暖かで気持ちのよい、とある日曜のことだった。

相楽家の庭に面した座敷では、ふかふかのマットにのっかった小さな郁実がころころと
寝がえりをうっている。
最近、こうやって遊ぶのがお気に入りのようだ。

その傍らには、ユッキーが守護神のようにぴったり寄り添っていた。
『離乳食作ってくる間、郁ちゃんから目を放すなよ』と明仁に厳命されたが、小さな郁実は
本当に愛らしくて、いくら見つめていても飽きることなどない。

外見からいえば、明仁も小さい頃はさぞかし可愛かっただろうと思うのだが。
しかしやはり郁実は特別だった。宇宙一可愛い赤ちゃんです、とユッキーは誇らしげに思う。


急に小さな手がユッキーの毛皮を引っ張ったので、イタタタ…と思ったが我慢した。
すると横で仕事休憩のお茶をのんびり飲んでいた義春が、「こらこら郁実、ユッキーさんの
毛ぇむしったらあかん」と紅葉のような手をそっと外させる。
「仲よし仲よしするねんで」

熱中していたことをやめさせられて、郁実は少しご機嫌ななめになった。
「いやぁーゆっきーするもー!」
うぇっえっと抗議のような声をあげるのでユッキーはハラハラしたが、義春は笑って取りあわない。

いつも『アカンことはアカンて教えんとなー』と言う。
まだ右も左も分からない赤ん坊なのにと思うのだが、自分と明仁が甘やかしてばかりなので
これでいいのかとも思う。
郁実に優しい子に育ってほしいのは、皆の共通の願いだ。


「郁実さま、仲よし仲よししてください」
「ほら、郁実、ユッキーさんなでなでしたり、な?」
義春がまた郁実の手をとって、促すようにユッキーの背をゆるりと撫でる。
何度かそうしてから手を放すと、郁実は優しくユッキーの毛皮を撫でてくれるようになった。

「そうや、上手やな。郁実はユッキーさんのことが好きやろ?」
「しゅーきー」
「おおなんともったいないお言葉!私、この命に代えましても郁実さまをお守りいたします!」
「もう、ユッキーさん大げさやなー」
がはは、と義春は能天気そうな笑い声をあげる。
よもや速攻でユッキーの誓いが試されるような事態に陥るとは、誰も予想だにしなかったのだ。



だが突然、背後の庭に不穏な空気を感じて、雪うさぎはばっと振り向いた。
ぞわっと、体中の毛が逆立つ。
痩せてはいるが中型というよりはむしろ大型に属するのではないかという体格の犬が一匹、
ふらふらと庭に入りこんできていたのだ。

首輪はついているが、鎖もリードも何もない。
ハッハッと舌を出しているその犬には見覚えがあった。近所でも飼い方のマナーがなってないと
有名なのだ。
きっと勝手口がきちんと閉まっていなくて、そこから侵入したのだろうとユッキーは考える。

「義春さま!郁実さまを!!」
「こりゃいかん」
慌てて義春が郁実を抱きあげたので、とりあえずは大丈夫だとほっとした。
義春は背が高いので、一旦抱き上げてしまえば郁実の身はかなり安全であるだろう。


そのまま義春は「シッ!シッ!」と犬を威嚇して追っ払おうとするが、ユッキーとしてはむしろ
郁実を抱えたままで犬に近づいてほしくなかった。

「お下がりください、義春さま。こんな犬ころ一匹、私が成敗いたします」
「ちょ…ユッキーさん、いくらなんでも無理やって!大きさが違いすぎるやろ!」
「私の大事な郁実さまの半径3メートル以内に侵入するとはこの駄犬…!なんという身の
ほど知らずな…!」

ユッキーの怒りはMAXに達していた。
あんなに小さくてか弱く愛らしい郁実に危害を加えようとする輩など許しておけるはずもない。
ましてや、この自分がそばに控えている今!である。
思い知らせることなく帰したりしたら、主に会わす顔がありませんとユッキーは思った。


背後で郁実を抱いたまま、どうすべきか逡巡していた義春は、立ちふさがったユッキーの小さな
体がゆらっと揺らめくのを見た。
驚いているうちに雪うさぎの輪郭はぐにゃりと崩れ、ぶわっと大きく大きく膨張する。
「え、ええーっ!?ユッキーさん!!?」
息をのんで見つめるうちに、不定形になった大きな塊は急速に新しい形を整え始めた。
警戒するように庭にいる犬が唸り声をあげている。

義春ははっとして腕の中の郁実を見た。
だが郁実は泣いてもぐずってもいなかった。ただじーっと小さかったはずのユッキーが変化してゆく
のを見つめている。
(怖ないんか…郁実のやつ)


そうしているうちに、犬と義春・郁実の間に堂々と立ちふさがったのは、なんと翼のある巨大な
白い獅子であった。
ユッキーが使い魔であるのは理解しているつもりだったが、こんなファンタジーな姿に変化するとは。

(うわーCGみたいやなー次の小説に出したいな)
だがそれを見ても腰を抜かすこともない自分が、普通の人間としては規格外だということに義春
本人は気づいていなかった。


恐るべき威圧感を発しながら、白い獅子は金色の瞳でジロリと犬を見降ろした。
じり…と犬が後ずさる。
そんな犬に向けて獅子は四つ足で立ち、突然ガオオオオオッッッ!!!!!と咆哮した。
それは家全体が震えるような、ひと声だった。

