SNOW  FLAKES



Scene1.


待ち合わせ場所への道を、乾はうきうきとした気持ちを抑えきれないまま、急いでいた。

街中でなくても、そこここにクリスマスの飾りが目立つ時期。
鮮やかなポインセチアの赤や、小さなクリスマスツリー、昼だから灯りはついていないけれど家の木に電飾を
巻きつけているところもある。
時折、店の中からクリスマスソングが聞こえてきて、雰囲気は最高潮に達しようとしていた。


クリスマスイヴまであと5日に迫った、今日は土曜日だった。
乾はもう実質的にはテニス部を引退していたし、今日は海堂も部が休みで、これから二人でクリスマスの
買い物にゆくのだ。




実は昨日の夜から、海堂の両親は法事だとかで泊りがけで出かけてしまっていた。

葉末も日中は遊びに行くらしいので、帰りに海堂と夕飯の買出しをして、二人に晩御飯を振るまってあげようと
乾は一人で勝手に決めていた。

(今日は葉末くんの好みに合わせてあげた方がいいだろうな。あのぐらいの子が好きなメニューといえば……
えびフライなんかどうだろう、大きいヤツ。タルタルソースも手作りして…)


海堂と二人きりに越したことはないが、乾は葉末が一緒にいるのを嫌だと思った事はなかった。
自分には兄弟がいないから弟という存在が物珍しかったし、葉末が海堂そっくりなのもポイントが高い。


それ以上に、海堂と付き合いはじめてから約一年の間、何度か訪れた危機には必ずと言っていいほど葉末が
力を貸してくれた。
勿論、葉末は大好きな兄のために行動しているのだろうが、感謝してもしきれないといつも思う。
乾があの子を「守護天使」と呼んでいるのは、決して冗談ではないのだ。





…今年は暖冬だとテレビのニュースは繰り返し告げていたが、昨夜から急に冷え込んだ。

この冬にしては珍しく空気がキンと冴えていて、今夜あたり雪が降るかもしれないなと思う。
関東でクリスマスに雪が降ることなどほとんどないのだろうが、時期的に少しは寒くなってくれないと気分が
盛り上がらない気がした。


(海堂が俺に好きだって言ってくれた時は、雪が降っててすごくロマンチックだったもんな)

その場面を思い出しただけで、乾は胸がいっぱいになった。
客観的に見れば現場はすごいドカ雪だったし、本人は突然告白されて半泣きだったはずだ。
だが乾の脳内では、海堂がかっこよかった事を中心にすべてが構成されるため、ドラマの最終回並に盛り上がった
事になっているのだ。

海堂が聞いたら「あれのどこがロマンチックなんだよ、二人とも雪だるまみたいだったじゃねえか」と苦情を言うこと
請け合いだった。




(今日俺も、海堂に何をプレゼントするのか決めよう)

しかし母親譲りの能天気さを持つ乾は、一年前の告白劇の思い出にすっかり気を良くして、いそいそと愛しい
恋人への贈り物の事を考え始めた。

もちろん乾は海堂へのクリスマスプレゼントなど、3ヶ月も前からリサーチしている。
だが今日一緒に買い物をしている時に、彼が今欲しがっているものが大穴で分かるかもしれない。

海堂は育ちがいいから、人からプレゼントされた物を粗末に扱ったりしないけれど、できればあの子が一番喜ぶ
物をあげたかった。
照れくさそうに笑って、ありがとうございますと言う顔が早く見たい。


(海堂も、俺に何かプレゼント用意してくれてるかなあ)
そう考えただけでワクワクしてきて、乾は襟元に巻いたマフラーに顎を埋めて、笑った口元をごまかした。
人に見られても別に構いはしなかったのだが。
誰かにそんな期待をしてもいいんだと実感するだけで、心の中がほかほかしてきた。




