耳を澄ますと、たくさんの物音が聞こえてくる。
お互いに何か別の事をしていても意識のいくばくかはそれを捉えていて、いつも心地よかった。

今聞こえてくるのは、旧式のパソコンのキイボードをたたく微かな音だ。
それは決して滑らかな物ではなく、アキラは時々苦笑せずにいられない。

どうやらあの男はパソコンにやや苦手意識があるようだった。
最終的には原稿を入力しなければならないし、いい加減慣れろと言うのだが、いつまでたっても
その手つきが熟練したように思えることはない。


いつでも、源泉の原稿は手で書くところから始まる。
たくさんのメモや走り書き。それに膨大な資料と睨み合いながら、書き下ろしてゆく。
クシャクシャに丸めた書き損じの紙が男の周囲にいくつも散らばっている。
それが、いつの間にかアキラが見慣れた光景だった。

手間暇をかけた、ある意味迂遠とも言えるやり方だ。
だがそれは原稿だけでなく、源泉の全ての事に対する姿勢に浸透していた。
写真を撮る前にスケッチをするのもそうだった。

最初はなんでそんな面倒な事を、と思っていた。
被写体は目の前にあるのだ。シャッターをきりさえすれば、写真にうつる。
だが源泉は、さして上手いとも思えない絵を時間をかけていつも描いていた。

その絵の中にある生き生きとした線にアキラが気づいたのは、いつの事だっただろう。
一番印象に残った部分にだけ、さらりと着けられる色の鮮やかさにドキリとした。
被写体の息遣いを感じ取れたと思った時に、初めて源泉はカメラに手を伸ばす。
相手が生きている物でもそうでなくとも、それは同じことだった。


煙草の煙を吐き出す音。無意識に机を指でコツコツと叩く音。
そしてほとんど意味を汲み取れないような独り言が、アキラの背後から今も低く聞こえてくる。
かく言うアキラも仕事中だった。昨日撮った写真をずらりと床に並べ、出来栄えをチェックする。

何年も源泉の傍でアシスタントをしつつ自分でも写真を撮っているうちに、出版社はアキラにも
小さいながらも仕事を回してくれるようになっていた。
それまでも源泉の仕事でアキラの撮った写真が何度か使われていたのがきっかけだ。

だが最初は自分に来た仕事にひどいプレッシャーを感じたし、何を望まれているのかもよく分か
らず辛かった。
源泉が一切助言をしようとしなかったから、なおさらだ。

『俺が教える事なんざないだろう。あっちはお前の文章や写真をかって仕事を持ちかけたんだ。
報酬を受け取る以上、どんなに小さい仕事でもお前はプロだ。性根据えて書け』
普段自分に甘すぎるほど甘い源泉の突き放すような言葉に、ショックを受けた覚えがある。
だがこれをクリアしていかなければ、自分はいつまでたってもアシスタントのままだとも思った。


真実というのは、ひとつだけではない。
もしかすると人の数だけ存在するのかもしれない。
それでも知らされない事の悲しみを心に刻んだ源泉は、真実を伝えたくてこの仕事を選んだ。

長い長い道のりだが、ENEDの行っていた研究を白日の下に曝す事を目指して男が仕事をして
いるのだと、アキラには分かっていた。
(いざという時に一緒に戦えなかったら、意味がない)
いつまでも源泉の補助に甘んじているわけにはいかなかった。たとえ一歩でも前に進むのだ。


『ペンは剣よりも強し、だよな』 と冗談めかして笑う源泉を何年も見つめてきた。
目標に近づく度に、どこからか圧力がかかり記事は握り潰される。
直接危害を加えられる事もあった。
そんな時、自分に言い聞かせるかのようにいつも源泉は同じ台詞を繰り返していた。
どんなに胸が痛んだかしれない。

アキラとて簡単に事を成せると考えていたわけではなかった。
だが年月を経てもなおENEDの事を隠蔽しようとする動きは確かにあり、それが源泉の古い傷を
かきむしってゆく。

以前のような殴り合いや殺し合いの為の力ではなく。
誰かに真実を伝える。そういう力が自分にも欲しいとアキラは強く願った。
たとえ源泉がそれを望まなかったとしても、だ。

