Scene1. 白 (柳蓮二)


もうとっくに日は落ちていた。昼間吹いていた風も止まった。


ジュニア選抜合宿のために提供されたこの広大な施設は、当然夜間の練習も可能だ。
あちこちに点在するコートには、全て照明が入っている。
だが初日である今日から、そう無茶な練習をしようとする人間はいないらしかった。
少なくとも、今俺が捜している人を除いては。
遠く聞こえていたボールを打ち込むスパーンという音は、俺が歩みを進めるごとにはっきりする。


榊監督の指導の後は自主練に切り替わったから、貞治は今日の試合のデータをまとめたくてたまらな
かったらしい。一人、さっさと自室へ引きこもってしまった。

不二と佐伯、そして勿論俺自身のデータをいっぺんに取れるというのは、あいつにとってこの上ない機会
だったのだろう。それは分かる。
(……だが、うかつにも程があるだろう、貞治)

もう8時近いのに、彼は一人で練習を続けていた。
遠目に彼が頭に巻いたバンダナが視認できて、俺は彼を捜し当てられた事に内心安堵する。

貞治の97%はのろけとしか言いようがない彼の情報から、まだ練習をしているだろうと当たりをつけたの
だが、なにぶんこの施設は広すぎた。
自由に動き回っている人間を見つけるのは至難の業だと思っていたのだ。



煌々と照らされるコートに一人立つ彼は、ずっとサーブを打ち込んでいたらしく、ネットの向こう側には
黄色のボールが山のように転がっていた。
(……ああ、確かにリーチが長い。まだ身長も伸びそうだ。今からもっと強くなる)

近づいた俺に気づかずに彼は、きれいなフラットサーブを一本打ち込んだ。
あれだけの数を今まで打っていながら、まだなお続くこの集中力と持久力は驚異的だ。

だが、長時間やみくもに練習を続けるのは感心しなかった。
そうせずにいられない彼の気持ちは分かっていたが、そろそろ止める頃合だ。


「…もう少しスタンスを広げてみるといい」
何の前触れもなくフェンスの外からかけられた声に驚いたのか、彼…海堂薫は警戒心の強そうな目で
俺を見た。
誰に話しかけられているのかに気づくと、さらに訝しげな顔になる。

「リーチが長いからな。トスも打点も今より高目を意識して打ってみろ」

唐突にそう言われたのに、彼は逆らわなかった。何も答えなかった。
ただ言われた通りスタンスを少し広げ、その背中に引き絞るような集中が感じられた瞬間、俺が考えて
いたよりずっと威力のあるサーブが、ネットの向こう側へ吸い込まれた。

「ノータッチエース、というところか」
助言した俺が内心舌を巻くようなサービスだった。
『乾いた砂みたいに教えた事を吸収していく』と貞治が言うのも無理はない。

「今のは、よほどの選手でないと拾えないだろうな」
「アンタなら何てことないっすよ、柳さん」

低い声でそう言ってから、彼はぶっきらぼうにありがとうございましたと付け加えた。
まともに彼と言葉を交わしたのは、これが最初だった。
人見知りだが礼儀正しいと、そういえば貞治が言っていたな。


『俺なんかを好きになってくれて、いつも傍にいてくれる。  優しくて努力家で、心のつよい人なんだ』

4年以上離れてすれ違っていた幼馴染は、あの頃とひどく変わって見えた。
安定しているとでも言えばいいのだろうか。
ずっと言葉を交わさなくても俺たちは互いを意識していたし、俺もあいつのデータは詳細に取り続けて
きた。

だが数字に現れない部分の変化が、貞治の心を安らげ強くしたのだと知ったのは、本当に今日だった。
合宿で顔を合わせ、思いがけずダブルスを組まされた時。

ギャラリーは皆、俺たちが作戦会議をしているとでも思っていたのだろうが、実はあの時俺は頭がおかしく
なりそうなほど海堂についてののろけ話を聞かされていたのだ。
(今日聞かされただけで、彼のデータノートが1冊できそうだな…)



扉を開けてコート内に入ると、俺は夜間の白っぽい照明に浮かび上がる彼の姿を見つめた。
凛とした、とでも言えばいいのか。ひどく鮮やかな印象を受ける。
汗を吸ったバンダナを外すと、ぶるっと頭を振ってくせのないきれいな髪を露わにした。

「何か用っすか」
「…ああ、勿論用があるから捜していたんだ。だがまずは片付けよう。それからだ」

どうやら聞いていた以上に喋るのが苦手らしい。
彼はひどく困ったような顔をしたが、よほど無理な事を言われない限りは年長者を立てる性格らしい。
軽く頷いてカラのボールかごを持ち上げネットの向こうへ歩き出す。
(意外と素直なんだな。俺の顔など見たくもないだろうに)


呆れたことに、昼間の試合の間中、彼がどんな顔をして俺たちを見ていたのかに貞治は気づいていな
かった。

海堂は、自分の中に芽生えてしまった感情を、必死で押しつぶそうとしているように見えた。
彼は貞治の気持ちを疑っているわけではないだろう。
それでも「ただの幼馴染だ」と言われて、ああそうですかと言えるほど人の心は単純ではない。

好きな相手に、自分以外にも特別な人がいるのはつらいことだ。
同じ思いをしたことがある俺には、それが痛いほど分かっていた。


『…なかったことにしようとした。何かの気の迷いだと。だがどうにもならん。お前が好きだ、蓮二』
俺の中に今も響いている、感情を抑制した、だが熱の籠もった声。
だがあの男にはもう一人大事な人がいて、その人は俺にとっても大事な人で。

それでもつらかった。恋ではないと何度言われても。
俺があの男の唯一になる日は、きっと永遠に来ない。


「……柳、さん?」
けげんそうな低い声に、はっと現実に引き戻される。
彼は持っていたボールかごをあっという間にいっぱいにしてしまったらしく、俺が握りしめたままのカラの
かごをじっと見ていた。

「どうかしたんすか…なんか」
「うん?」
「すげー痛そうな顔、してた、今」

子供が口にするようなシンプルな言葉。だが意表をつかれ、俺は目をみはった。
俺が何を考えているかなど、誰にも分からせないし分かりはしないだろうと思っていたのに。
ほとんど初対面に近い彼に悟られるとは。
(いや…分かったんじゃないんだな。ただこの痛みだけを感じたのか)