…小さい頃はクリスマスなんか大嫌いだった。

乾は物分りのいい子供だったが、それでも誕生日とクリスマスぐらいは両親と楽しく過ごしたかった。
だけど両親は仕事で忙しくて、約束はいつだってダメになってばかりだった。

だからサンタもケーキもツリーもプレゼントも、興味のないふりをした。

(まともに考えれば、煙突からサンタが入ってくるなんて不法侵入だし)
(キリスト教でもないのに、何を祝ってるんだか)
(欲しい物があったら、言えば買ってもらえるし)
(別にケーキなんか食べたくないよ)

クリスマスにはしゃぐクラスメートたちを子供っぽいと冷めた目で眺め、羨ましさに気づかないふりをしているうちに
自分はいつのまにか大きくなってしまった。
だから楽しい思い出なんてひとつもなかったのだ。そう、去年までは。




だがちょうど去年の今ごろ、乾には大好きな大好きな人ができた。
奇跡みたいな話だが、彼と『お付き合い』をするようになったのだ。

とたんに乾は、サンタになりたくなった。あの子専属のサンタになってプレゼントをあげたい。
乾は、海堂が嬉しそうな顔をするところを見るのが、とても好きだったのだ。


あんまり高価な物をあげたら、彼は困惑してしまうだろう。
だけど初めてのプレゼントだから、あんまり安っぽい物もよくない。
だいたいよく観察してみると彼の持ち物はどれも、結構値段がはる上質な物が多かった。

なるべくいつも使ってもらえる物がいい。使ってくれるだろうか?
渡す時も彼が困ってしまわないように、さりげなく渡した方がいいだろう。

迷った挙句、海堂によく似合いそうな皮の手袋を買った。
内側にふかふかの毛が張ってあって、見た目とうらはらに暖かい。
これなら気に入ってもらえるかもしれないと、自分の用意した贈り物に満足した乾は、今までにないぐらいクリスマス
イヴを待ち遠しく思った。




そして当日、部活が終わった後に海堂と一緒に帰った。
陽が落ちてもう薄暗い街灯の下で、彼と別れる瞬間に、乾はタイミングを見計らってプレゼントを差し出した。

『これ、海堂にクリスマスプレゼントなんだ。大したもんじゃないけどね、使って』

綺麗にラッピングしてもらった薄い箱を、なるべく何でもないような口調で、彼にそっと手渡す。
あの頃はまだキスもしたことなかったから、手がちょっと触れただけでもどきどきした。
海堂はびっくりしたように、渡された包みと乾の顔を交互に見つめてきた。

『あ…りがとうございます。あの、先輩…』
『うん、じゃあ海堂、また明日な』
『ちょ…乾先輩!!』

彼が口ごもっているのは、突然プレゼントを渡されて驚いたからだろうと解釈した乾が背を向けた瞬間、海堂が
後ろから乾のコートをぐいーっと引っ張った。
驚いて振り向くと、ほとんどぶつかるような勢いで、俯いた海堂が何かを押し付けてきている。


(え、なに……)
手元を見てみると、海堂がグイグイ押し付けているのはツリーの模様の包装紙に包まれリボンのかかった箱だった。
さっき、乾が渡した物とは明らかに違う。
つまりこれは、カンチガイでなければ、海堂からのプレゼントなのではないだろうか…

(今日は24日で、クリスマスイヴで)
(その日にちゃんとプレゼントをくれたって事は、前もって用意してくれてたわけで)
(俺に海堂が?うわ、ちょっと待ってくれ、どうしたらいいんだ、嬉し……)



いつも冷静沈着でデータ至上主義のはずの乾の思考は、嬉しさのあまり完全にショートした。
まだ二人が付き合いだして、二週間ほどしかたっていない。
海堂が自分にプレゼントを用意してくれる可能性など、これっぱかしも考えていなかったのに。

『俺も…んな大したもんじゃないっす。気に入らなかったら、別に使わなくても…』

急に黙りこんでしまった乾に困惑したのか、海堂が低い声でぼそぼそとそんな事を言っているのが聞こえた。
いけない。嬉しさに呆然としていたら、彼が妙な誤解をしてしまうではないか。