(コラムの原稿はもう仕上がってるし、写真はこれとこれを使うか)
写真を撮り続けるうちに現像も上手くなった。今では源泉が自分の写真の現像を頼むほどだ。
アキラ個人に特別大きな仕事が入るわけではない。
それでも自分の収入がありツテが増えてゆくのは、自信にも繋がった。

だが本当はもっと単純な事だと分かっていた。
自分はただ、この男の隣にいられる理由が欲しかった。今も昔もそれだけなのだ、きっと。




長い間、苦手なパソコンと取っ組み合っていた源泉は、外界の音を無意識に遮断していた。
それでも、背後でアキラが写真を広げている気配だけは感じ取っていたのだが。

自分が仕事に没頭して振り向きもしなくても、アキラは同じ空間で好き勝手に過ごす。
本を読んだり、原稿を書いたり、ソファでうとうとしたり、新聞の記事をスクラップしたり、写真を
選んだりもする。

たまに構ってほしそうな様子で、じいっと見つめてくる事もあるのだが。
『…猫みたいだよなぁ、お前さんは』
源泉が笑うと、いつも訳が分からないというような顔をしていた。


原稿に意識の全てが向いていた源泉は、うかつにも頭上でジ…ジジ…と鈍い音がし始めたのに
気づかなかった。
普段より無精ヒゲの伸びた顎を手で擦りながら、とつとつとキイボードを叩いていた、その時。
「おい、オッサン!!」
背後から突然アキラが鋭い警告の声を放ったのにハッとする。
だがもう間に合うものではなかった。
マズイ!と感じるよりも早く、重い音をたてて全ての電気が落ちた。

突然漆黒の闇に包まれた室内で源泉はしばし呆然としていた。
だがやがて、踏み潰されたような唸り声をあげる。
「カンベンしてくれ……」
数時間かけて入力した原稿は、もう完成間近だった。だがそれも全てパアだろう。
ありえない。手書きの原稿があるのが救いだが、正直泣きたい気持ちにさせられた。


「またやったのか、アンタは。小まめにバックアップしとけって言っただろ」
源泉のいる方に向かって、アキラの声がため息まじりにそう告げる。
今二人が住んでいる街は、都市部からは少し外れていた。
静かで住み良い土地ではあるのだが、唯一の問題は電力の供給が不安定な事だった。
なにしろ、当たり前のように停電が起きるのだ。

ニホンが日興連とCFCの二勢力に分断されていた頃は、ライフラインの途絶など当たり前だと
考えていたが、人間は快適な暮らしに順応するのも早いらしい。
源泉がパソコンに打ち込んだデータを消失したのは、これが二度目の事だった。

「アキラが冷たい…」
「バカ言うな。学習しないオッサンが悪いんだろうが」
「慰めてもくれんとは…オイチャンはアキラをそんな子に育てた覚えはないぞ」
「アンタに育てられた覚えこそ、俺にはない」


最初は何も見えなかったが、闇に目が慣れるとアキラの姿が曖昧に捕らえられるようになった。
表情まで確認できないが、声に少しばかり拗ねたような感じがあるのに源泉は気づかされた。
(あー…さすがに放置しすぎたか。まずったな…)

昨日・今日とほとんど机に向かいっぱなしだった。
インタビューの録音を何度も聞き、メモを取り、資料をひっくり返し、アキラが食事をとるように
言っても生返事ばかりしていた。

まあ、昨日はアキラもコラム用の写真を撮りに行っていたし、同じ部屋にいたせいかそう長くすれ
違ったと考えていなかったのだが。
どうやら源泉の大切な子は、少々おかんむりらしい。


消失したデータにさっくり諦めをつけてしまうと、源泉は 『さて、どうやってご機嫌をとるかねえ』
などと考え始めた。
その時、電気がひとつも灯らない室内が案外と明るい理由にようやく思い至る。

「アキラ、見てみろ…ほら」
促すように言うと、アキラが源泉の指し示した方を見たのが分かった。
しばらく押し黙っていたが、やがてポツリと感嘆の声をもらす。
「気づかなかった。綺麗だな、すごく明るい」