だが、彼はいけない事を言ってしまったかとでも思ったのか、慌てて俺の手からボールかごを奪い取り
早口で言った。

「すんません、余計なことを。柳さんはあの人に似てっから…」
「あの人…貞治に?」
「痛くても我慢すんじゃねえかと思った」

そう言って、彼はまたネットの向こう側へ歩いて行く。
その背中を俺は少しの間驚いたように見ていたが、やがて彼と一緒にボールを拾い始めた。
奇妙な沈黙が流れたが、俺はそれを嫌だとは思わなかった。



俺の幼馴染がどんな寂しさを抱えていたのかを、あの頃、子供ながらに俺はよく知っていた。
なまじ貞治がしっかりした子供だったのが、まずかったのかもしれない。
あいつの親は、能天気なほどの信頼を貞治に寄せていた。

確かに物質的な見地から言えば、何でも欲しい物は買い与えられていたし、束縛もない。
だが、それを寂しく思わない子供がいるだろうか?
(しっかりしていて、わがままを言わない、一人で何でもできる、問題も起こさない子供)

毎日一人でする食事。病気になれば保険証を持ってさっさと病院へ行く。
誕生日もクリスマスも、約束をしてはすっぽかされるうちに、あいつは期待をしなくなった。

だがそんな貞治も、俺とテニスをしている時だけは楽しそうだった。
ずっと一緒にテニスをしよう。二人でなら世界だって相手にできる、と口癖のように言っていた。

引っ越すことになった時、俺はあいつに言えなかった。とても言えなかった。
おまえを一人残して行くのだと。
それが長い長い年月、おまえの心を凍らせてしまうと分かっていたのに。




二人で食堂へ行ってみると、もう全員食事を済ませたらしく閑散としていた。
向かい合って席を取り、お茶を淹れると、彼はきちんと手を合わせて「いただきます」とつぶやいた。

しばらくは二人とも黙々と箸を動かしていたのだが、さすがに彼は俺が何の目的で近づいてきたのか
気になっていたのだろう。
口の中の物を飲み込むと、言葉を選ぶように言った。

「用があるって言ってたっすよね、柳さん」
「うん?ああ、蓮二でいい」

そう俺に言われて彼はひどく驚いた顔をした。
人見知りが激しいから、初対面の相手を名前で呼ぶというのは、結構難しい作業なのだろう。
だがデータによれば、基本的には年長者に逆らわないはず。そして…

「んじゃ…蓮二、さん……」
そうぼそっと呼びかけた後、俺も別に薫でいいっすと彼は俯きながら言ってくれた。

(データ通りだな。上手くいった)
俺から名前で呼んでいいと言われれば、礼儀上彼も同じ事を言わないわけにいかなくなる。
貞治が悔しがる顔が脳裏に浮かんで、俺は内心ほくそ笑んだ。


「そうか。まあ俺は、薫と話がしてみたかっただけなんだが」
あっさり呼び捨てられて彼は一瞬びくんとしたが、言われた事を吟味するように眉を寄せた。

「話って…乾先輩の事っすか?」
「それもあるが、貞治があれだけ自慢する大事な恋人の事を知りたいだろう?」
俺にそう言われ、今の今まで美しい所作で食べ続けていた彼は、皿の上のミンチカツにいきなり箸を
突き刺してしまった。

「てか、おかしいとか思わないんすか!?フツウの組み合わせじゃねえし」
「いや?貞治はかなりおかしかったが、幸せならば別に構わんだろう」
「イヤ、俺が言ってんのはそういう事じゃねーっす…」

アタマいい人って皆こうなのか…?と彼が唸るように呟くのを見て、俺は笑った。
「俺に言わせれば、あいつが誰かを心から好きになれたことも、それを受け入れてやる人が現れた事も
驚異的だ。他は瑣末な事だと思うがな」


考えている事をなるべく上手く話そうとしているのか、彼は気難しそうな顔で黙りこみ、やがて言った。
「アンタ、先輩をすげえ大事に思ってるんすね…多分、あの人も同じだ」
「…本当は許されるとは思ってなかったが。離れてからこっち、別に一度も貞治と顔を合わせなかった
わけじゃない。だが、あいつは俺と話そうとはしなかった」

俺はそれだけの事をしたんだから当然だなと呟くと、彼は強い調子で首を振った。
「違う、あの人は蓮二さんを忘れたことなんかなかった。写真…見せてくれた」
「写真?」
「遠征試合…ハワイの大会の。優勝したんすよね」
「ああ、やはり全部話してるんだな。じゃあ分かるだろう?薫がいてくれるから貞治は変わったんだ。
俺のことも許せたし、戦って勝てた」


一番残酷な形で貞治の前から去った俺は、あいつの親よりもっとひどかったのかもしれない。
離れるのは仕方なくても、ちゃんと話をして、遠くにいたって付き合って行けたのに。

あれから、試合でたまに見かける貞治は、淡々として見えた。
他の連中はあれが素だと思っていたのだろう。だが俺にはあいつの中で何かが死んでしまっている
ように思えた。
だが今は、彼がいる。貞治が本来持っていた情熱をちゃんと受け止めてやれる人が。



「薫があいつを変えた。貞治には薫しかいないんだから、俺なんかを気にして悲しそうな顔をする必要
はない」
静かにそう言ってやると、彼は泣きそうに表情を歪めた。

昼間の試合の間、彼はずっと俺と貞治を目で追っていた。
実際はただのろけ話を聞かされていただけだったのだが、貞治はひどく嬉しそうに笑っていたし、端から
見れば、絵に描いたような仲の良い幼馴染に見えたのだろう。

「俺、そんなに顔に出てたっすか。女々しいっすね」
「いや、俺以外は気づかなかったと思うが。それに女々しい事か?」
「…え」
「好きな相手を独占したいのは当然だろう。俺にも覚えがある」
「蓮二さんも…っすか…?」


今この瞬間にも、胸は痛んでいる。俺だけを見て欲しいとは絶対に言えない。
痛くても我慢し続けるような恋を、何故俺は選んでゆくのだろう。


「薫が言ったとおり、俺はずっと我慢してる。俺の好きな奴にはもう一人大切な人がいて、その人は俺に
とっても大切な人なんだ」
「…なんで俺にそんな事、話してくれるんすか」
もはや食べる手を完全に止めてしまった彼が、キツいぐらいの眼差しで問いかけてくる。