乾は、とっさに海堂の手をプレゼントごと両手で包み込んだ。
寒い中を歩いてきたから、二人とも冷たい手をしていたが、触れ合うとそこから熱が生まれた。
二人でいるから、感じられるぬくもり。

大切なのは、物をあげたり貰ったりすることじゃないんだと、乾はその時初めて気がついた。
(海堂は俺のこと考えてくれてたんだ。一緒にいない時にも、俺のことを)
その気持ちが、今交換したばかりのプレゼントに詰まっている。



『…初めてだ、俺のところにサンタが来てくれたの』

彼がどんな家で育った人なのか、その頃まだ知らなかった。
海堂にとってはクリスマスのプレゼントなんて、特別な事じゃないかもしれないとも感じた。
だが、乾には特別なことだった。
自分がどんなに嬉しいかを伝えたくて、優しい声でそう囁いた。

『俺が…サンタっすか…?』
『そうだよ、俺ずっと待ってたんだ。嬉しいな…』


きょとんとした顔つきの海堂には、いつもの張りつめた雰囲気がなくて、とてもかわいかった。
抱きよせたくなる衝動をこらえて、代わりに握った手に力をこめる。

自分は誰かに甘えたことなどなかったけれど、この人の気持ちがどうしても欲しいのだ。
ワガママだと言われても。今だけじゃなく、これからもずっと。
独り占めしたい。



『俺が一年いい子にしてたら、来年もまた来てくれる…?』

乾がどんな寂しさを抱えて成長したのかを、彼もあの時まだ知らなかった。
黒い瞳が、問いただすように見つめ返してきた。
この人はなんでこんな事を言うんだろうって、一生懸命に考えている様子だった。

だがやがて、本能的に何かを察したのだろう。
握られた手をそのままにして、海堂は薄暗い街灯の下で、照れくさそうにほんの少しだけ笑ってくれた。

『いいっすよ…アンタがいい子にしてたらな』






……またもや一年前の思い出にじんわり浸っていた乾は、携帯の着信音に、ここでようやく気がついた。

便利は便利だが、何て無粋な機械なのだろうと眉をひそめる。
俺が海堂の事を考えてる時は鳴らないモード、というのはないのかと身勝手な事を考えながら電話に出た。

「ハイ、乾…」
『あ、乾さん、スミマセン、葉末です!!あの…あのっ兄さんにもう会いましたか!?』
「いや、まだだけど。どうしたの、何か急用?」

だが海堂も携帯は持っているはずだ。
何故自分の方にかけてきたのだろうといぶかしく思った乾は、葉末が慌てた口調で告げる内容を聞きながら、
次第に眉間に深い皺を寄せていった。





葉末との電話を切った後、待ち合わせの時間にはまだ余裕があるのに、乾は息せききって走った。

海堂は必ず時間より早く来るし、自分はそれより早く行って待っていたいという悪循環で、二人の待ち合わせ時間は
あまり意味を成した事がない。
乾的には大好きな人が駆け寄ってくる姿を見たい気持ちを理解してほしいのだが、「アンタ約束の10分前より早く
絶対来んな!」といつでも叱られる始末だ。

だが今日の海堂は止める葉末を振り切って出かけているから、おそらくもう到着している。



コンビニの前に立つダッフルコートを着た海堂の姿を認めた瞬間、乾はものすごい勢いで駆け寄って、無言でいきなり
彼の手首を掴んだ。

「せ、先輩!?どうしたんすか」
いつもはだらしない笑顔で海堂に向かって手を振る乾が、今日に限ってひどく怖い顔をしている。
その迫力に、さすがの海堂も息を飲んだ。

だが海堂の抗議を無視して、乾は火照った頬にも手を当てた。
寒そうに肩をすぼめている海堂は、目は潤んでるし、声はガラガラ、その上明らかに熱が高い。


「どうしたもこうしたもないだろ。帰るよ、海堂」
ようやく乾が発した第一声は、有無を言わせないような厳しさだった。

普段は海堂に甘々の乾だが、無茶をやらかした時にはけっこう容赦なく叱ってくる。
抑揚のない声が完全に怒っているから、海堂は内心ひやっとした。
(…何で俺が風邪ひいてるってバレたんだ、この人に)
誰が見ても分かるほどつらそうな様子の自分に気づかずに、熱でぼんやりした頭の中でそうぼやく。