開けはなたれたカーテンの向こう側には、真円の月が見えていた。
大きくて、白い。
惜しみない光は、暗い部屋へ煌々と降り注ぎ、粛然とした気持ちになる程美しかった。



「よし、オイチャンと飲むか、アキラ!」
浮かれた口調で突然言い出した源泉に、立ったまま月に見惚れていたアキラはいきなり何だよ
と口ごもった。

「どうせこの状況じゃ何もできんだろ。そういう時は自然を愛でるのが大人の嗜みってもんだ」
「単に酒が飲みたいだけだろ、あんたは」
「まあ、そうとも言うな」
開き直った様子でにやにや笑う源泉に、アキラは呆れたようなため息をついた。
だがこの闇の中でやる事もないというのは、どうしようもない事実だ。

「オッサンは蝋燭に火つけてくれ。一本ぐらいなら邪魔にならないだろ」
「そうだな、これじゃお前の顔も見えん。確かこないだの残りがこの辺に…」
ガタガタと音をたて蝋燭を探す源泉の横で、アキラは足元に散乱する物を上手に避け、キッチン
の方へ歩き出そうとした。

「おいおい、アキラ。お前何を飲むつもりなんだ」
「…?ビールだろ?」
「情緒のない奴め…あのな、綺麗なもんを見ながら飲むのはいい酒と相場が決まってんだよ」

ようやく灯った蝋燭一本の明かりの元で、源泉は大事そうにブランデーの瓶を取り出した。
CFCと日興連の内戦が終結して数年が経ち、食料事情などはある程度改善されていたが、嗜好品
というのは相変わらず高価なままだ。
まして年単位で醸造する酒は、バーで一杯ぐらいならともかく、なかなか庶民には手が出ない。

「それ、飲んでいいのかよ。もっと別の時に…」
数ヶ月前、源泉がマスコミ嫌いで有名なある科学者のインタビューを取った時に、出版社が報酬
とは別にボーナスとしてこの酒をくれた。
源泉がそのインタビューの為にどれほど勉強し、下準備をしたかを、アキラは傍でずっと見ていた。
だから、こんな何でもない時に飲んでいい酒だとは思えなかったのだ。
だが源泉は無造作にラベルを剥がしながら、目を細めて笑うだけだった。


『アキラ、嗜好品ってのはな、腹を満たすためのモンじゃない。味わって、楽しむもんだ』
以前、そう言われたのを思い出す。
この男のいかにも人間らしいのびのびとした表情を見るたびに、それに焦がれた。
その一方で、自分のいびつさに嫌気がさす思いだった。

『楽しむ』 などという事を、なにも知らずに生きてきた。
喜びも悲しみも何もなかった。そんな生き方しかしてこなかったのだ、自分は。
この男に会うまでずっと。

照らしてくれる光はいつも明るく、それを好きなだけ浴びると、自分の抱える歪みは影を濃くする。
時々分からなくなることがあった。
源泉が、自分の何を好きだと言ってくれているのかを。



「ほら、オッサン」
「おう、ありがとな」

行儀悪く煙草を銜えたままの源泉に、キッチンから取ってきたグラスを手渡す。
アキラも自分のグラスを片手に、ぺたんと源泉の向かいに座った。
源泉のグラスは空だが、自分のには氷を入れてある。
それぞれに瓶を傾けて酒を少量注ぐと、二人はしばらく黙って月を見つめていた。

ストレートで飲んでいる源泉は、グラスを掌で温めるようにして立ちのぼる香りを楽しんでいる。
本当はそうした方がいいのだろうが、何でも模倣しているように思えてわざわざロックにした。
だが今度はそんな気の回し方をした自分が、どうしようもない程子供っぽく感じられる。

好きなようにすればいいだろうが、とこの男なら笑うに決まっていた。
源泉は色々な事を教えてくれたが、どれもあくまでも知識としてだ。
それをアキラに強いた事など一度もない。

カランと涼やかな音をたてて氷が形を崩す。
一口含むと芳醇な香りがして、こんな酒を造る人間が少なくなったのは惜しいとアキラは感じた。
以前はBl@sterで戦って高揚した気分の時ですら、アルコールを口にする事はなかったのに。
今、蝋燭と月の光だけを頼りに飲んでいると、こういう物を人間が欲する気持ちが理解できるような
気がした。


「お前、月が似合うよなぁ、アキラ」
濡れるような、白い月明かり。それが惜しみなくアキラに降り注いでいる。
源泉はそれを惚れ惚れとした顔で見つめた。

別に顔立ちだけで人を評価する事はない。だが容姿に恵まれているというのはある種の力だ。
本人が意識せずとも、周囲は惹きつけられる。
(こいつもなあ、自分の見てくれを利用するだけでも、もっといい暮らしができるだろうに)
何を好きこのんで、こんなくたびれたオヤジと一緒にいてくれるのかと不思議になる。