そうだな、俺も本当は意外だった。
本心なんて誰かに語る必要はないと思っていた。
なのに、何故こんなに馬鹿正直に自分をさらしているのだろう。
だが彼は誰かに喋って回るようなタイプではないし、俺ももう限界にきていたのかもしれない。

貞治に負けた時、もう許してもらえないだろうと思った。
約束を…したのは俺ではなかったけれど、俺も彼が戻るまで勝ち続けるつもりだったから。


「さあ、薫にはごまかしが効かない気がしたし、俺も誰かに甘えたかったのかもしれんな」
「わがまま…言えないんすか。その、蓮二さんの好きな人には」

その彼の言葉は俺の苦笑を誘った。あの男に、わがままか。
だがもっと早くそうできていたら、俺たちの関係もここまで行き詰まらなかったのかもしれない。
俺たちは、三人でいることを優先しすぎた。
何も失くさずにいようとするあまり、本当に欲しいものが手に入らなくなった。

「そうだな、言えばよかった。格好悪くても、俺だけ見てろとわめいて困らせてやればよかった」
「蓮二さん…」

さらに彼が何か言いかけた瞬間、背後でばたばたと足音が聞こえ、彼の表情がぱっと変わる。
(…ようやく来たか。遅いぞ)



「海堂!どこ行ってたんだ。食事時になっても戻って来ないし、ずいぶん捜した…て、あれ、蓮二?」

近づいてきた貞治が俺の名を口にした途端、彼はまたひどくつらそうな顔をした。
俺と話をする事で少しは気が楽になったかと思ったが、結局は貞治がどうにかしないといけない問題
なのだ。

「何、一緒に練習してたのか?蓮二、海堂と話すの初めてだったよな」
ガタン、と音をたてて、彼は立ち上がった。
がむしゃらな手つきで机の上の食べさしのトレイを持ち上げる。

「…お先っす。おやすみなさい」
小さな声で俺に向かってそうつぶやくと、彼は貞治の横をすり抜けて、こらえきれない様子で走り去って
いった。


「海堂!?ちょ…おい蓮二、何かあったのか」

焦った声を出す幼馴染が、この期におよんでも何も分かっていないらしいのに、俺はひどく腹が立って
きた。
静かに立ち上がり、俺は振り返って貞治をまともに見た。
俺よりほんの少し背が高くなってはいるが、こいつは相変わらず鈍感なままだ。

「貞治おまえ、彼が昼間どんな顔で俺たちを見ていたか気づかなかったのか」
「え…それって……」

心のつよい人なのだと、おまえは彼のことを言っていた。
だが、いつもいつも強い人間なんかいるはずがない。
そうやって彼に甘えるだけ甘えて、お前は俺でも気づくような事に気がつかずにいる。

「大事だ、好きだと口に出して言うぐらい、誰にでもできるんだぞ」
厳しい口調で叱責すると、貞治は目が覚めたような顔で俺を見返してきた。

「おまえが一番大事なものは何だ、答えろ」
「海堂薫。他のものなんかどうだっていいんだ、俺は」

『俺は絶対に負けない』 そう言った時と同じ目をしていた。

こいつが物静かな知性派のデータマンだとか言われるのを聞く度に、俺はおかしくてならなかったものだ。
乾貞治を構成しているのは、今まで行き場をなくしていた情熱だ。
こいつは本当は激しい気性なのだ。
それを凍らせてしまったのは、俺だった。ずっと悔やんでここまで来た。
だが今は、彼がいる。

貞治の中に長い長い間眠っていた激情を、目覚めさせたひと。



「追いかけんか、馬鹿者」
俺は小さく笑い、ほんの少し俺より目線の高くなってしまった幼馴染に、有無を言わせぬ口調でそう
言った。
弾かれるように背を向けて、貞治は彼を追って食堂から飛び出してゆく。
俺はそれを、また何かを失ったような一抹の寂しさを感じながら見送っていた。

もう貞治は寂しさを我慢することはないだろう。
(俺も、お役御免というところか)

誰もいない食堂に一人残されると、自分が他人の恋愛に口出しできるほど立派なものかとなんだか
おかしくさえなってきた。
さっきの貞治への叱責を、本当に言ってやりたい奴は別にいる。
だがこれが自分の恋が上手くいかない俺の、ただのエゴだったとしても。

(おまえが愛してもらえるように)
(きみが悲しまないように)
願う気持ちは、本当だから。

俺はもう二度と貞治には勝てんかもしれんなと考えながら、ため息まじりで、俺はあの男の待つ部屋
へと歩きだした。





Scene2. 赤 (海堂薫)


唇をキツく噛んでいないと、泣き声がもれそうな気がした。
俺は自分の中にせり上がってきた感情にかろうじて耐えていたが、もうギリギリのようだった。

蓮二さんと思いがけず話ができて、あの人が今もとても先輩を大事に思ってるのも分かって。
昼間からの胸のモヤモヤが少しは払拭されたように思えたのに。


宿舎内を逃げるように走っていた俺は、とあるドアの前で立ち止まった。
自分たちに割り当てられた部屋ではなく、その隣のドアをノックすると、シャワーでも浴びたのか首から
タオルを下げた河村先輩が出てきた。

「ハイ、あれ、海堂?どうした?」
「すんません、あの、こっちに泊めてくれませんか。部屋の端っこでいいっすから」
唐突すぎる俺のセリフに河村先輩は目を丸くしたが、やがていつものように優しそうに目を細め笑って
くれた。

「海堂、落ち着けって。俺はいいよ。部屋替わってあげるよ」
「なに、乾と何かあったの」
背後から不二先輩が出てきて、俺の顔を見た途端、厳しい顔つきになった。


たぶん今、俺はひどい顔をしている。
嫌な感情で一杯になっていて、でも自分でそれをどうにもできない。

そんなのをあの人に見られたくなかった。できれば消えてしまいたいぐらいだった。
(蓮二さんは、俺にあんなに優しかったのに…)

それでも先輩が蓮二さんを呼ぶ声を聞いたら、心臓が痛くてつぶれそうになった。
重ねた時間と信頼を、思い知らされるようなあの声。
絶対敵わないって、あの瞬間、感じずにはいられなかった。
そんな自分が嫌なのに。今日だって必死で何でもないふりをしたのに。