「でも先輩、俺今日行かないと、買い物…間に合わねえし…」
「知ってるけど無理だろう、そんな熱があるくせに。人ごみの中で倒れて救急車に乗りたいのか」
「でも…葉末の…」
「それはクリスマスまでにちゃんと俺が付き合ってあげるから。言うこときいて、海堂」
「………はい」



正直言うと、海堂はもうフラフラだった。
朝起きた瞬間から熱があるのは分かっていたし、喉も頭も背中も痛かった。
だが葉末の制止を振り切ってまで家を出てきた手前、引っ込みがつかなくなっていた。


意固地になっている自分を、乾が叱って連れ帰ろうとしてくれている事に内心ホッとする。
(こーゆー時は、なんか…頼りになんだよな、この人も…)
素直になれない時の自分は、優しくされると余計に意地をはる。
そんなところも、多分もう、乾にはお見通しなのだろう。少し悔しい気もするが。


安心すると余計に足元がおぼつかなくなってきた。
何回か咳をすると、熱がかーっと上がるのをはっきりと感じる。


人目など気にもとめない乾が、肩を抱くようにして車の通っている道の方へ連れていってくれた。
(意地はらないで、家で寝てればよかったか…)
心配かけてしまったとさすがに海堂が後悔しているうちに、乾はさっさとタクシーを拾う。
私服姿の乾はとうてい中学生に見えないから、こういう時に便利だなと妙なところに感心した。

「近くて悪いんですけど、病人なんで、お願いします」
大好きな声が世慣れた調子で運転手にそう告げるのを聞くと、おかしなぐらい安心感が襲ってきた。


海堂はフラフラする頭を固定するように、隣に座った乾の肩に寄りかかった。
『もう怒ってないよ』と告げるように、乾が引き寄せてくれるのを感じたから、嬉しくなった。

(ホントに…甘やかされてんな、俺、この人に……)

ボーっとしている頭の片隅で海堂は考えたが、車内の暖かさと、もたれた乾の肩の確かさに、それもだんだんと
紛れてゆく。
家までのほんの短い時間を、海堂は乾の腕に子供のように守られて、うとうとと眠り続けた。







Scene2.


(困ったな、もうこんな時間だ。探しにいった方がいいのか。しかし入れ違ってはまずいし…)

穂摘のピンクのエプロンを勝手に着こんで、海堂家のキッチンに立った乾はため息をついた。
さっきから時計を見たり、携帯を見たりの繰り返しだ。

もう夕飯の支度は完璧なまでにできているのだが、食べてくれる人がここにいない。
そろそろ夕方の6時になろうとしているのに、葉末がまだ帰って来ないのだ。




風邪でフラフラのくせに待ち合わせの場所に現れた海堂を、無理やり家に連れ帰った乾は、多分まだ葉末が
家にいるだろうとふんで、チャイムを鳴らした。
案の定、待ち構えていたようにドアが開き、葉末が飛び出してきた。

『兄さん、大丈夫ですか!?ああ、乾さんすみませんでした…』
『いや、とにかく熱があるし、寝かせようか。薬あるかな』
『ハイ、用意してあります。氷枕とかもいりますよね』