だが、共に暮らしはじめて既に6年が過ぎていた。
アキラは口に出す事はないが、まあ何というか、好いてもらっているのだろうとは思っている。


しかし源泉が発したあからさまな褒め言葉に対して、アキラは妙に傷ついたような顔をした。
心持ち長くなっていた前髪で目が隠されると、最近では珍しく子供っぽく見えた。

「……嬉しくない」
「はあ?何だ、月が似合うってのがか。お前、月はべっぴんの代名詞だぞ」

月下美人て花もあるぐらいだ、白くて大きい花でな…と説明しかけた源泉は、途中で急に言葉を
途切らせる。
何が気に障ったのかは分からない。
だが、アキラが今にも泣き出すのではないかと不安になったのだ。

「どうした、アキラ。オイチャン何か嫌な事言っちまったか。ん?」
二人の距離をほんの少しつめて、源泉の指が宥めるように髪を撫でてゆくのを感じた。
唐突に機嫌を悪くした自分に対して苛立つこともせず、かけてくれる言葉も温かい。
それに余計に泣きたい気分にさせられて、アキラはただやみくもに首を振るばかりだった。
グラスの氷が、それに合わせて透明な音をたてる。

「月って…自分では光らないだろ…」
喉が詰まるような思いで、アキラはそうつぶやいていた。
少し酔っているのだろうか。
普段なら絶対に言えないような事を、自分は源泉に言おうとしている。

昔、何かで習った覚えがあった。
地球から見える天体の中では、月は太陽の次に明るい。
だが実際は自らは光らずに、太陽光を反射しているだけなのだ。

「俺が月なら…オッサンは太陽みたいだ」
実際に口に出してみると、本当にそうだと思えた。
驚いたような顔で自分を見つめているこの男は、いつだって明るくて大きくて惜しみない。

トシマに居た時も、不安はあっても怖くはなかった。
あの朽ちてなお美しかった教会に、気持ちが癒されているのだとそう思っていた。

だが、本当はいつも傍にいて支えてくれたのは源泉だった。
闇のその先に闇しかないように思えた時でさえ。
この男が手をひいてくれたから、自分は怖いとは思わなかったのだ。

「俺の中に今あるもんは、全部オッサンがくれた。本当は俺は…あんたみたいに…」
膝の辺りでグラスを両手に包み持ち、掠れた声が言葉を重ねる。
切ない思いが渦を巻いて、アキラはそのまま目を伏せうなだれるしかなかった。
(あんたみたいに、なりたかったんだ…)



言われた事に呆気にとられた源泉は、銜えた煙草の灰が落ちそうなのに気づき、慌てて灰皿に
押し付けた。
とにかく何か言わねばと思うのだが、上手く考えが纏まってくれない。

「あー…アキラ、それはだな…」
空を仰ぎ、意味不明の唸り声を発しながら、源泉はがしがしと頭をかいた。
仮にもジャーナリストが、こんな大事な場面で恋人に言うべき言葉を探しあぐねている。

「てかなぁ、お前さんも相変わらず小難しいつーか、理屈っぽいっつーか…」
頼りない明りの下で見るアキラの襟元には、あのタグを下げた鎖がちらりと覗いていた。
まめに手入れはしているようだが、年月が経つにつれ、カードの模様を刻んだタグが黒っぽく変色
しつつある事に源泉は気づいていた。

(……なんでもっと、楽に生きられんかな、お前は)
深く嘆息する。
忘れてしまえばいいのに、捨ててしまえばいいのに。与えられる物を甘受すればいいのに。

だが、決してそうしようとはしないアキラを、自分は愛したのだ。
恥も外聞もなく欲しがり、その我儘を通した。
どうかしていると思ってみても、この恋情には逆らえなかった。


「あーくそ、やっぱこっちが先か」
源泉が乱暴な口調でそう言い捨てるのを聞いたと同時に、腕を強く引かれた。

そのまますっぽりと抱き込まれて、胸に頬を押し付けるような体勢になったアキラは目を瞠る。
軽く身じろいだものの、反対に強く抱きよせられ、源泉の存在をはっきりと意識させられた。
「オッサン……?」
源泉の大きな掌が背中を撫でてくれている。もう片方の手が髪を優しく梳いてゆく。
ぴったりと合わさった身体が、体温と煙草の匂いと少し速い鼓動をアキラに伝えてきた。

