Scene1.  決勝 5日前 (乾)


タオルで髪をわしわし拭きながら自室へ戻った俺は、そこにある人の気配に微笑した。

いつもならば無機質にさえ感じられる部屋。
今は、明かりを落としてあって薄暗い。
狭いベッドには、海堂が長い手足を持て余すように丸くなって眠っていた。


ここのところは、お互い余裕のない日々が続いていた。
それは今だって同じなのだが。
でも急に、彼に触れたくてたまらなくなったのだ。
珍しく無理を言う俺に、海堂は特に意義も唱えもせずに、両親が不在の今夜泊まりに
来てくれた。

うぬぼれてもいいのなら。
海堂も俺を欲しがってくれていたんじゃないかと思う。

今夜は二人とも、ほとんど言葉を交わさなかった。
ただ愛しげに触れ、キスをして抱き合い、行為に溺れた。
若いとか、余裕がないとか言われそうだが、相手は好きなひとなのだ。

正直、俺は彼に出会うまで、本当に欲しいと思って誰かを抱いたことがなかった。
その場の欲の解消がいいところで。
愛しむ、ということを知らずにいた。


そもそも俺には、誰かを大事に思う気持ちなどあの日からなかったのだろう。
恋愛とはまた違うが、大切だったと言える唯一の相手の消失。

あれから俺は、誰とも平均的に親しくさらりと付き合ってきた。
本音はもう、傷つきたくなかったんだと思う。

だけど彼が嘘みたいな鮮やかさで俺の前に現れて、世界は急激に色を変えた。
そして俺は知っていったのだ。
人間は、そんな風に自分を閉ざし一人で生きていくようにはできていないのだと。


「…せんぱい」
いつもよりも掠れた声が小さく俺を呼んだ。

驚いてそちらを見れば、ほの暗い中、海堂が目を開けていた。
俺は笑ってベッドの傍に膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。
「無理させちゃって、ごめんな。身体いたくないか」

日焼けした頬を指先でそっと撫でてやると、彼は緩慢な動作で首を振った。
「謝んな。俺だって、あんたと…」
さすがに最後まで言えなかったのか、ぎゅっと目をつぶってしまう。

そんな海堂が愛しくて、俺は優しい触れるだけのキスをした。
まだ身体に熱が残っていて、ささやかな接触でも怖いぐらいに感じてしまうのだが。


愉悦なんてのは、無理やり引き出すもんじゃないんだな。
好きな人となら、手を繋いでも、声を聞いても、目を見つめるだけでも、気持ちよくて
ドキドキする。

そんな風に思えるようになった自分が、別人みたいで不思議だった。
きみがいてくれるから、俺は目を逸らし続けてきたあの思い出とも、やっと向き合う
準備ができた。


……蓮二のことは、もう海堂に話してあった。
小学生の時、ダブルスペアを組んでいたこと。
データテニスを考えたのは元々蓮二で、俺はあいつから教わってデータを身に
つけたことも。

『自分で言うのもなんだけど、強いペアだったんだ。俺はまだ子供だったからね、
ずっと蓮二といられると信じてた』

正直に言えばあの時、俺は海堂がどんな反応をするのか見当もつかなかった。
彼は俺を好きでいてくれる。
その俺が昔特別に思い、今もある意味ひきずっている相手の話を聞くことは、複雑
な気分だろうと思ったのだ。


だが夕暮れの部屋で昔の写真にそうっと触れた海堂は、いつも以上に無口で
辛抱強かった。
堰を切ったように話したかと思えば言葉につまって黙る俺を、ただ真摯な眼差し
で見つめ、たまに頷く。
それは同情でも憐憫でもなく…限りなく、慈しみに近かった。

いつも動物めいた印象のある海堂だが、あの時は余計にそんな気がした。
前にTVのドキュメント番組で見たイルカみたいだと思った。
『イルカはたくさん人間がいても、その中で一番寂しくて傷ついてる人に寄って
行くんです。そういうことが本能的に分かるんですね』

