「ほら、明仁。もういい加減機嫌なおせ。一晩だけでいいから。明日の夜には兄ちゃん
送ってってやるから」

兄の千明に懇願するように言われても、隣を歩いている明仁は黙って俯いたままだった。
大晦日の夜。キンと耳鳴りのしそうなぐらい寒い。
あと数時間で新年を迎えるという時間なのに、明仁は相楽家のこたつで紅白を見ている
のではなく、実家へ連れ戻されようとしていた。

ニット帽をかぶせ、襟元もマフラーでぐるぐる巻きにしてやったが、弟が寒いのではないか
と千明は心配になる。
いくら近いからとはいえ、大晦日の夜だ。
やはり父に車を出してもらえばよかった。
だが父が一緒に来ると、帰りたくないという明仁の願いを最終的に容認しそうで危険だと
考えを巡らせたのだ。


なにしろ明仁は家を出て相楽家の居候になってから、一度も実家へ戻ったことがない。
郁実が生まれて初めての去年の正月など、テコでも動かなかった。

今年なんとか引っ張り出すことに成功したのは、郁実の母親・椿の説得があったからだった。
いくら郁実と明仁が特殊な繋がりを持つとはいえ、両親がちゃんといる小学生が他家に居候
するなど普通では考えられない。
その点、椿は非常に気を遣っているようだ。
特に明仁を家から出すことを頑強に反対した母の遥名(はるな)の気持ちを少しでも和らげ
たいのだろう。
一晩だけでいいから、お家に帰ってお父さんとお母さんとお兄ちゃんと過ごしていらっしゃいと
やや強引なまでに説き伏せてくれたのだ。


「明仁が帰ってくるからさ、お母さんいっぱいご馳走作ってくれてるぞ。カニも買ってあるから
鍋しような」
だが、千明とは血の繋がらない父にそっくりな可愛い弟はにこりともしてくれない。
内心凹んできた。
さすがにマズイと思ったのか、明仁が腕に抱いていた真っ白なうさぎの姿の使い魔がとりなす
ように言った。

「主、カニですって〜お好きですよね。ねっ!?」
「ユッキーにも果物たくさん買ってあるぞ。好きだろ?」
「ありがとうございます、千明さま。主、郁実さまが心配なのは分りますが、ここは是非大人に
なって!そんな不機嫌そうな顔をしてはいけません」

「俺、子供だもん」
相楽家を出てから初めて明仁が口をきいた。
「勝手なのは大人の方だろ。俺はいやだって言ったのに。郁ちゃんを置いてくるのなんかいや
だったのに」

語尾が震えている。弟が泣きそうになっているのに気づいて千明は焦りに焦った。
明仁は家に帰るのがいやなわけではないのだろう。
ただただ郁実が優先なだけなのだ。あきれるほどに。

もうこの子にとって『家』というのは、郁実がいる場所になってしまっている。
寂しがっているのは自分たちの方で、そのために明仁を無理に引っ張ってきてしまった。
そう、勝手なのは大人の方だ。
苦い気持ちがこみ上げる。

だが、それでも自分たちが明仁の家族だということを忘れてほしくなかった。
『あの子はたぶん、もうこの家には戻ってこないと思うよ…千明』
父の予言めいた言葉を覆したかったのだ。
自分は心のどこかで、あんなに小さな郁実と張り合っているのかもしれない。
勝てる見込みのない一人相撲だと、知っていてもなお。



「そ…そうだな。でも郁実がちょっと寝て起きたらもうお前帰ってきてるよ。あの子はあんまり
泣かないし、扱いやすい赤ちゃんじゃないか」
「おやっ!?」

千明の語尾にユッキーのおかしな声が唐突に重なった。
見れば明仁の腕に抱かれていたはずのユッキーが宙にほわん、と浮かんで、その下には
きらきら光る緑色の宝石のようなものが四つ葉を形づくっていた。

「おやおやおやっ!!?主…これはもしや…」
「契約印だ!郁ちゃんがお前を呼んでるから召喚されかかってるんだよ!」
「な…なんと。郁実さま、やはり私たちがいないので泣いておられるのでしょうか。どうやら
色んな意味で見通しが甘かったようです」

「ど・どーなってんだこれ?」
「俺の左掌と郁ちゃんの右掌にはユッキーの契約印が埋まってるんだ。呼べばそれを媒介に
してユッキーを召喚できる」
「えーと?つまり郁実がユッキ〜って泣いてるから、ウッカリそっちへ呼ばれて飛び出ちゃい
そうになってるのか?」
「そういうこと」