分かってる。こんなのはただの……嫉妬だ。
俺はガキみたいに、独占欲を振りかざしている。


「海堂にこんな悲しそうな顔させるなんて、乾最近たるんでるよね」
「そんなんじゃ、ないっす。先輩じゃなくて、俺が…」

言いかけて俯いてしまった俺を見て、河村先輩がぽんぽんと背中を叩いてくれた。
甘えているのは承知の上だったが、今は逃げたかった。
家へ帰れるわけではないから、避難場所といえば先輩たちの部屋しか思いつかなかったのだ。

河村先輩が俺を部屋に招き入れようとしてくれる横で、不二先輩はうっすらと茶色い瞳を見せて、静かな
声で言う。

「タカさん、部屋なら僕が替わるよ。どうも一晩しっかりねじこんでおかないとだめみたいだから。乾の
くせにね」
「……おまえはジャイアンか」


よく響く声が息をきらせながらそう言ったと同時、部屋に入りかけていた俺はつよい力で腕を掴まれて
ほとんど無理やりずるずるっと引きずり出されてしまった。
河村先輩が、ぎょっとしたような声を出す。

「ちょ、乾!無茶するなよ。海堂びっくりしてるだろ」
「悪い、タカさん。海堂連れて帰るから。不二も説教は明日聞く」

興奮した猫みたいに暴れる俺を、ほとんど羽交い絞めのように拘束しながら、乾先輩は固い口調でそう
言った。
不二先輩が、氷点下みたいな冷たい声で言う。
「海堂は、嫌がってるみたいだけど」
「…うん、でも二人で話さなきゃならない事だからね」

そう告げるが早いか、なんと先輩は俺を荷物みたいに肩に担ぎ上げてしまった。
「はなせ!下ろせよ、先輩!!」
「すまん、邪魔したな」

逃げたい気持ちと勝手にされる屈辱で、俺は半泣きになって先輩の背中をどかどか殴った。
だがしょせん隣の部屋までは3歩ほどの距離しかなく、不二先輩と河村先輩が見送る中、抵抗も空しく
俺は自分たちの部屋へと連行された。



「うわ、ちょっと海堂、物を投げるのはよせ!」
「うるせえ!無理やり引きずってきたくせに何言ってんだ!」

部屋に入った途端、俺の反抗的な気分はピークに達した。
まずベッドから枕を2つとも取ると、ドアのところにいる憎たらしい男にびゅんびゅん投げつける。

俺は、すげえ汚いから。
アンタが蓮二さんに笑ってんの見たり、名前呼ぶの聞いただけで我慢できなくなるぐらい心狭いから。
せめて今はアンタに、こんな自分見られたくなかったんだ。
なのになんで放っといてくれねえんだよ。


近づいてきた先輩に触れられるのがイヤで、投げるものが見当たらなくなった俺は、めくらめっぽう手を
振り回して全身で先輩を拒否した。

(触られたら、きっと知られる。俺がどんなに…)
そう思うから必死で。俺に伸びてくる手を振り払っているうちに。

「…っ!!」
「痛……」

俺の右手が乾先輩の左頬をかすって、擦過傷をつくった。
ななめについた傷に、見る間にうすく血がにじむ。

その赤い色が目に入った瞬間、俺の中で興奮よりも脅えがつよくなった。
大した傷じゃなくても、自分が先輩に怪我をさせたことにひどくショックを受けて、動けなくなった。


反対に、先輩は俺がひるんだスキを見逃さなかった。
あっというまに抱きしめられた。
俺が暴れないようにだろう、腕ごと抱きこまれて、ぴくりとも身動きとれなくなる。
だがもう俺は、さっきまでの興奮状態の反動でぐったりしてしまい、反抗する力が根こそぎ消えてしま
っていた。

ギリギリと痛いぐらいつよく抱きしめられて。
「…はあ、やっとつかまえた」
だが頭上から降ってくる声は優しくて、そのギャップに俺は眩暈がした。

やがて俺の髪に乾先輩が頬をよせるのが感じられて、涙腺が決壊しそうになる。
(優しくすんな。優しくされたら、俺もう我慢できなくなる)

だけどお互いの熱くなってしまった身体とか、速い鼓動とかがダイレクトに感じられて、もう嘘はつけない
だろうと俺にも分かっていた。


「なにを溜めこんでたの、海堂?こんなになるまで」
締めつける腕の力は緩まないのに、先輩がひどく大事そうに俺に話しかけるから、胸の真ん中が痛くて
もうこのまま死ぬんじゃないかなんて思った。

(死んだっていい。あんたが俺しか見てない今なら)
正気の時なら馬鹿げてるとしか思えないような考えが、頭をよぎる。
でも誰かを好きになるなんて、そもそも正気じゃできないんじゃねえのか。

「…もう…ぃや…だ……」
「ん、なに、俺がイヤ?きらいになった?」

俺は唯一自由に動かせる頭を、必死でぶんぶん振った。
そうじゃない。俺はきっと怖いんだ。どんどんあんたを好きになってくのが。
他の誰の存在も許容できなくなりそうな、自分の心が怖くてたまらない。


「ちゃんと言わないと、海堂縛っていろんなことしちゃうよ〜?」
子供をあやすみたいに身体を揺らして、髪に唇を触れたまま、先輩が笑いながらそんな事を言う。

直接、声が振動になって伝わってくる。鼓動も体温も感じた。
先輩が自分の全部を使って、俺を安らげようとしてくれてるのが分かった。

「なに…バカなこと言ってんだ、アンタは……」
目を閉じて、全てをあずけて、俺は掠れた声でささやき返す。
ささくれだった気持ちがだんだんと凪いでゆくのを感じた。嵐が、遠ざかる。

腕が使えないから、俺は抱きこまれた先輩の胸に頬をすり寄せた。
その俺の変化が分かったのだろう。やがて先輩は腕のいましめをそっと解いてくれた。
あの人が渾身の力で俺を抱いていたのだと今さら気づいて、俺は思わずホッと息を吐き出した。



「はい、これ飲んで」
ベッドに座らされ、よく冷えたポカリスエットの青い缶が差し出された。

受け取ってみると冷たくて気持ちがよくて、俺は思わずほてった自分の頬を缶に押し当てる。
それからタブをひっぱり、驚くほどの速さでそれを飲みほしてしまった。
自分がどれだけの熱量を放出していたのかに、改めて気づく。