彼には分かっていたんだと思う。
子供の俺が傷ついたまま、泣くこともできずに立ち尽くしていることが。



「先輩、あんたももう寝ろよ」
ごそごそ端に寄って、狭いベッドに俺のスペースを空けてくれる海堂の前髪を、
俺はさらりとかきあげた。
「んーでも久しぶりだから、海堂の寝顔見てたいんだ」

本当に全国大会まで行けるなら、次はいつ海堂とゆっくりできるか分からない。
そう思うと、俺は海堂にひどく甘えたい気分になった。

「あんた、まさかまた不眠症なんじゃねーだろうな!?」
だが恋人に意外な事を問い質され、俺はびっくりしてから笑ってしまった。
海堂と付き合う前、告白する踏ん切りがつかなかった俺は、不眠症になってしまっ
た前科があるのだ。

「ないない、なに試合に緊張するあまりって事か?」
「まあ、そういうような…」
ごにょごにょと言葉を濁す海堂の耳元に、俺は特別甘い声で囁いた。
「俺を不眠症にさせられるのは、海堂一人なんだが?」
「……っ!!」

俺の声に弱いらしい海堂は、耳を押さえて丸くなる。
「やらしい声出してんじゃねー」
「ひどいな…」
くすくすと笑いながら、海堂を布団でくるみ直してやる。
その時、薄闇の中で彼の瞳がひどく鮮やかに見えた。何か言いたげに。

「先輩…」
「んー?」
「あんた、俺を巻き込めばいいから」
「海堂?」

(この因縁試合に、俺はきみを)
(……どうしたって、ひきずりこんでしまう)

「俺はあんたにそれしかしてやれねえ。だから迷惑かけるとか、背負わせるとか
考えるな。俺を巻き込め」


それは、俺の弱さを見透かしたような言葉だった。
俺はやっぱり臆病だから、データを取り、先読みをする。あらゆる可能性を考えて
しまう。
だから分かっていた。どれほど勝率が低いのか。

海堂だって、自分の事で手一杯の時期なのだ。
本来なら、俺の事で気持ちをかき乱させるようなことはしたくなかった。
なのに試合だけに集中させたいと思いながら、蓮二のことを話してしまったのは
俺のエゴだ。
それでも、見ていてほしかった。きみには分かってほしかった。


薄闇に紛れ、俺が泣きそうな顔をしたのに気づいたのだろうか。
海堂は布団から手を出し、そっと俺の頬に触れた。
思わずその手を握りこみ、きつく押し当てる。
あまりはっきりとは見えない中、そのぬくもりだけが俺には確かだった。

(どんなことをしても、勝ってみせる)
そう思った。
何年も何年も、俺の心に欠けていたような激しさで。

柳蓮二を倒すというのは…すべての過去や思い出と対峙することだったのだ。





Scene2.  試合直前 (海堂)


D1の激しさの余韻を残すように、ギャラリーはまだざわめいていた。
だがその空気が次第に諦めムードに支配されつつあるのを、俺は肌で感じ取って
いた。

常勝、立海大。
相手の力はまさにその名にふさわしいものだった。
関東の決勝まで勝ち上がって来た青学ですら、早くもダブルスをふたつとも落とし
ている。


自分のふがいなさを思うと、俺は悔しくてならなかった。
俺も桃城も必死で戦った。だが、試合を不利にしたのは俺だった。
自分のフィニッシュショットであるブーメランスネイクを、対戦相手のハゲにあっさり
返された衝撃は大きかった。