「お前も、ちゃんと俺を抱いてみな、アキラ…」
ゆるやかな、低い声。
そんな事を耳元で囁かれて、アキラはおずおずと源泉の身体に腕を回してみる。

ぎゅっと抱きしめると、そこには驚くほどの一体感があった。
自分の背筋を歓喜が這い上がったのを感じ、ゆるく吐息が漏れる。
源泉も同じように感じているのかが知りたくて、固く隆起した背中を何度も何度も撫でてみた。


「バカだな、お前さんは…何で俺だけが一方的に与えてばかりだなんて思えるんだか」
クシャクシャと髪をかき回す源泉の声はひどく甘く、アキラは恥ずかしくなって顔を逸らした。
「こうしてると分かるだろう?」

ああ分かる、とそう思った。
具体的に何ができているのかは知らない。
だが、自分が相手にちゃんと何かを注いでいるのを感じる。

たったこれだけの事で自分にそれを伝える源泉には、やはり敵わないと思った。
それでもアキラは無言で何度も頷いた。
(オッサンが俺を温めて……俺もオッサンを温めてる)
そう自覚すると、自分の中の頑なな物が溶け出してゆくようだった。
瞼の裏がじんと熱くなって、だがそれを嬉しいと思う。


「…なあ、アキラ。俺は10年ぐらいは準備期間でいいと思ってたんだ。10年たったってお前さん
まだ30かそこらだろ」
「準備期間…?何のだ」

いぶかしげに問い返すアキラを抱く腕をほんの少し緩めた。
だが居心地がいいのだろうか、珍しく寄り添ったまま離れようとしない。

源泉は微かに笑うと、アキラの肩越しにもう一度月を見つめた。
(月は、手に入らないもんの象徴でもあったな…)
アキラを月になぞらえるのはもう止めようと思う。手が届かなくなったりしたら、たまったものでは
ない。

「お前さんの世代はまともな教育を受けさせてもらえなかった。家族まで取り上げられた…」
「ああ、そうだな」

妙に淡々とした口調でアキラが相槌をうつ。当人は悲惨な事とも思っていないのかもしれない。
最初から、他の未来など用意されていなかった。
国は子供を親から引き離し、完全な軍事教育を施した。教えるのは、人の殺し方だけだった。
彼らはやがて戦場に行って人を殺し、やがては自分も誰かに殺される運命だったのだ。

「だからな、せめて10年ぐらいは色んな物を見て、色んな所に行って…お前が普通に得るはず
だった知識や経験を積ませてやりたかった。お前はそれを与えられてるなんて思わなくていい」

大人から搾取するなんざ、子供の当然の権利だ。
自分が年をとれば、また下の連中に食いモンにされるんだからな、と源泉は苦笑しながら語る。

「10年もオッサンの世話になってられるか」
「ったく、お前はそれだからな。仕事だってゆっくり自分に向いてるもんを選べばいいのに、さっさと
原稿書く仕事始めちまうし」

源泉が言い及んだ事実にアキラは一瞬眉を寄せた。
だが、やがて思い切ったように顔を上げ、男の顔をまっすぐに見る。
ずっと気にかかっていた事だ。今、はっきり聞いてしまうのがいいのかもしれない。


「オッサンは…俺が同じ仕事を選んだのが気に入らなかったんだろ…?」
思いつめたような目をしてそう問いかけるアキラに、源泉はとっさに返答に詰まらされた。
ああ、やはり感づいていたのかという苦さと同時に、愛しさが胸の中でない交ぜになる。
溢れそうな、矛盾した……だが矛盾していないこの思い。

「気に入らないなんて事はない…嬉しかったんだ、俺は」
「嘘つくなよ」
気色ばむアキラの肩を宥めるように叩きながら、源泉は月に目をやり、言葉を紡いでゆく。

「嘘じゃない、嬉しかった…お前が、俺の力になりたいと思ってくれてるのが分かってたからな」
「……オッサン」

両方の掌でアキラの頬をそっと包みこみ、美しい蒼を湛えた眼を見つめた。
この瞳と同じ色の空を背負って笑うアキラを見る度に。
自分は、自分のような存在にさえ、生きてきた事に意味があったのだと、そう思えた。