言ってる間にも、ユッキーの体は四つ葉の真ん中の空間にぐいぐいと引き込まれてゆく。
「あ、これはもう抵抗しても無理なんで!行かせていただきます主」
「分かったよ。主の召喚に逆らえるわけないからな」
「ご理解いただけて幸いです。千明さま、ビックリさせて申し訳ありません」

呆然としながら千明が見守る中、ユッキーはとうとう掃除機の口に吸い込まれるような態で
姿を消していった。
「よいお年を〜」という叫びを残して。

元々ユッキーの突出した能力のひとつは境界に関するものと聞く。
空間と空間を繋げることなどお手のものらしいし、もう一人の主である郁実の傍にあっという
間に到着していることだろう。

だが、ユッキーだけが戻っても、郁実を泣きやませることができるんだろうか。

複雑な思いで千明が弟の方を振り向いた瞬間、目と目が合った。
薄暗がりの中でも明仁が決然とした顔をしているのが分かる。
あ、と思わず手を伸ばしかけた、それより早く。

「ごめん、兄ちゃん!!」
明仁はくるりと踵を返すと、今来た道を脱兎のごとく駆け出していった。
「うわ、おい、明仁!!?」

小さくなる背中、走ってゆく、走ってゆく、自分が唯一と決めた人のところへ。

つられるように千明も走り出した。
小学生と高校生だ。本気で走ったらすぐに追い付くに決まっていた。
だが、千明は走りながら携帯を取り出し、父の番号をコールする。

『…千明?』
「父さん!ごめん、だめだった。途中まで来たんだけど」
『どうしたんだ?』
「郁実が泣きながらユッキーを呼んだみたいで、ユッキーはあっちに召喚されちまうし、それ
見て明仁も帰ろうとしてる……家に」

家に。悔しくてそんなこと言いたくなかった。
でもあの子はもう選んでしまっている。どうしようもないのだ。父があの日自分に言ったように。
小さな後ろ姿は、いくら走っても不思議と近くならなかった。

『いいんだ。それにお前が帰ってこいって言ってやるのが大事だし』
「…父さん?」
『お前が、いつでも帰ってきていいんだぞって言ってやるから、明仁は安心してられるんだよ』
「……」
『いいお兄ちゃんだな、千明は』


どうだろう、そんな風に言ってもらえるほど、自分はいい兄貴だろうか。
自分の決めた道を迷わず走ってゆく明仁の方がずっと大人なように思えた。
『家族』というカテゴリーに拘りすぎるのは、自分が抱える爆弾みたいな弱みだ。
だが、血の繋がりだけが家族じゃないのも知っている。
今、電話の向こうにいるこの人が、昔小さな自分を抱きあげてそう教えてくれたのだ。

「……父さん、明仁に会いたいならこっち来てくれる」
「そうだな。遥名さんに聞いてみるよ」
「もし来るのなら、カニと…あと貰い物のたっかいマンゴーあっただろ?あれ持ってきて!」
「分かった分かった。伊勢エビもいるか?」
「いる。俺が食べるから」



電話をしながら走るのはかなり消耗した。体力落ちてんな、と舌打ちする。
見えてきた相楽家の門前では明仁がチャイムを鳴らしまくっていた。
千明が弟に追い付いたと同時、ガラリと扉を開けてくれたのは郁実の父親・義春だった。

「あーやっぱり帰ってきてもうたんか。千明くんまで」
明仁はものも言わずに義春の横をすり抜け、靴を脱ぎ散らかしながら中に入ってゆく。
遠くから、うええええぇぇぇん…!と郁実が泣いている声がした。

「ユッキーさんを郁実が召喚してもうたんやな。いきなりポーン!て出てきてびっくりしたわ」
「でもまだ泣いてる」
「そうやなあ。やっぱり明仁くんを連れて行かれたん怒っとるみたいやで」

寒い中を走ってきていきなり暖かな室内に入ったので、眼鏡のレンズが曇った。
眼鏡を外し、大雑把に拭きながら千明は靴を脱ぎ、義春を見た。

「俺、今日泊めてもらっていいですか、義春おじさん」
「いくらでも。大歓迎やで」
「後で人数増えるかもしれません」
「かまへんよ。俺は賑やかな方が好きなんや。一人っ子やったからかなあ」