あれほど毎日努力して、乾先輩にも協力してもらってやっと完成した決め球。
それをなんてことない風に真似されて動けなくなった。

後半、俺が持ち直すのを辛抱強く待ってくれた桃城と、どうにか試合を立て直した
ものの、勝つことはできなかった。

俺は、もうコート内に入っている乾先輩の背中を見ていた。
勝って少しでも援護したかったのに、逆にあの人を追い詰めてしまったことが悔や
まれてならない。



「…海堂先輩」
全然気づかないうちに、越前が俺の傍に来ていた。
炭酸の缶を片手に、いつもの悠然とした態度で俺が立っている横のベンチに座る。

「なんだ」
いつも以上に、こいつにイライラした。
なんでこんな時に、わざわざ人の神経を逆撫でしに来るんだ、こいつは。

だが越前は俺に横顔を見せたまま、思いもかけない事を言った。
「乾先輩、やっぱあのジャージ似合うっすね」
「……え」

奴の視線の先には、青学のレギュラージャージを着た乾先輩の姿があった。
晴れわたった空よりも、もっと濃い青の色。
それは、4月にこいつと俺があの人から剥奪したものだった。

後悔してるわけじゃない。
だが何でもないような顔でマネージャー兼トレーナーをやっているあの人を見る
のは辛かった。
(それでも結局、前に進むしかない)


俺ははっとして、越前の飄々とした横顔を見た。
こいつはいつだってやたらとマイペースだ。今の言葉にも大した意味はなかった
のかもしれない。
だが。
俺の心のどこかに、それは響いた。

失ったものは取り返す。負けたら勝つまで挑む。振り向かないで進む。
いつだって、俺もあの人もそうしてきたのだ。

今も同じだ。
相手が誰でも、どんな因縁があったとしても。
ただ貪欲に勝ちを目指す。自分は誰にも負けないと信じて戦う。
できることは、たったそれだけなのだ。



「フレー!フレー!青学!!」
河村先輩の声と共に、青学の応援旗が晴天の空にひるがえった。

青学の応援席に、わあっと歓声があがる。
圧倒的な不利の中で、まだ何も終わってはいないという思いが湧き上がる。

越前も俺も、少しの間その光景を眩しそうに見つめていた。
場内のわだかまった空気を一掃するような効果がそこにはあった。

河村先輩は強い人だなと思う。
あの人のやっている事は、平凡なようで実はあの人にしかできない事なのだ。

自分の中の迷いを、殺してくれる。
要らないものが濾過されていって。
今はもう、コートに一人で立つあの人を信じる気持ちだけがここにある。



「おチビ〜海堂〜っ!!もう始まるぞ。降りてこ〜い!」
菊丸先輩が手を振って合図するのを見て、俺は微かに笑った。

以前は自分一人で戦ってるんだから、チームメイトなんか意味がないと思って
いた時期もあった。
だが、今は分かる。
この一筋縄ではいかない面子があってこその青学なんだと。
隣に座っている、小生意気な一年生も含めて。

越前が珍しく虚をつかれたような顔で、俺の笑った口元を見上げたから、ざまあ
みろと思った。

「……越前」
「なんすか?」

テニスをしてる時は気づかないが実際はまだ小さな奴の背中を、俺は促すように
はたいてやった。
「牛乳飲めって、乾先輩に言われただろうが」

そのまま階段を降りはじめた俺の背後から、越前の笑い声が追いかけてくる。
だが、俺はもうそれにも振り向いたりはしなかった。





Scene3. 激突 (乾)


2ゲームを連取した俺に場内はどよめいていた。
誰にとっても意外な展開、というところか。
だが正直なところ、ギャラリーの反応を気にしている余裕はなかった。
俺はずっと何かの違和感に悩まされながら、プレーしていたのだ。


立ち上がりは上々だった。俺の読みはことごとく当たり、データは裏づけされた。

4年以上間近でプレーしていなかったが、俺は蓮二の成長をつぶさに見、データ
を更新し続けている。
ベンチに放りだしてある「柳ノート」は分厚く擦り切れていた。
それは表に出さなくとも、俺が蓮二を意識し続けてきた証だったのだ。


『そういえば俺達、今まで一度も本気で対戦したことないな。貞治と俺、どっちの
方が強いのかな』

あの頃、俺はまだ本当に子供で、楽しい日々がずっと続くと信じきっていた。
その無邪気な思いが、蓮二に引っ越す事を言えなくさせたのだと、今は分かる。
高架下で、電車の通る音にかき消された「ごめん」の言葉。

だが時が過ぎ、謝るのも今更に思えるほど俺達は別々に生きてきた。
だからもう今は、どちらかが倒れるまで戦って戦って、あの日の試合に決着を
着けるしかなかったのだ。

(蓮二。俺達は同じ武器を持ち、だが同じ場所へは二度と戻れない)

このままあっさり勝たせてもらえるとは、俺も思っていなかった。
だが3ゲーム目、戦況は激変する。



(まさか、追いつくはずが!?)