はきはきと答える葉末を見て、しっかりしてるなあと乾は感心しきりだった。
今日はお母さんも家にいないし、病人が出たら、普通の小学生ならオロオロしそうなものなのに。


とりあえずリビングのソファにぐったりした海堂を横にならせてから、色々な事をチェックした。
冷凍庫の氷が少ないから買って来ないとねとか、今日は俺泊まるから、晩御飯も作るし心配いらないよなどと
葉末に言ってきかせる。

乾が泊まってくれると知って、やはり葉末はホッとした様子だった。
熱が高い海堂の容態が夜中に急変したりしたら、どうしようと思っていたのだろう。
ありがとうございます乾さん、と小さい声で礼を言った葉末の頭を、乾は笑顔でぽんぽんとたたいてやった。
病気の海堂を二人で守ってあげているという、ほのぼのとした連帯感が二人の間に生まれつつあったのだ。



だが事態はそこから悪化しはじめた。
寝室に運んでちゃんと寝かせてやろうと、乾が眠っている海堂を抱きおこした時のことだ。

いつのまにか目を覚ましていた海堂は、目の前の乾を見ると『あ、乾先輩…』と子供のように嬉しそうに笑った。
それだけでなく、なんと手を伸ばしてぎゅうっとしがみついてくる。
それはもう見たことのないような無防備さで、乾は脳が沸騰するかと思った。


だが今度は海堂の視線はフラフラ〜っと横に流れ、傍に立っていた葉末を認識した。
5秒ほど黙っていたのは、回らない頭で何かいろいろと考えていたらしい。
そして、もうろうとした口調でこう言ったのだ。
『あれ…葉末、おまえまだ遊びに行ってなかったのか…?』


海堂に悪気があったわけではない。自分で何を言ってるのかも分かっていなかったのだろう。
だがそれにしても、この発言に乾はひやりとした。

葉末がどんなに心配しているのかは、兄を連れ帰ってくれと乾に電話してきた事からも分かる。
遊びに行く約束も、きっともう断ってしまったのではないだろうか。
いくら乾がついているといっても、兄のことを他人任せにする子ではないのだから。

そんな葉末に対して、海堂の言葉はさすがに少し無神経ではあった。
(うわ、海堂マズいんだけど、その台詞…)

焦りまくった乾が見やると、葉末は頬を赤くして怒ったような泣きそうな顔をしていた。
小さい拳をぎゅうっと握りしめている。
性格は全然違うのに、それは悔しいことがあった時の海堂にそっくりで、ああ兄弟なんだなと納得させられた。


『……もう、知らないです』
『は、葉末くん?あのさ…』
『兄さんは乾さんがいればそれでいいんでしょう。もう僕、兄さんのことなんか知らないです!!』
『ああっ、葉末くん!?頼む、ちょっと話しあおう、な?』
『乾さんも兄さんもキライです!ついてこないでください!!』


海堂そっくりの顔にキライだと言われた衝撃は爆弾並で、乾は真剣にヨロめいた。
(こ、これが世に言う兄弟ゲンカってやつか。でもキライって、なんで俺!?)

ソファに横たわっていた海堂も、ガラガラの声で「葉末、ちょっと待て」とか言っている。
だが葉末は足音荒くリビングから出ると、追いかけてきた乾の目の前でコートを着こみ、止める声をきれいに
無視して、さっさと出て行ってしまった。
ガチャッと鍵が閉まるのを、役に立たない乾はただ呆然と見送っていただけだった。



葉末が怒って出て行ってしまってから、海堂は泣きそうな顔をしていた。
めったにケンカをしたことなどないのだろう。
実際乾も、この兄弟がケンカをしている所を見る日が来るとは思ってもみなかった。

だが海堂をなだめすかして、着替えさせ、寝かせた。
『大丈夫だよ、俺、葉末くんの携帯に電話してみるし。あの子は賢い子だから、夕方になったらちゃんと帰ってくるよ』

熱を測ってみると、もはや39度に近かった。
氷枕を当てがわれ、額にも冷たいタオルを乗せられた海堂は、さすがに自分で探しに行くのを断念したらしい。
そんな事言い出したら縛っちゃうからなと、乾がやんわり(?)脅迫したせいかもしれなかったが。