この家の間取りはよく知っている。居間へと数歩歩けば明仁が宥める声が聞こえてきた。
「郁ちゃん、郁ちゃん。あきにー帰ってきたんだよ。ごめんね、寂しかったね…」

部屋に入ると郁実は明仁にしがみつきひどく泣きじゃくっていた。
傍らではユッキーがおろおろと様子を伺っているが、明仁はもう優しげな笑みになっている。
郁実を抱っこして軽く揺すりながら、頭を撫で背中を撫でていた。

紅葉のような手が明仁の服をぎゅうっと掴んでいるのを見て、千明は恥ずかしくなった。
郁実の世界はまだとても小さなもので。
そこから、いつも一緒の明仁を引き剥がしたのだ。
怖いし、どうしてなのか分からず、郁実はただ泣くことで懸命に意思表示をしている。

それもこれも、自分が一番ちっちゃい子に我慢をさせようとしたからだ。
まだ、良いも嫌も言えない赤ちゃんに。思いやりがないもいいところだった。


「郁実……」
えぐえぐとしゃくりあげる郁実に思わず手を伸ばすと、黒い大きな目が千明の方を見た。
そのまま、また顔をゆがめ火がついたようにわっと泣きだしてしまう。
抗議行動再開、としか思えなかった。

「うわー……俺きらわれたかな」
頭を抱えると、傍らのユッキーはため息をつきながらみかんを器用に剥きはじめた。

「郁実さまのお気持ちを代弁いたしますに 『いいひとだとおもってたのに、あきにーつれて
いったからわるいひとだった!』 ってとこですかねー…」
「でも明仁は毎日学校とか行くだろ?その時はむずがったりしないのに」
「今日は明仁さまが嫌がっていたからでしょう。郁実さまはまだ言葉はよくお分かりになり
ませんが、そういう事には聡いお子ですから」


「ほーら、郁ちゃん。そんなに泣くとお目々が溶けちゃうよ。ふきふきしよっかー」
反省し打ちひしがれる兄を放置して、明仁は郁実を揺すりながらガーゼのハンカチで涙を
優しく拭ってやっている。
感心するぐらい手慣れたものだ。

最初、郁実と一緒に暮らし郁実の世話もして守ってあげるんだと弟が言ったとき、そんな
事ができるものかと思っていたのに。
結局、明仁が本気だと理解していたのは父だけだった。
だからあの人は、明仁がもう戻ってこないだろうと言ったのだ。
寂しそうに切なそうに、微笑んではいたけれども。



泣き疲れたのか、機嫌がなおってきたのか、郁実はうにゃうにゃと訳の分からない言葉を
明仁に向かっていくつも発した。
まるでその意味が分かるかのように、明仁は首を傾け、うんうんと頷いている。
それから郁実は弟の膝に座るような形によいしょと抱き直され、千明の方へと向けられた。

「え……と…?」
「郁ちゃんもう怒ってないんだって。だから兄ちゃん抱っこしてやって」
「そ、そうなのか?」

「うん、でも後でプリンか何か食べさせてあげるともっと機嫌よくなると思うんだけど」
「そうか、プリンか。よし、兄ちゃんが作ってやる!」
「大晦日の夜にわざわざそんなの作んなくても、冷蔵庫に入ってるよ兄ちゃん…」
「なに言ってんだ。お前も好きだろ?俺の作ったプリン」

その瞬間、明仁が虚をつかれたような、照れくさそうな顔をした。
ああ、可愛いな、と千明は笑う。
いくつになってもこの子は自分の弟だ。


明仁の喜ぶ顔が見たくて自分は昔から色んなことを頑張ってきたのに、いつの間にか弟は
笑顔を見せなくなってしまった。
霊能力者と認定され、いずれ判明する霊視能力者を守らなければならないと知らされてから
いつも陰鬱な顔をしていた。

一族の人間には異端視され、母も自分も本当には明仁の辛さを汲んでやれなかった。
どう接してやれば一番いいのか、それすら分からずにいたと思う。

だから今、笑ってるのが嘘みたいだ。
膝の上で郁実が笑うと、明仁も笑う。ユッキーも笑っている。

(ああ、お前が幸せなら、もうそれでいいんだよな…)
(兄ちゃんは兄ちゃんのやり方で、お前の幸せを支えてやるよ)
(郁実ごと、まるごと全部だ)