「…先輩」
「うん?落ち着いた?」
「それ…すみませんでした」
先輩の頬についた傷を見上げると、先輩は笑って「なんでもないよ、こんなの」と言った。

「正直2・3発殴られるぐらいの覚悟してたから。俺が鈍感なのが悪かったんだ、仕方ない」
「……え」
「蓮二の事は、海堂に話した時も気にしてなさそうだったから油断した。海堂が嫌なら、もうあいつと会わ
ないし話もしないから」

そんなことを当たり前のようにあっさり言い切る先輩に驚いて、俺は固まってしまった。
「な…に言ってんすか。あんたたち、やっと仲直りしたばっかじゃねえか。俺そんな事がしてほしいんじゃ
ねえ…」
「うん、まあ、それも分かってるけど」


正直、混乱した。確かに先輩がそうしてくれたら、俺の不安は根こそぎ解消されるだろう。
だけど、カッコつけるわけじゃねえけど、やっぱりそんなのおかしいと思った。

だって二人きりの世界で生きてるわけじゃない。
俺が不安に思ったら、先輩は誰とも付き合わなくなるのか?
俺だけを見て、俺とだけしゃべって?
そんなのは間違ってる。そんな風に歪めたら、俺たちはきっとダメになる。

(結局、俺の心の問題なんだ。先輩でも蓮二さんでもなくて)

それがようやく分かった。蓮二さんも俺に言っていた。
好きな相手を独占したいのは当然だと。
こんな苦さはきっと誰もが抱えているんだろう。この先もきっと続くんだ。


「ただの…ワガママなんすけど、いいっすか、言っても…」
「海堂、俺にはワガママ言えって言うくせに、自分は言ったことないじゃないか。ずるいんだけど、それ」

隣に腰掛けた先輩が、俺の目をまっすぐに見つめる。
そう俺も、自分の醜い感情をこの人に晒さなきゃいけなかった。
逃げても何も変わらないと知りながら、未熟な俺たちは同じ事を繰り返すけれど。


「…俺、あんたが他の人にあんな風に笑ってるとこ初めて見たから、なんかびっくりしたんだ」
「あー海堂の自慢話してただけなんだけどね…」

「急に組んでも、やっぱ蓮二さんと先輩息が合ってて、俺なんかと全然違うなって思って…」
「そうか?俺はお互い自己主張が激しくなってて、結構やりにくかったんだが」

「蓮二さん、すげえ優しい人で、あんたを大事に思ってて…」
「いや、あいつは俺をいじめるのが大好きなんだぞ、昔っから」
いちいちつっこむ先輩にムッとして上目使いに睨むと、至近距離でへへと笑われた。


「俺もあの人、好きだと思ったけど、でも…」
「でも…?」
「誰かとあんたを分け合うのは、イヤなんだ」


勇気を出して、一番言えなかったことを口にした。呆れられるかもしれないって思った。
だけどこれは俺のぐちゃぐちゃな感情の核の部分で、だから正直に言うしかなかった。

恐る恐る顔を上げると、先輩はものすごくびっくりした顔をしていた。
それから横を向いて口元を手で覆ってしまったから、俺はどう思われたのかが分からなくなる。

「…先輩、あの…?」
「うわ…ちょっと待って、海堂。俺、海堂にそんな事言ってもらえるなんて思ってなかった」
よく見てみると、耳が赤い。何だ、この人、もしかして照れてんのか?

「あの、俺すげぇワガママ言ってんすけど、ウザいとか思わないんすか…」
「いやだって、嬉しいよ。俺のこと独占したいってことだろう?」

独占したい。そのあからさまな言葉に、今度は俺が真っ赤になってしまった。
恥ずかしい。男のくせにそんな女々しい事を言って最悪だ、恥ずかしい。


だがうなだれてしまった俺の方に、先輩はふいに指を伸ばしてきた。
両方の手で俺の顔を挟んで、額を合わせるようにする。
至近距離に目を伏せた先輩の顔があって、眼鏡がちょっと邪魔だけど、整った顔してんなあと場違いな
事を思わず考えた。

それから俺も目を閉じてみる。
そうしていると、何でだろう、いろんな煩雑な感情がだんだん消えてゆくような気がした。

俺の頬に触れている先輩の手とか、合わせた額とか。
そっから伝わってくるものも、俺が伝えようとしてるものも、きっと同じだと素直に思えた。

愛しい、愛しいって。
どんなに迷ったって、俺がこの人にあげたい気持ちはそういうのなんだって。


「なあ、海堂。これがおまえの言ってくれた事の答えになるといいんだけど」
「……はい」
「俺の世界はさ、海堂とその他なんだ。2番とか3番とかそういうのないから」

びっくりして俺が目を開けると、先輩は得意げに笑っていた。子供みたいな笑顔だった。
眼鏡の奥の暖かい瞳に、泣きそうなカオをした俺が映って見えている。

俺の世界の真ん中にいる人。
嵐が通り過ぎて、きれいに洗われた世界の真ん中で、俺に笑いかけてくれる人。
胸がいっぱいになった。


多分こんな不安は全部は消えないのだと思う。でもアンタがいてくれるなら、それでいいと思えた。
俺はもう一度俺と戦う。いや、何度でも戦う。
俺の弱さが、この恋をダメにしてしまわないように。

先輩の左肩に俺は静かに頭をもたせかけた。先輩もそうっと俺の頭に頬を寄せる。
ささやかな接触がただ心地よくて、俺は何も言わずに先輩に自分を全部あずけた。





Scene3. 青 (乾貞治)


かすかに聞こえてくるシャワーの音に安堵しつつも、俺はベッドに座り眉を寄せ考えこんでしまった。
(…悲しい思いをさせた。海堂があんな風に取り乱すなんて、めったにないのに)
蓮二に叱責されるのも当然だ。
悔しいが、うかつだと責められても一言も言い返せない。


俺はやっぱり浮かれていたのかもしれないな。
遊びに来たわけじゃないが、ここ数日はずっと海堂と一緒にいられるし、蓮二とだって昔みたいに接する
ことができるのは嬉しかった。

あいつは俺をいじめるのは大好きだが心配されているのも知っていたから、海堂のことを話したかった。
今はあの子が傍にいてくれて、俺はすごく幸せなんだと伝えたかった。

だけどそれが、海堂を悲しませることになるなんて。
(本末転倒もいいところだ。蓮二は気がついていたのに)