すでに自分が格下の格下のそのまた格下だと気づいて尻尾を垂らし平伏している犬に、獅子は
0.01秒で肉薄した。
大きな太い前足で、痩せた犬を横払いになぎ倒す。
ギャイン!!と鳴き声をあげて庭石にぶつかった犬は、だが次の瞬間、命には替えられぬと思った
のか見事な逃げっぷりでその場からあっという間に走り去っていった。


「またつまらぬものを斬ってしまいました…」
獅子の姿のユッキーは、先日アニメで見て気に入ったセリフをニヒルに呟いてみた。

だが一時の怒りが収まってみると、自分の姿に郁実が脅えたであろうことは容易に想像がついた。
そもそもうさぎの姿に変更したのだって、郁実を怖がらせないためだ。
義春にしがみついて泣いているであろう郁実に胸を痛めながら、ユッキーはおそるおそる背後を
振り向いた。

だが、郁実は泣いてはいなかった。
脅えている様子もなく、義春の腕の中からじーっとこちらを見つめている。

少し迷ったが、ユッキーはとりあえずその姿のまま、座敷にあがってみた。
義春の足元に座り、高い位置にいる郁実を無言で見上げる。

すると大きな黒い目を見開き、郁実はきゃきゃっと笑いながら言った。
「ゆっき。ゆっき」

「おお…郁実さま、この姿でも私だとお分かりになるのですか!」
「みたいやなーユッキーさんがおっきなっても、吠えても、全然怖がらんかったで」
こいつ案外大物かもしれんなーと、呆れたような口調で義春が言う。



その時、明仁が「郁ちゃーん、ご飯できたよー」と言いながら座敷に入ってきた。
郁実を抱いて立っている義春と、その足元に座る獅子の姿のユッキーを見て目をまるくする。

「うわっ!おまえ何でその姿になってんだよ」
「明仁くんは、ユッキーさんのこの姿、見たことあったんや?」
「見たことあるもなにも、ここに来るまでこいつはずーっとこの姿だったんだけど」
「えっ、ほんまかいな」

何があったんだよ?と尋ねる明仁に、ユッキーはさっきの出来事を簡単に説明した。
見る見る明仁の眉間に気難しげなしわがより始める。
「あの駄犬、俺のかわいいかわいいかわいい郁ちゃんの半径3メートル以内に入るなんて!」
郁実に関しては同一の思考回路を持つ主従コンビから出るセリフは、これまた似たようなもの
だった。

「で、生まれてきたのを後悔するような目にあわせてやったんだろうな」
「ちょ…明仁くん…めっちゃ怖いんですけど…」
「はい、主。とりあえずアバラの2・3本は折れたかと。ですが敵も逃げ足速く、残念ながら
そこで取り逃がしました」
「あとでちゃんと呪っとけよー」
「ハイ、犬も飼い主もねっちょりと」
「ちょー飼い主まで呪わんでもええんちゃう!?ていうか、冗談やんな?なっ?」
「臭いモノにはフタをするだけじゃだめに決まってるだろ、義春おじさん」


義春の腕から郁実を抱きとりながら、「ねー郁ちゃん」と明仁はすべすべのほっぺたに自分の頬を
くっつけた。
小さな郁実にこの世界が素敵な所だと思わせてあげたくていつも頑張る明仁だったが、日常には
危険がいっぱいだ。
俺がちょっと目を放したスキにもうこんな事が起こってるし!と心の中で舌打ちする。
だが郁実は興味津々な様子で、獅子の姿のユッキーを見ている。

「それにしても、お前見てよく郁ちゃん泣かなかったな」
「泣くどころか、主!郁実さまはこの姿でも私だとお分かりになっているんですよ!」
「えっ、ほんとかよ」

半信半疑のまま、明仁は抱っこした郁実をユッキーに近付けてみた。
「郁ちゃん、これだーれだ?」
すると郁実は小さな手でユッキーの鼻先をぺたぺた撫でながら、「ゆっき」と言う。
「ゆっき、なかよ、し」

回らない舌で、さっき教わった言葉をもう使っている郁実に、ユッキーはくうっとむせび泣いた。
「ああ、郁実さまはなんて賢いお子なんでしょうね!私、カンゲキです!」
「すごい!郁ちゃんは心の目でものを見てるんだな!」
「こ…心の目…?なんやのそれ…」
弱々しくツッコむ義春だったが、それを気にもとめずに主従コンビの大フィーバーは続いている。



……ああ、それでも。
郁実が生まれた途端、奇妙な家族構成になってしまったが、それでも。
いつまでもこんな風であればいい、と義春は思う。

この子が大きくなって、本当に自分の能力に苦しむ日が来たとしても。
明仁とユッキーが変わらず郁実を愛し支えてくれたなら、どんなに嬉しいことだろうか。

「仲よし仲よしでおるんやで…」


え?なにか言った?おじさん、と振り向いた明仁に、いやなんにもないよと笑い返す。
先のことは誰にも分からず。
それでも何となく、この主従コンビはずっと郁実のそばにいてくれるような気がしていた。
それが自分の勝手な願いだったとしても。
10年後、15年後の彼らが自然と想像できてしまうから、能天気に大丈夫と思えるのだ。


だから義春はくすりと笑うと、暖かな日射しの下にいる三人に内緒で未来の姿を透かし見た。
ずっと小さいままでいてほしいとも思ったが。
未来のそれは、やはり胸躍らされるようなヴィジョンであった。