飲まされた薬のせいで海堂がウトウトと眠っている間に、乾は超特急で買い物に行ってきた。
せめて葉末が喜びそうな夕飯を作ってあげようと思ったのだ。

(しかし兄弟ケンカとは…まいったな。データがなさすぎる…)
自分には兄弟がいないから、こういう時の対処法が全く思い浮かばない。

いや、自分は第三者なのだが、葉末が帰ってきた時にまず顔を合わせるのは自分だろう。
注意深く迎えてあげなければならない気がした。責任重大だ。

(だって、普段はあんなこと言う子じゃない。海堂のことが大好きで、しっかりしていて)
そんな葉末が感情を爆発させたのは、よほどの事だったに違いない。




……そして現在午後6時。
穂摘のエプロンに身を包んだ乾の手元では、暗雲たれこめる心とは裏腹に、夕飯の支度がどんどん出来上がり
つつあった。


目論見どおり大きな海老が手に入ったから、これは後でえびフライにして。
子供はみんな混ぜご飯が大好きだという妙な思い込みのもと、ご飯はカレー味のピラフにするつもりだ。
貝殻の形のパスタを入れた具だくさんのミネストローネや、生食用ほうれんそうとプチトマトとチーズのサラダ
だって作った。
デザートにプリンも買ってあるのだ。

(どんなに怒ってる子だって、このご飯を見たらちょっとは機嫌直してくれる…よな…?)

実は、自分が作っているのがお子様ランチのメニューみたいだと全く気づかないまま、乾は窓の外を見やった。
6時といっても冬なので、もう日が落ちてしまっている。やはり心配だ。
(ちょっとその辺を探してみるか、やっぱり)
帰って来てるけれど家に入りにくいのかもしれないと考えた乾は、コートに袖を通し携帯をポケットに突っ込んだ。





家にこっそり入ってきたものの、葉末はリビングに入る勇気が出なかった。
すりガラスの向こうでは、人が動いているのがぼんやりと映っている。
きっと乾が夕飯の支度をしてくれているのだ。

葉末が怒って家を出てきてからも、何度も携帯が鳴っていた。
風邪をひいて熱のある兄に心配させるのも、その兄を乾に押し付けてきたのも、よくない事だと知っていた。
だけど悔しかったのだ。乾の顔を見て安心しきったみたいに笑う兄の姿が。
葉末に遊びに行ってなかったのかと言ったのも、別に悪気があったわけじゃないとは思う。

(でも、あんな風に言われたら、僕はいらないみたいです。そりゃ、あんまり役に立たないけど)


もやもやした気持ちのままでクラスメートと遊んでいても、ちっとも楽しくなかった。
時折ポケットの中で鳴る携帯で、探されていると分かるから。

自分は悪くない、悪くないと何度もくり返してみても、あまり効果がなかった。
葉末にとって、兄を悲しませる自分はやっぱりダメな自分だった。



(どうしよう…やっぱり叱られますよね。でもいつまでもここに立ってるわけにもいかないし…)
寒い廊下に立ったまま、暖かそうなリビングを悲しげに見つめていたその瞬間、突然ドアが開いた。

「え…葉末くん!?」
コートを着た乾がぶつかりそうになって、びっくりしたような声を出す。

相手は背が高いから、顔を見るには思い切り見上げなければならなくて、上を向いたら涙が溢れそうになった。
眼鏡の奥の瞳には怒っている様子など微塵もなかったし、コートを着ているからきっと探しに行こうとして
くれていたのだ。


「ちょ、いつからいたの。寒いのに、そんなところで」
葉末くんまで風邪ひいちゃうだろ、と抱えるようにして室内に連れて入ってくれる。
リビングはとても暖かくて、葉末の気持ちは急速に緩んだ。