『大事だ、好きだと口に出して言うぐらい、誰にでもできるんだぞ』
幼馴染の厳しい声が、よみがえってくる。

しかし正直言って、蓮二が積極的に介入してくるとは思わなかった。
まあ昔からクールそうに見えて情に厚い所があったが、離れたのが小学生の時だったから、恋愛の話
なんかしたことなかったしな。
あいつにそういう事を語られる日が来るとは。
(もしかすると付き合ってる人がいるのかもな。今度データ取ってみるか)


俺も普段はこういう事にちゃんと気を配っているつもりだ。
俺に告白してくるような物好きがいた場合は、秒殺で断っている。
海堂は言わずに溜めこむタイプだから、彼の耳に届くまでに芽を摘んでおかなければならないのだ。

だが蓮二に関しては恋愛感情とは全く別物だったし、海堂は蓮二の事を話した時も立海戦の時も、今回
のような反応はしていなかった気がする。

『誰かとアンタを分け合うのは、イヤなんだ』
あんな事を言ってくれると思わなかったからひどく嬉しかった。
だが、同時にどんな思いで言ったんだろうと考えると胸が痛む。

海堂は、結局、泣かなかった。
ずっと泣きそうな顔をしていたが、涙を見せなかった。
それが気がかりでたまらない。まだ、言えずにいることがあるのだろうか。



その時シャワールームから海堂が出てきた気配がした。
もう一回何か飲むだろうか。100%のジュース好きだから買いに行くかな。
髪も洗ったらしく、適当にわしわし拭きながらドアを開けて入ってきた海堂を見て、しかし俺はうっっと
言葉に詰まってしまった。

選抜メンバーには、ジャージとは別に部屋着代わりのTシャツが支給されている。
俺自身もそれを着ているのだが。
(これ選んだの、誰だいったい…華村女史か!?)
それでなくても海堂は襟足から首にかけてのラインは見とれるほど綺麗なのに、VネックのTシャツが
鎖骨まで惜しげもなく露わにしてしまっている。


「…乾先輩?どうしたんすか?」
「いや…なんでもないよ。おいで海堂、髪拭いてあげる」
「いいっすよ。そんなん自分でやる」

怒ったような口調でそう言って、乱暴に髪を拭う海堂の首元がやたら眩しくて、俺は内心頭を抱えた。
(絶対あれ着て外出させられん…危なすぎる)

自分も含めその他大勢が着ているのを見ても何とも感じなかったが、海堂が着るともの凄い威力だ。
恐るべし、Vネック。
今すぐキスをして、跡をつけたい衝動にかられる。

だが俺は自分の欲望を、心の中でげしげし踏みつけてぺしゃんこにした。
これ以上彼の身体に負担をかけるわけにはいかない。
風呂に入ってリラックスしたせいで、今日の疲れがどっと出てしまったのだろう。
海堂は少しぼんやりしていた。もう眠いのかもしれない。



「あのさ、海堂。爪切り持ってるよな、かして」
「…え?ああ」

俺の言葉に我に返ったように彼は自分の荷物をごそごそ探り、いつも携帯している爪切りを出してくれた。
だがそれを手渡そうとした瞬間、さっき掠ってつけた俺の頬の傷が目に入ったらしい。
「あ…もしかして俺っすか、切るの」と、爪切りをひっこめようとした。

「すんません、切っときますから」
小さい声で呟き俯いてしまった彼を、俺はベッドに座らせて、さっさと爪切りを奪い取ってしまう。
「せ…せんぱい?」
彼の足元にどかっと座りこんだ俺を見て、海堂が焦った声を出した。

「はい、まず足からな」
「な…何言ってんすか!それになんで足まで切る必要あんだよ!?」
「俺が楽しいからに決まってるだろう。一度やってみたかったんだよな、爪切り」
本人には有無を言わせずに、俺はご機嫌で海堂の左足の爪を細心の注意を払って切りはじめた。

驚いたことに、海堂は足の爪もきれいな形をしている。
俺なんか小指の爪とかヘンな形してるのにな。
(穂摘さんて、気合入れて海堂を産んだんだなあ)
妙な感心の仕方をしながら、俺は必要以上に時間をかけて、切っていった。


……初めてケンカをした時から。
言葉に出して約束したわけじゃないが、俺たちは仲直りの後はちゃんとスキンシップをとるのが暗黙の
了解になっている。

それが分かっているから、照れ屋の海堂もこういう時は触れられてもおとなしくしていた。
たまに見上げると、困ったような顔で俺の手元をのぞき込んでくる。
この体勢だと、さっきよりもっと喉元が露わになっていて、正直目のやり場に困ったが。


「…でも俺、さっき嬉しかったな。海堂にヤキモチやいてもらえるなんて、思ってなかったし」
わざとからかうような口調でそう言えば、彼はムッとしたような顔になった。

「なんでっすか、フツーだろ」
「うんでも、今までそういうの一回もなかったじゃない」
「アンタなあ!」
急に強い口調で遮られて、俺は少々深めに親指の爪を切ってしまった。パチン、という音。

「アンタ、もし俺に蓮二さんみたいな幼馴染がいても何とも思わねーのかよ」
「海堂に、蓮二みたいな……?」
俺は思わず手を止めて、空を仰いでしまった。


蓮二は食えない奴だが、頭はいいし顔もかっこいい部類に入るだろう。
テニスは強いし、教えるのだって上手い。

例えばあいつが海堂の幼馴染で、彼を溺愛していたとしよう。
そのガードの固さは鉄壁とも言えるもので、行き帰りは勿論、休日も海堂に張り付いていて、俺が海堂に
近づいたり、一緒に練習したり、ましてや口説いたりする事など不可能で。海堂もあいつには懐いていて、
あいつにだけはすぐ笑ってみせたり、名前で呼び合ったりしてるんだな。それでも俺もがんばって海堂に
自分をアピールするんだけど、それに気づいた蓮二が俺に試合を挑んできて、ありえないような大差で
勝って、「その白ラケットはお飾りか、話にならんな」と捨て台詞を吐くと、コートにがっくり膝をついた俺を
残して、海堂の肩を抱いて去っていったりなんかして……



「オイ先輩、長げーよ、アンタの妄想…」
呆れたような海堂のツッコミが入る頃には、俺はいろいろ想像しすぎて涙目になっていた。
「くそう、小姑め。海堂は絶対に渡さん」
「イヤ、いねーから、そんな奴」

居られたら困る、と俺は真剣に思った。
それでなくても海堂には、既に葉末くんという守護天使が張り付いているのだ。
ああ、今日の事が葉末くんに知れたら、俺は海堂家の和室で正座で説教コースだ…