蓮二のプレーに隙がないのは百も承知だった。
だがネット前の左右の動きにほんのわずかの間隙が生じるのは、俺の頭に叩き
こまれていた、はずだった。
しかしその思惑とうらはらに、蓮二は楽に追いつき、俺は脇を抜かれた。

「どうした、貞治」
ゆっくりと、いたぶるような声。

「柳蓮二は前後の動きには俊敏でも、ネット前での左右の動きには若干フォロー
が遅れるはず、とでもいいたいのか?」

俺の焦りをよそに、蓮二は落ち着き払って確実にゲームを取り返していく。
さっきまでのリードが、まるで嘘のように目減りしてゆく。
(狙い球がことごとく返される。何故だ、何故なんだ!?)


それは俺のデータテニスそのものに対する攻撃だった。
蓮二のデータを瞬時にトレースし予測して、「これはできない」「これは届かない」
と答を出す俺をあざ笑うかのように、奴は動き、打ち返してきた。
データの、無力化。


俺の絶対の武器であるデータが、身動き取れないほど俺を縛っていた。
気ばかりが焦ってゆく。消耗し、大量の汗をかきはじめる。

逆をつかれた球に飛びついたものの届かずコートに倒れた俺を、蓮二が冷ややか
な目で眺めるのが分かった。
見切った、と言われた気がした。

俺達は同じ武器を持っているのだ。
その意味を改めて噛みしめる。
だとしたら、それをより柔軟に自由に使いこなせる方へと均衡は傾く。


『先輩…アンタは本当はもっと強いはずだ』

ベンチへ戻った俺は、決してギャラリーを仰ぎ見ることをしなかった。
だが座ってかたく目を閉じれば、試合前に彼が言ってくれた言葉が蘇る。
静かな、だが胸を灼くような声。
『データじゃなくて、乾貞治って人自身が』

いつからだろう。俺がデータに頼りすぎたプレーをするようになったのは。
武器を持たない自分の手にどれだけの力があるのかを、一度も省みようともせず
ここまで来てしまった。
いや、データを取り除いた時、自分に何も残らないのを知るのが怖かったのか。
だが、今は。



「…蓮二」
「うん?」

コートチェンジで俺の前を通り過ぎようとした蓮二を、硬い声で呼び止めた。
この場面で俺に話しかけられるのは予想外だったか、奴は案外あっさり振り返る。
そんなかつてのパートナーに、俺は宣言するように言った。

「俺のデータテニスが全て読まれているというのなら、俺はデータを捨てる」

その言葉に試合が始まって初めて、柳蓮二は虚をつかれた顔をした。
俺がそこまで悪あがきをすると思わなかった、とでも言いたげに。

自分のプレースタイルを捨てるというのが正気の沙汰じゃない事は、承知していた。
試合を投げたと思われても仕方がない。


だが、俺は俺の中で、何かが音をたてて外れたのを感じた。
自分を、開放する。
自分の中に押し込めていられたのが信じられない程の激しさが、満ちて溢れた。

それはテニスに対する情熱だった。
初めてラケットを握り、ボールを打った頃に感じた、誰にも負けないという思い。

……迷いが、引きちぎられた。





Scene4.  空の青 (海堂)


声をあげ、身体のすべての機能を使い、走り、跳び、倒れてもまた起き上がる。
あの人がこんななりふり構わないプレーをするのを、俺は初めて見た。

同じ青学の連中も度肝を抜かれた様子で、ただそれを見つめるだけだった。
鬼気迫る、とでもいうのか。
いつも計算しつくされた、冷静なテニスをする先輩のどこにこんな激しさが潜んで
いたのだろう。
それを思うと胸がつまった。


