてしまっていた。
中に入っているユッキーを懸命にのぞき込もうとしている。

「なんと…!750gですか。それは大変です。郁実さまにおやつを一日5回差し上げるのは
いかがなものでしょう」
くずかごの中から、くぐもった声でユッキーが意見を述べてくる。

「それもいいな。あともっと栄養のあるものをあげなきゃダメなんじゃないかな。俺はあの
粉ミルクが安物すぎたと思うんだ」
「いやー明仁くん。郁実は見るからに丸々ツヤツヤしてるような気ぃするで」


母親の椿に加えて、この完璧主義の乳母ーズがいるせいで、義春には郁実ぐらい世話の
いき届いている赤ん坊はまたとないように思えた。
だがそんな義春の発言を能天気と受け取ったのか、明仁は眉をしかめた。

「おじさん。大人の大きさで750gは大したことないかもだけど、郁ちゃんはこんなに小さいん
だよ。そんで750g足りないっていうのは大変なんだから。もっと真剣に考えてよ」
「まあまあ明仁さま。男親というのは暢気なものなんですよ」
「えーだって明仁くんもユッキーさんも男の子やん〜」
「俺は性別は男だけど、その実態は郁ちゃんのお母さん的な何かだから」


きっぱりと言い切った明仁はそのまままた郁実に視線を移し……固まった。
自分の見ているものが信じられなかったのだ。
頭の中が真っ白になって、とっさに言葉が浮かんでこなかった。

郁実はくずかごの中に入ったユッキーをもっとよく見たいと思ったのだろう。
くずかごの縁につかまって立ちあがり、中をのぞき込んでいた。
ユッキーは全く気付いておらず、「郁実さま〜ここですよ〜」と愛想を振りまいている。

『郁ちゃんが立った!!!』
と、大声で叫び出しそうになった明仁は、だがその声を喉の奥でなんとか押し留めた。

「あれっ、郁実、立っとるやないか!」
義春のその驚いたような声を合図に、意味が分からないなりに郁実が自分の今の状況を
把握してしまったからだ。
「おおーつかまり立ちゆうやつやな。郁実すごいな」

父親の感心したような声とはうらはらに、郁実は丸い体を縮め、さっきよりも必死の様子で
くずかごにぎゅうっとしがみつく。
体勢が変わったことでバランスも悪くなってしまった。

「おじさん、黙ってて!郁ちゃん困ってるんだ」
くずかごの中を見ようとするうちに意識せずにウッカリ立ってしまったのだろう。
まさに 『ど・ど・どーしよう!?』 という顔をした郁実は、首だけ明仁の方を向くと、泣きそうに
くしゃっと表情をゆがめた。

「あきにー!!」
もはや海で溺れている人のようにくずかごに抱きつき、目にいっぱい涙をためながら明仁を
呼んでいる。
ちゃんと立てば力が入るのに、ヘンな体勢なので足がぷるぷるしているのが分かった。


光の速さで畳を這いずって郁実のそばまで行った明仁は、だがすぐには救助しなかった。
落ちついた優しい口調で、「いーくちゃん」と歌うように呼びかける。
「郁ちゃん、じょうずに立っちできたね。とってもじょうずだよ」
落ちつかせるためにそう言って背中を撫でてやる。
すぐに助けてくれない明仁に苛立ったのか郁実はまたふぇ…と半泣きになった。

「郁ちゃんさっきみたいにお手々でここを持ってごらん。あきにー見ててあげるから」
ぎゅうぎゅうにしがみついていた腕をほどかせて、足もちゃんと踏んばらせると、最初のように
手だけくずかごにつかまって立つことができた。

郁実はびっくりしたように目をまんまるにしている。
大丈夫だったろ?と聞くと、ぅん、と小さく頷いた。
郁実さまがんばってー!とユッキーがくずかご内から声援を送っている。

「今度は、そうっとお手々をはなしてごらん。できるかな〜?」
こわい気持ちよりも好奇心の方が勝ったのか。
郁実は明仁の顔と自分の手元を何度も見比べていたが、やがて小さな小さな手を離した。
青いくまの模様のベビー服に包まれた丸っこい体は、少しぐらついたが、ちゃんと一人で立つ
ことができていた。