「でもフツーなんだな。俺こういう嫉妬みたいな気持ち、すげえ恥ずかしいと思ったけど。初めてで混乱
したけど」
気を取り直して、今度は手の爪を切り始めた俺の頭の上から、海堂がぼそぼそとしゃべる。

「…怖かった?」
「そうっすね…多分。自分がおかしいんじゃねえのかなって」
「みんな同じだよ、きっと。好きな人の一番でいたいからさ…」

嫉妬なんてね、俺は四六時中発動してるんだ、本当は。
きみが誰かと話してるだけでも、何の気なしに触れられているだけでも、もう誰にも見せたくない、閉じ
込めてしまいたいって思う事すらある。

だけどきみは、太陽の下で凛として咲く花だ。
俺の役目は、大事に囲いこむことじゃない。
きみのすべてを、変わらずに慈しむこと。
この先どんなに時間がたっても、それだけは同じだと思えるようになったから。



「ところで海堂。さっきからもの凄く気になってたんだが、何で蓮二のこと名前で呼んでるんだ?」

人見知りな海堂が初対面の蓮二を名前で呼んでいるのが、俺はひっかかって仕方なかったのだ。
唐突に俺に問われ海堂はさっと頬を染めたが、怒ったようにぷいと横を向いてしまった。

「いいだろ、あの人がそう呼べって言ったんだから」
「ま…まさかと思うけど、海堂も名前で呼んでいいとか言った…?」
「年上の人にそう言われたら、相手が呼ぶかどうかはともかく、そう言うのが礼儀だろっ」
「それは…その通りなんだが…」

(れ・ん・じの奴め〜嫌がらせだ、絶対に俺への嫌がらせだ)
今日海堂の自慢話をしたということは、見方を変えればあいつに海堂のデータを献上したということでも
ある。
さっそく海堂が年長者に礼儀正しいのを逆手に取るとは、なんという悪辣な。
今ごろ、してやったりとほくそ笑んでいる奴の顔がリアルに想像できて俺はブルブルした。
俺の嫌そうな顔を見るのが、あいつのライフワークなのだ。

「アンタだって呼んでるんだし、いいじゃねえか別に」
(……あ、れ…?)
その海堂の言葉に何かひっかかって俺は、爪を切る手をぴたっと止めてしまった。

「…先輩?」
なんだろう、何か、名前のことだ、海堂が今言って…おかしいなって…
考えろ、大事なことだ。ちゃんと考えて答えを出せ。

(アンタだって呼んでるんだし……って蓮二を?)


次の瞬間、俺は爪切りを横に放り出し、片手で海堂の肩をつかむと、下からまっすぐに見上げた。
「海堂、答えて。それがイヤだったの?俺が蓮二を名前で呼ぶから?」

逃げようもないあからさまな俺の問いに、海堂はどうしていいのかわからなかったのだろう、とても困った
顔をした。
だが先刻に比べ気持ちが落ち着いて、いつもの彼らしさが戻ってきていたのだろう。
やがてきちんと俺の目を見ると、静かな口調で言った。

「イヤなんじゃなくて…ただ、いいなあって…思ったんすよ……」


俺はバカだ。蓮二に責められてもあたりまえだ。
一番大事な人にこんな寂しいことを言わせるなんて。他人が羨ましいと言わせるなんて。

俺と海堂はもう付き合って結構たっていたし、勿論名前で呼んでみたい気持ちはすごくあった。
だけど彼の名前は、彼自身とおんなじぐらい綺麗で。
時々彼の家族が呼ぶのを耳にしては、なんで平気で呼べるんだろうと思うぐらい、尊い響きをしていて。
何回か試そうとしたんだけど、喉まで出かかっては、上手く呼べる自信がなくてやめたりして。


ベッドに座ったままの彼を見上げ、彼の肩をつかんでいた手で頬にそっと触れた。
緊張して心臓がすごい勢いで鳴っていたけど、それを悟られないようにと俺は願った。

「……薫」


海堂はその響きに肩を揺らしたが、瞼を閉じ、そして開けた時には目に涙をためていた。

「ずりぃだろ…アンタ…それ……」
「んー?何が?」
「だって、全然違うじゃねえか…誰とも、蓮二さん呼ぶのとも…全然、ちがう……」
「同じなわけないだろう?薫は、俺のたった一人の人なんだから」


その俺の囁き声にもう堪えられなくなったのか、海堂は子供のように目を擦って涙をこぼした。
床に座り込んだまま笑いながら両腕を広げれば、海堂が倒れ込むように抱きついてきて、俺の首に
腕を回す。
しばらくきつく抱きあってから顔見せてと小声で言うと、ゆっくりと腕を緩めて泣き笑いみたいなカオを
見せてくれた。

そのまま、惹かれあうように唇をそっと合わせる。
ただ触れるだけのキスの合間に、俺の唇は何度も何度も彼の名前を囁いた。

(なんか、ただの人の名前なのに、むちゃくちゃ甘い)
そう思ったのは俺だけじゃないみたいで、海堂も呼ばれる度にその響きを味わうように唇で触れてくる。

切ないことも、苦しいこともあるんだけど。
でもこんな嬉しいも幸せも、きっときみとしか分かち合えない。




そのあと、俺たちはベッドの上に仲良しの子供みたいに寄り添い、いろんな他愛のない話をした。
それはテニスや学校の話ではなく、小さい頃大人になったら何になりたいと思ってたかとか、子供の時に
した遊びとか、今は食べられるけど昔はキライだった食べ物の事とかだった。

なあ海堂、俺たちは今の事に一生懸命すぎて、そんなの話したことなかったよな。
だけどこれからは、そういうのも少しずつ知り合っていこう?
もっと早く出会えていればよかったけど、話しているうちにいつかそういうのも関係なくなるよ。
互いが互いに馴染むようになれば、不安もひとつかふたつ減るだろう。


いつのまにか真夜中で、だけど俺はこの時間がもったいなくてなかなか眠れなかった。
彼と過ごす夜はいつでも特別だったけれど、今夜のことはきっと忘れないと思う。

今は、俺の腕の中に自分を預けるようにして、海堂がすうすう寝息をたてている。
その暖かさは、泣きたいぐらい俺を満たしてくれる。
それを感じていると俺は、自分が生まれた時からずっと幸せだったような気がした。
それぐらい、自分を幸せだと思った。