だから、失いたくなかった。
もう、アキラだけは失いたくなかったのだ。
生きていれば、耐え難いほどの悲しみに襲われる事もあると、お互いに知っていながら。


「だがな、俺はお前を二度とENEDに関わらせたくない…臆病だと思われても」
「俺も、当事者だ。忘れたわけじゃないだろ」
「…ああ、そうだな。だがそれはお前が矢面に立つ理由にはならん」

非Nicoleの保菌者。
アキラがそうだと知って、何かを仕掛けてくる人間も組織もこの6年いなかった。
だが、源泉と共にENEDに関われば、気づく輩がいるかもしれない。
そうでなくとも、口封じをしようとする動きなら既にあるのだ。

だがアキラはひどく大人びた笑みを浮かべながら、源泉を見上げた。
それはまるで、聞き分けのないのはオッサンの方だとでも言いたげな表情だった。
ふいに薄闇の中で身を起こすと、アキラは物も言わずにゆっくりと源泉の唇に唇で触れた。

「……アキラ?」
与えられた微かなキスに瞠目する源泉に、アキラは少し溜飲が下がったような気分になった。

「もう、今さらだろ、オッサン…」
自分の声が、笑っているのが分かる。
どのみち自分は源泉の傍から離れる気などないのだ。
関わらせたくないなどと、馬鹿げていると思った。勿論この男とて分かって言っているのだろうが。
「俺はあんたの関係者なんだ。非Nicoleのキャリアーだってのもいずれはバレるかもしれない」


……お前は、すでに色を手にした。そのまま、振り向くな』
今もどこかで生きているはずのナノの声が、血の色を伴ってふいに蘇ってきた。
そして墓標もないままにあの街に眠る、幼馴染の面影も。

だが自分は、贖罪の思いにかられてこの道を選んだわけではない。正義感ですらなかった。
たった一人と決めた相手と、最後まで一緒に生きたい。
そんな我儘を、ただひたすらに貫こうとしているだけだった。


「オッサンだって、いつ危ない目に遭うか分からない。だけど俺は…」
自分はきっとまだ子供なのだろう、とアキラは思う。
だが大人になるのを待っているわけにはいかない。この人に置いていかれたくない。
子供にも、譲れないものは存在するのだから。

「あんたにやめろとは言わない。そう決めてる」
「アキラ…」
「だから、あんたも俺を止めるな……頼むから、源泉」



名を呼んだ瞬間、源泉の暖かな目が、どうしようもないような表情に潤むのを見た気がした。
微かに震えているアキラの唇に、少しカサついた感触の唇が重なってくる。
眩暈のするような高揚に襲われながら、アキラは目の前の愛しい男を必死でかき抱いた。

唇の隙間から侵入した舌に優しく絡め取られ、舌の裏側を舐められているうちに、いつしか頭の
芯がぼうっと霞んでゆく。

髪を、耳元を、頬のラインを、源泉の指がそっとなぞった。
大きな体温に包まれ、煙草の匂いを感じると、それが唇と舌だけの愛撫をたまらないほどの快楽
に変えてくれた。

「オッサン…」
「んー?」
「月に…見られてる…」
「恥ずかしいのか?見せつけてやれ、俺が許す」
「…偉そうに」
「なんだ、余裕あるな、アキラ」


自分を照らしてくれるのは、太陽でも月でもなかった。
闇のその先に闇しかないと思えた時でさえ、手を繋いで歩いてくれた人がいるだけだった。

だから、自分もそうありたかった。
白くてか細い光でもいい。
この男のゆく道を照らしてやりたいと、ただそんな事を痛いほど願った。

いつか世界が終わる日か
どうしようもない力が、自分たちを分かつその日が来るまでは。


床に仰向けに横たわれば、ガラス越しに白くて丸い光の輪郭が霞んで見えていた。
アキラは目を細めそれを眺めたが、やがて覆いかぶさってきた源泉の肩口へと顔をすり寄せる。

耳元で源泉が笑う気配が伝わってきた。
いつまでたっても初々しくてたまらんなぁ、お前…と、熱っぽい口調でふざけた事を囁いたよう
だった。
あんた、ほんとにバカだろ、とアキラも言い返す。

だが、それきり二人は互いを目に映すばかりで、世界を照らす光源を朝が来るまで顧みようとは
しなかった。