明仁は誇らしさと嬉しさではちきれそうになった。
満面の笑顔で「郁ちゃん!」と呼びかけ腕を広げると、驚いたことに郁実は片足を踏み出した。
呼び声につられるように、よちよちよちとほんの数歩だが歩いてみせたのだ。
だがさすがに明仁の所までは届かず、バランスを崩してべしゃっと前のめりに転んでしまう。


痛いというよりは、失敗したと思ったのだろう。
郁実の顔はみるみる曇り、明仁の顔を見ながら、か細く「うえぇぇぇん」と泣きだした。

郁実がいきなり立って歩いたことに茫然としていた明仁は、泣き声にはっと我に返り、これまた
光の速さで郁実を抱きあげた。
ようやく喜びを爆発させられるというように、「いくちゃんが立ったー♪ いくちゃんが歩いたー♪」
と大きな声で歌いながら畳の上をクルクルクルクル回る。

「すごい!すごいよ郁ちゃん。あきにーびっくりしたよ!」
頬にちゅっとキスしてもらって、抱っこしてくるくる回ってもらって、明仁がにこにこしているので
郁実はすぐに泣きやんだ。
「しゅ、ご?」
「うんそう。郁ちゃんは立っちできて、そんで自分のあんよで歩いたんだよ!すごいよー!」

ぎゅうっと抱きしめると甘いミルクの香りがした。しあわせな匂いだ、と明仁は思う。
足元では、くずかごから脱出したらしいユッキーがむせび泣いていた。
「なんという感動でしょう!ああ、子育てって素晴らしい…!!」

さらにはどこから出したのか義春がカメラを構え、明仁と郁実をバシャバシャ撮りはじめた。
「おじさん、ピンボケ厳禁だからね」
「分かっとる。それにしてもキミら二人ともべっぴんやから、どっから撮っても絵になるなあ」
「ほら、郁ちゃん。お父さんの方見てごらん」


そんな茶の間の大騒ぎを聞きつけたのか、開いた襖からひょいと椿が中を覗きこんだ。
「何やってんの、アンタたち…」
取り込んできたらしい洗濯物の入った籠を手に、長い艶やかな髪をひとつに結わえた椿は
大学生と言っても通りそうだ。とても一児の母とは思えない。

「明仁、アンタまた郁実にへばりついて。たまには外で遊んできなさいよ」
「それどころじゃないよ!今大変なことが起こったんだよ」
「椿、今なあ、郁実のやつ立って歩いてんで」
「えぇ!?うそ!」

はしゃぎすぎてさすがに疲れた明仁はぺたんとその場に腰をおろし、膝の上には当たり前の
ように郁実が乗っかっている。
慌てた仕草で椿も畳に膝をつき、小さな郁実の顔をのぞきこんだ。
「ほんとに?郁実立っちしたの?えーお母さんにも見せてよ、おねがい」

「郁ちゃん、お母さんが立っちしたとこ見たいんだって。もっかいできる?」
明仁は膝の上の郁実をゆらゆら揺らしながら、優しい声で問いかけてみた。
たが郁実はいやいやをすると、顔をすりつけながら明仁の腕の中に潜りこんでしまう。

「どしたの郁ちゃん」
「初めて立って歩いたから、お疲れになったのかもしれませんね」
「あ、それか、皆が見てるからちょっと恥ずかしいのかもな」

郁ちゃんには初めてのことばっかりだもんな、とうんうん頷きながら、柔らかな髪の毛に頬を
つけ、その重みを堪能する。
郁実は少し汗をかいていたが、その湿り気すら明仁には成長の証のように思えた。
(かわいいなあ。本当に宇宙一かわいい)
自分を頼り、安心してくれるこの存在を感じると、明仁自身も優しくなっていく気がする。


「ずるーい。お母さんだけ見てないなんてショック」
椿が笑いながらも、わざと拗ねたような声を出した。
すると郁実はサービス精神が足りないと感じたのか、明仁の腕の中でもぞもぞと身を起こし
母の顔を見上げて たどたどしく言った。
「あしたー」

全員が一瞬きょとんとなったが、やがてそれぞれにふき出したり笑み崩れてしまう。
「明日やて。明日ってどういう事か分かっとるんかな」
「一回ねんねなさって起きたら明日ですよねえ、郁実さま」
「でも郁ちゃんて一日に何回も寝るからなー」