おやすみ、大好きな人。

いつも強くあろうとするきみを、甘やかして、甘やかして、とろとろに溶かしてしまいたい。
どうかそれがいつまでも、俺だけの特権であるように。






エピローグ  Tricolore


「薫、すまんが醤油を取ってくれるか」
「っす。あ、蓮二さん、お茶淹れるんで、それかして下さい」
「ああ、ありがとう。薫はよく気がつくな」


ジュニア選抜合宿2日目。朝の食堂で、周囲の好奇のこもった目線が一隅に集中していた。
俺は憮然とした表情で、鮭の切り身を行儀悪く箸でつつき回している。
普段は海堂の食事の仕方を手本に、自分も美しく食べるのをモットーにしている。
だが、どうせ海堂に見えやしないのだと思うとやさぐれても仕方がない。


今朝、起きぬけの幸せな気分で「薫…」と彼を呼んだ俺は、イキナリ「先輩アンタ、名前で呼ぶの禁止
っすから」と言われ、奈落の底に突き落とされた。

眠気など一瞬で吹き飛んでしまい、がばっと起き上がって 「なんで!?」と叫ぶ。
だが振り向いた海堂は、昨日の惑乱など嘘だったかのように、「俺らは先輩後輩なんだから、けじめが
つかないっす」とものすごくあっさり言ってのけた。

(羨ましいとか言ってたくせに!それともアレも俺の都合のいい妄想だったのか!?)


しかし俺の妄想は悪い意味で具現化しようとしていた。
尻尾をたらした犬のようにしょげかえった俺が、海堂の後をついてとぼとぼと食堂の列に並ぼうとすると
突然誰かに海堂との間に割り込まれた。

「蓮二!おまえ割り込みするな!」
「おはよう。よく眠れたみたいだな、薫。顔色もいいし、今日はいいプレーが見られそうだ」
「おはようございます、蓮二さん。昨日は…どもっす」

少し照れくさそうに挨拶をする海堂はものすごく可愛かったが、そう思ったのは俺だけではなかった
らしい。
蓮二は俺の方を見てにやりと嫌な笑い方をした。
昨日の自分の妄想を思い出し、俺の背中にゾクッと悪寒が走る。



そのまま何の因果か海堂、蓮二、俺と横一線に並んで座り、向かいには何故か英二、タカさん、不二が
着席して朝飯を食いはじめた。

「なんだぁ?海堂ってば柳に名前で呼ばせてるんだーどういうコトだよ?」
「昨日親しくなったんだ。なあ、薫?」
「……っす」
「でもすごいよ、海堂は人見知り激しいのに、いきなり名前で呼ばせてもらえるなんてさ」

タカさんの素直な感嘆のセリフが俺の胸に突き刺さった。
どうせ俺は恋人のくせに名前で呼ばせてもらえない、その程度の男だよ。


俺が屈辱のあまり物も言えずにいると、蓮二が優しげな口調でいけしゃあしゃあとこんな事を言い出した。
「薫には上に兄弟がいないそうだから、兄のような感じに思ってもらえればいいのではないかな」
必死の横目遣いで海堂を見れば、なんとまんざらでもないような表情をしている。

「あ、ずるいぞ!俺だって海堂のお兄ちゃんになりたい!」
末っ子のせいか普段から海堂にやたらと構う英二まで、そんな事を言っている。

ここで自分をアピールしないと、本当に「その程度の男」になりそうな予感満載だった。
俺は蓮二の向こう側にいる海堂に、「海堂!お兄さんがほしいなら俺がいるだろう!」と言ってみた。
だが愛しの恋人は、あまり嬉しそうな顔をしてくれなかった。
俺が必死に見つめると(蓮二が邪魔だ!)海堂は困ったような顔でぼそっと言う。
「俺…アンタみたいな兄…あんまほしくねぇかも…」

「海堂、そんな本当の事言ったら、乾が気の毒じゃない」
今の今まで優雅に朝飯を食っていた向かいの席のジャイアンが、番茶をすすりながら俺の心にサックリと
致命傷を負わせてくれた。
どうやら不二は昨夜の事を相当根にもっているらしい。
うっすらと茶色の瞳が見えている。
俺の背中を悪寒どころか戦慄が走った。命の危険すら感じるのは気のせいか。


俺がおとなしくなったのをいいことに、気がつけば蓮二は海堂の食いつきそうな話題を振っていた。

「薫は動物が好きらしいな。家にも犬がいるんだが」
「どんなのっすか?」
「紀州犬。まっ白くて大きいヤツだ。性格はおとなしいぞ。写真を見るか?」

そう言って蓮二はパスケースを取り出し、海堂はといえば夢中でそれを覗き込んでいる。
(なんで朝飯食うのにパスケース持参なんだ、おまえは!?)
絶対準備してきてる、昨日から準備してる。
そんなに俺をいじめるのが楽しいのか、蓮二、お前は!

「さすが年季が入ってるよね、彼。僕も勉強になるよ」
向かいの席で不二が何か恐ろしいことを言っているのが聞こえた。
蓮二はいつのまにか海堂に家に犬を見に来るかとまで言い出していて、英二が俺も見たい!と騒いで
いる。
(ああ、俺はこいつらに一斉攻撃を受けるほど悪いことをしたのか)



ぼそぼそと砂を噛むように朝飯を食べ、肩を落としながら食器を片付けていた俺の所へ海堂がやって
きて、「先輩、俺忘れもんしたんで、一旦部屋戻ってコート行くっす」と言った。
「うん、分かった。いっといで」

すると海堂は座ったままの俺の耳元に屈んで何かを囁き、ばたばたと走り去って行った。
(……え、今の?)

驚いた俺が眼鏡の下で瞠目しているのを見やり、蓮二が横で笑った。
「いい子だな。おまえにはもったいないと思うが」
「結局乾が幸せなんだよね。世の中の矛盾を感じるよ」
不二も食えない笑顔で、そう付け加える。
(ていうか、どんな地獄耳だ、お前らいったい…)


『二人ん時は、名前で呼んでもいいっすよ』
それでも自分が他人からやっかまれるような人を恋人に持っているのだと意識すると、喜びと同時に
身の引き締まる思いがした。

きみの隣に立って、きみの名を呼ぶのにふさわしい男でいられるように。努力するから、海堂。
(ずっと傍にいさせてほしい)

今日も暑くなりそうな夏空の下、ジュニア選抜のメンバーを賭けた熾烈な争いは幕を切った。