「すぐあったかいもの飲ませてあげるから、待ってて」
葉末を食卓の椅子に座らせると、そう言いながら、乾は珍しく慌てた手つきでやかんを火にかけている。
勝手に怒って飛び出していった自分のことなんか、放っておけばいいのに。
鼻の奥がツーンとして、泣きそうなのが分かった。


(この人は兄さんのことが好きで)
(別に僕にまで優しくする必要ないのに、こんなに心配してくれて)
(…そういうところ、好きになったんだろうなって)
(分かってるんです、本当は。もう僕が兄さんの一番じゃないことぐらい)


それを認めるのはちょっと悔しかった。だけど暖かな空気が、頑なになっていた心を溶かしてゆく。
今なら、ちゃんと素直になれるような気がした。


「……さい」
「え?」
「…ごめんなさい。僕、兄さんが乾さんの言うことばっかりきくから…なんか、悔しかったんです。ごめんなさ…」


はちみつの瓶にスプーンを突っ込んだ状態で、乾は固まってしまった。
急にぽろぽろと涙を零しはじめた葉末は、いつもと違って年相応に幼なく見えた。

(俺たちは、この子を大人みたいに扱いすぎてたんだな…)

しっかりしていて、わがままを言わない、賢い子。
そう言われ続け、ずっとそう振舞ってきた自分が、どうして気づいてやれなかったのだろう。


蓋を開けてみれば、簡単なことだった。ただのヤキモチ。
海堂を取られたような気がして、腹が立った。それだけのことだった。


「兄さん、いくら僕が止めても出かけるってきかなかったのに、乾さんに言われたらすぐ帰ってきたでしょう。
だから、だから僕…」


自分には兄弟はいないけれど、こんな気持ちは誰だって経験している。
(蓮二が他の奴とダブルス組んでたからムッとしたとか…俺もそういうのよくあったな、昔)

頭ではちゃんと分かってるのだ。だけど自分が好きな相手の一番になりたい。どうしてもなりたい。
だから、怒ったり、泣いたり、ワガママを言ったりする。
だけどそれは、子供の特権で、きっと許されている。


腹を立てる気持ちの裏側では、きっとみんな不安なのだ。
きっかけはささいなことでも、自分が必要のない存在に思えてしまって、泣きたくなる。
小さな心に住みついた、小さな孤独。それは黒くて重い。



親に愛されてないわけじゃないと分かっていても、振り向いてほしかった小さな自分の姿が見えた。

……ずっと、言ってほしかった。
おまえはまだ子供なんだからと。


『アンタ、わがまま言うの、ホント下手くそだな』
だけど寂しかった自分を抱きしめて暖めてくれたのは、両親ではなく、彼だった。

『言われたことを何でも叶えてやれるわけじゃないっすけど、あんたはわがままをもっと口に出して言っても
いいんだよ』

たくさんのものを諦めて大きくなった自分を、本当の意味で愛してくれたのは、彼だった。




椅子に座って泣きじゃくる葉末の前にしゃがみこんだ乾は、湯気の立つはちみつレモンのカップを握らせてやった。
甘い、甘い香りに、頬に涙の跡をつけたまま、葉末が顔をあげる。
ぽんぽんと頭を撫でて笑いかけてやると、ようやく飲み物に口をつけたからホッとした。

本当はヤキモチやきたいのは俺の方なんだがなあと、乾はちょっと苦笑気味になった。
(…だって俺は、きみには絶対かなわないからね)

愛情の種類が違っているのは百も承知だが、葉末を羨ましいと思う時があった。
海堂のこの子への愛情は、生まれた時から死ぬまで続く。
この世に不変のものがあるとしたら、まさしくそれだろう。


「……海堂には、葉末くんの代わりになる人なんてどこにもいないよ」

涙をためたままの漆黒の瞳に、乾は心をこめてそう言ってきかせた。
だから寂しくなる必要などない。彼の心には、必ず葉末の為の場所がある。
いつかもう少し大きくなったら、この子はきっとそれが分かるようになるだろう。