「よーしおいで郁実。ちー兄ちゃんがなんでも作ってやるからな。それともジュースの方が
いいか?おみかんとーりんごとーバナナのジュースな」
「うまうまー?」
「そうそう。おいしいんだぞー?」
「ちーにーうまうまー」
「お、郁実が俺のことを呼んだぞ!賢いんだな郁実は。天才じゃないかな」

抱きとって立ち上がり、高い高いをしてやると郁実はきゃっきゃと声をあげて喜んだ。
そのまま頬ずりすれば、当たった眼鏡が珍しいのか、小さな手でぺたぺたとレンズを触る。

その黒い大きな瞳には、日々新しい感情が生まれている。
あと10年もすれば、母親の椿同様にこの子にも霊視能力が発顕し、見なくてもいいものを
否応なく見るようになるのだと聞かされた。

澄んできらきらしている赤ん坊の目を見つめ千明は胸を痛めた。
なんという運命だろう。

だが、明仁がいる。
弟はきっと、郁実のことを守っていくだろう。
郁実がこの世界を愛せるように…そして、生まれてきたことを嘆かぬように助けるだろう。




すっかり仲直りをした千明と郁実がキャッキャウフフしている横で、主従コンビは何やら遠い
目をしてひとつのみかんを分けあっていた。

「千明さまって黙って立ってればクールでやり手な眼鏡の副会長的外見なのに、なんで
あんな保父さんみたいな性格なんですかね…」
「まあな…よくそれで彼女に振られるんだってさ…」
「しっ!主、そんな本当のことを口に出してはいけません」
「いいんだよ。兄ちゃんの良さが分からないような女なんかこっちが願い下げだから」
「主もたいがいブラコンですよねえ…」


そこへ大きな鍋を持った椿と盆に器や箸を乗せた義春が入ってきた。
「さあさあ、とりあえず年越しそばやで〜」
「明仁、みかん食べるのやめなさい。千明は上着脱いで。郁実は一回座らせてやって」

言われたとおりに郁実を赤ちゃん椅子に座らせてやりながら、椿をちらりと見やると『しょうが
ないわねえ』というような苦笑が返ってくる。
鍋のフタをとるとほわあっと湯気が上がり、子供たちは嬉しそうに顔をほころばせた。
郁実が「まんまー」と言いながら、小さい手を振りまわしている。

「郁実にそばはまだ無理やなあ」
「もうちょっと大きくなったら、お餅もおそばもカニも食べられるようになるよ」
「そうだ、父さんにカニ持ってきてって頼んどいたぞ。お前好きだから」
「ほんとに?お父さん明日ぐらいに来るかなあ」
「お母さまも来られるんじゃないですか、主」
「うん……来てくれるかな…」

小さな声で明仁は、胸の願いを口にした。
寂しくないわけじゃない。母親が恋しい日もあるのだろう。
(母さんもなあ、もうちょっとこう感情をうまく出せるといいんだが)
あれも性格だ。明仁が理解できるようになるまでまだ時間がかかるだろうと千明は考える。

だが、この子たちが大人になるのなんかきっとあっという間だろう。
明仁は父にそっくりだし、郁実も椿によく似ている。
二人ともビックリするぐらいかっこよく育つんだろうな…とそばをすすりながら想像した。



疲れたのか、やがて郁実は赤ちゃん椅子にもたれてウトウトと船を漕ぎだした。
箸を止めた明仁が、郁実を抱きあげ、「兄ちゃん、その毛布広げてくれる」と頼む。
軽くて柔らかな毛布にくるんで寝かせてやると、千明と明仁とユッキーは赤ん坊の顔を
覗きこみながら「可愛いなあ」と笑いあった。

「次に目が覚めたらもうお正月だよ。郁ちゃん」
「郁実さまが大きくなった姿も見たいですが、いつまでも小さいまんまでいて欲しいような
気もしますねえ…」


明けましておめでとう、今年もよろしくお願いします。
そう郁実が言うようになる頃には、もう自分は社会人になっているだろう。
そしたらこいつらにお年玉をやらないといけないな。
郁実は義春おじさんみたいに関西弁で喋るようになるかもしれない。それもきっと可愛い。

次から次へと未来に思いをはせながら、千明は眠る郁実の頬をそっと撫でた。
新年が、愛しい子たちに良いものばかりをくれますように。

そう願いながら、旧い年と新しい年の境界を越える瞬間をただ静かな気持ちで待った。