「あんな乾先輩、初めて見たぜ」
「これがデータを捨てた乾のテニス…」

桃城や大石先輩が口々につぶやくのを聞いているうちに、俺はいてもたってもいら
れなくなった。
視界に邪魔なものが入らない場所へと一人、移動をはじめる。
もっと、高い場所へ。
だが動きながらも、目は一瞬たりともあの人から離さなかった。


どんな思いでデータを封じて戦っているのだろう。
あの人が完全にデータを捨てるとは思えなかったが、今は本能のみで動いている
ような状態なのだろう。

どんなことをしても、何を失うことになっても、あの人はこの試合を勝ち取ろうとして
いる。
でないと自分が、今いる場所から一歩も進めないと知っているのだ。

だから俺も泣けない。
ただビデオカメラみたいに、あの人の姿をすべて網膜に焼きつけるだけだ。



思えば俺にテニスを教えてくれたのは、いつも先輩だった。
誰の手も借りないと突っぱねる俺のオーバーワークを諌め、トレーニングの仕方を
教え、決め球を完成するヒントを与えてくれた。

あんたはそれを身につけるのに、信じられない程の努力や勉強をしたはずなのに。
俺にはただ笑って見せるだけで、教えることをひとつも惜しんだりしなかった。

『あのな、俺は海堂が好きだけど、テニスをしている海堂はもっと好きだ。
だからおまえが怪我をして、テニスができなくなるような事態は絶対避けたいんだ。
これはただの俺の身勝手だよ』

いつだって導かれてばかりいた。
俺が重荷に感じないように、さらりと欲しいものを差し出してくれた人。


遠くから見ていても、先輩の身体がきしんで悲鳴をあげているのを感じた。
あの分厚い眼鏡のせいで普段は読めない表情が、今は明らかに苦しくて限界だと
さらけ出している。
つらくて、痛くて、見ていられないほどで。

『先輩…アンタは本当はもっと強いはずだ』

だが俺はそうなるのを承知で、あんたに容赦なく高いレベルを要求した。
優しい言葉をかけるのなんか、簡単だったのに。
まるで突き放すみたいに、そっけない声音でそう言った。

代わりに今、同じ痛みを俺も感じている。
ぎゅっと拳を握り、目を開けて、逃げずに立つ。



試合は3−4で先輩がリードしていた場面から、柳さんが追いつき追い越した。
ゲームカウント、5−4。

あと1ゲーム取られたら負けという状況に、ギャラリーもここまでかという不穏な
空気をはらんでざわめく。
もう終わりだと、誰もが思っているのかもしれない。

だが。
俺はベンチに戻っている先輩の姿から、高い空へと視線を移した。

「先輩、そろそろ場内黙らせろや」
空に向かって、低い声でつぶやく。期待ではなく確信を込めて。


あんたは負けない。
コートの外にいる人間に、どれだけの力があるのかは分からないが、俺は信じる
ことをやめない。
自分が試合で苦しい場面でそうするのと同じに、凛として立つ。
それだけが、俺があんたにしてやれることだった。


「これより先のデータはない。来い、蓮二」

そしてあんたも、思い出に決着を着けるのだ。今日、この場所で。
果たせなかった約束。途切れたままの、試合。

激しい、終わらないラリーの応酬が始まった。
もはや駆け引きではなく、死力を尽くすだけの戦いに突入していた。


(俺はここにいるから、先輩)
祈るように、何度も繰り返す。
あんたが帰って来られるように、目印みたいにここにいる。

そんな風に誰かを思うようになった自分が、不思議だった。
先輩は広く浅く人と付き合い、俺は他人をむやみに拒絶してばかりいたのに。
誰にも頼らず一人で戦えると思っていた頃から、さほど経ってはいないのに。


なあ先輩、俺達は
なんて遠くまで来てしまったんだろう。





Scene5.  空の青 (乾)