椿が腕を差しのべてきたので、明仁は郁実を母親へと手渡した。
もう既に眠そうにしている郁実を抱きしめ、椿は微笑みながら「じゃあ明日ね。郁実、約束ね」
と囁く。
その表情は本当に優しく美しくて、明仁はふと自分の母親のことを思った。


『お母さんは、自分の気持ちを言葉にするのが下手なだけなんだよ。おまえにもいつか分かる
時がちゃんと来る』

兄の千明にそう言われたけれど、そんな日が本当に来るなんて信じられなかった。
母は明仁の事を持て余して、泣いてばかりいた気がする。
それは明仁が人とは違う力を持っているからで、きっと自分が怖いんだろうと思った。
だから、一緒にいない方がいい。
そしたらお母さんは泣かなくてもいいし、自分も怖がられるのはいやだから。

(郁ちゃんには、ぜったい俺みたいな思いはさせない)
うとうとと船を漕ぎだした郁実の顔を見つめながら、明仁は拳をきつく握りしめ心に誓う。
そのために、ここに来たのだ。

何年か先に郁実が能力に目覚めた時、周囲に心ない事を言う人間もいるだろう。
それでも、郁実が自分自身を好きでいられるように。
人を、この世界を、あらゆるものを愛することができますように。
そんな願いをかけながら、いつもそばにいる。


ふと手元にふかふかした感触がしたのに驚いて見れば、ユッキーが明仁の膝の上によいしょ
よいしょとのっかろうとしていた。
「なんだよ、お前。どうした?」
郁実ならともかく、ユッキーが明仁にくっついたり甘えるのは珍しい。

だがその感触は悪くなかったから、何となくそのまま背中の滑らかな毛を撫でてやっていると
雪うさぎは妙に落ちついた声音で明仁にこう言った。

「主、決して忘れてはいけませんよ」
「え?」
「私がお守りしているのは郁実さまだけではないという事を。何十年も後にお別れの日が訪れ
るまで、私は貴方をお守りいたします」

何故、今急にそんな事を言い出したのか。
明仁の心にほんの僅かな寂しさがよぎったのを見透かしたように。
だが問いただす間もなく、雪うさぎはさっさとつぶらな目を閉じてしまう。
それでも契約に結ばれた使い魔の言葉は、肩ひじ張ってばかりいる明仁からすうっと余計な
力を抜いてしまう効果があった。


ほぼ同時に、眠ったとばかり思っていた郁実が突然ぱっちりと目を開けた。
母親の腕の中で「あきにー!」と叫びながら、火がついたように手足をばたばたと暴れさせる。
「ちょ、郁実どうしたの、危ない」
「どないしたんや、急に。椿、明仁くんに渡したり」
「郁ちゃん…?」

再び明仁に抱っこされると、郁実は満足そうにあうーと声をあげた。
「どうしちゃったの?」
顔を近づけ訊いてみると、郁実は小さな手を伸ばし明仁の頬にぺたぺたと触った。
いや、触るというよりもむしろ……

「あきにーなでなで」
「郁ちゃ…」
「いく なでなですゆー」

膝に乗った使い魔と幼な子の心が今度こそはっきりと伝わって、明仁は泣き笑いのような顔に
なった。
ああ、たぶん。生きている限り自分は二度と寂しくはならない。
そういう繋がりだった。
だから、暗い思いなど笑いとばして、愛し愛され生きればいい。
欲しがっても手に入らないものもあったけど、自分にはこの小さなぬくもりがある。
他の誰も持っていないような宝物だ。


「アンタがいいんだって」
呆れたように椿が笑う。
「明仁くん、モテモテやな」
膝に郁実とユッキーをのせリア充の見本と化した明仁を見て、義春も羨ましげな顔になる。
「俺、絶対こん中やったら郁実の好き順位、最下位やわ。切なー…」
「まあ私も明らかに一位じゃなさそうよ」

ややがっくり感のある親たちをよそに、郁実が笑うから明仁も笑った。
その明るい声にユッキーが耳だけぴるぴるっと反応させる。
優しくて、暖かくて、幸せな気持ち。
それをちゃんと伝え返したくて、明仁は郁実に顔を近づけ小さな声でささやいた。

『そばにいるから、そばにいて』

それは、その約束は、この先何年たっても二人の間で決して消えないものとなった。