完全に逆をつかれたショットを、踏みとどまり渾身の力で打ち返した俺は、眼鏡を
ふっ飛ばしながら倒れた。

途端に視界がぼやけて、聴覚の方がクリアになる。
声援とどよめきが痛いほど聞こえてきた。
同時に、自分の心臓の音がどうかしてるんじゃないかと思う程大きく、ドクドク響い
てくる。

手探りで眼鏡を調べてみると、衝撃でひびが入ったらしかった。
審判に断りをいれ、俺は一度ベンチへと退いた。

腕も足も重くて重くて、身体中がギシギシ悲鳴をあげている。
なんでさっきまで自分が平気で動いていられたのか分からなかった。
限界なんてものがあるとしても、とっくに超えている気がする。
蓮二も同じような状況なのだろうかと、ふと考えた。


「あと一息だ、頑張れ!」
「はい」

スペアの眼鏡を取り出しながら、竜崎先生の声を聞く。
ありふれた激励の台詞に、今の俺にはもうそれしか言いようがないんだろうと思っ
たら少しおかしかった。
作戦も駆け引きも何もない。ただ死力を尽くしてぶつかるのみ。


眼鏡を掛け直しハッキリした視界に、英二と越前がピースしてる姿がイキナリ映り
込んできてびっくりした。
ふたりとも、ものすごい笑顔だ。
俺はきょとんとして首を傾げる。

……そのまま、視線を走らせてみて。
急に世界がパノラマになったような錯覚を起こした。
(みんな、いてくれる)


試合が始まってから、集中しているせいであまり見ていなかった青学の応援席。
そこからみんなが俺を見て、思い思いの激励のサインを送ってくれていた。
こんな苦しい場面なのに、だから余計にだろうか、皆笑ってる。

越前、英二、桃、一年たち、大石、不二、応援旗を掲げるタカさん。
みんなの見渡すかぎりの応援を自分が受けているのを知って、胸がいっぱいに
なった。
俺はあまり応援で発奮するタイプのプレーヤーじゃないと思っていたが。
試合中に、こんなに自分が一人じゃないと感じたのは初めてだった。



それから、ゆっくりと視線を移動させていった俺は、ふと太陽の光に自分の手を
かざした。
ギャラリー席の、一番高い位置を見上げる。
探していたひとを、そこにようやく見つけた。
(…ああ、きみがいる)

一人離れて立つ海堂の姿は、下から見ている俺にはまるで空を切り取ったように
鮮かだった。

空の青、そして青学ジャージの群青。
美しいふたつの青が溶け合う場所。


さっきまで耳にドクドク響いていた自分の心臓の音が、急速に静まっていった。
それほど彼の姿には、俺を粛然とさせるものがあった。

海堂は、自分自身がコートで戦う時のようなつよい目で俺を見下ろしていた。
凛として揺るがずに、目印のようにそこに立つ。
巻き込めときみは俺に言ったけど、そんなのは無理だよ。
(きみは何かに流される人じゃないだろう?)


俺の口元に、この場にそぐわないような微笑が浮かんだ。
キツいぐらいの眼差しで俺を見るきみに、どんなに言葉を重ねるより好きだと言わ
れていると感じたからだ。

(ホント、俺はかっこいい人を好きになっちゃって、大変だ)

しあわせで。
きっと今、俺は世界一幸せで。
こんな風に愛してもらえたら、何を恐れることがあるだろう。


最初から、いつもきみには負けている気がした。
俺の方が絶対好きだと思うのに、ひょいっとその上を越えてゆく。
いとしいひと。

まあ俺だって、負けるつもりはないが。
この試合が終わったら、きみを抱きしめにいく。
覚悟はしておいてほしいな、と俺は場所にそぐわぬ不埒な笑い方をした。



(なんで今まで分からなかったんだろう)

海堂のバンダナの結んだ先が、風にのってひらひらはためくのを見ていた。
答が、胸に落ちてくる。
馬鹿みたいにシンプルで、でもきみが一番伝えたかったことを、俺は知った。

彼の望みは、ただ手に入る勝利だけではなく、
俺がすべてを賭けて戦うことだったのだ。