「あのね、さっきちゃんと言えばよかった。今日海堂がどうしても出かけたかったのは、葉末くんへのプレゼントを
買うためだったんだ」
「え……」
「いくつか候補があって、どれにするか迷ってるから俺にも見てほしいって。だから今日無茶をしたことは許して
やってくれないかな」


もつれた糸をほどいて、海堂が決して葉末をないがしろにしたわけじゃないのだと説明してやると、葉末の頬に
だんだん赤みがさしてきた。

「でも、心配かけるのは良くないからね。あとで謝らせるといいよ、海堂に」
そしたらちょっとは無茶しなくなるんじゃないかと笑う乾を見て、葉末はカップを握りしめたまま、泣き笑いのような
表情を浮かべた。

(ああ、ほんとよく似てるな)
葉末本人を否定するわけではないが、大好きな人の子供の頃をかいま見られたような気がしたから、それは乾に
とってとても貴重な瞬間だった。




背後で炊飯器がピーッピーッと派手な音を鳴らした。どうやらご飯も炊けたらしい。

リビングには大きなクリスマスツリーが据えられていて、他にもリースやポインセチア、サンタの人形なんかが
飾られている。
海堂家のクリスマスに対する気合を、感じさせられた。

大きな花瓶に生けられている、赤い実をつけた木は、どうやらヤドリギのようだ。
(穂摘さん、どこでこれ手に入れたんだ。意味分かって飾ってるのか…?)
去年突然クリスマス好きに変身した乾は、クリスマスの風習や飾り物についてもかなり詳しくなっていた。
だがヤドリギの実物を見たのは初めてだ。脳裏にすかさず悪だくみが浮かんでくる。


(……でもまあ、まずは夕飯だな。夜は長いんだし)
こんな楽しそうな部屋に、泣き顔の子供は似合わない。

乾は葉末の頭をくしゃくしゃ撫でると、気をひきたてるように、「ご飯にしようか。えびフライ好き?」と尋ねた。
キッチンにどんと置かれている大きな海老を見て、「大好きです!」と葉末が何度も頷く。


「じゃあ俺、今からこれ揚げるから、葉末くんは海堂にただいまを言ってくるといいよ。心配してる」

そう言って中身を入れ替えた氷枕を託すと、すっかり機嫌を直した様子の葉末はぱたぱたと軽い足音をたて、
兄の伏せっている二階へと上がっていった。
それを見送る乾は苦笑まじりだったが、とても暖かで優しい気持ちになる。


海堂が大事にしているものは、自分だって大事にしたい。
「好き」がそんな風に変化してくるとは思ってもいなかったけれど、今はこれがとても自然だ。
誰の真似でもない。あの子と出会った日から育ててきた恋は、こんな形になった。



窓の外には、葉末が点けたのだろうか、いつのまにか庭の木々にイルミネーションが灯っていた。

小さな宝石のような、白と青の清楚で優しい光の連なり。
海堂家の庭に施されたそれは、決して派手ではなかったが、聖なる夜を祝うのにふさわしくとても美しかった。


(……なんか雪が降ってるみたいだ)
心の中でそうつぶやくと、自分の想いに照れたように小さく笑い、乾はキッチンへと戻っていった。







Scene3.


喉がかわいたなという生理的欲求が、海堂を深い眠りから目覚めさせた。
うすぼんやりと開けた瞼の間から最初に見えたのは、自分の枕元に座って本を読んでいる乾の姿だった。

まだ、海堂が起きたことに気づかない。
だから、悪戯心をおこした海堂は、これを機会とまじまじ恋人を観察してやった。

(いつだって俺が観察されてるもんな)


寝室として区切られているこのスペースは畳だから、乾は片膝を立ててぺたんと座っていた。
相変わらず黒縁メガネが野暮ったく見せてはいるが、顔立ち自体はひどく端正だ。
均整の取れた長身、頼りがいのありそうな広い肩、本のページをめくる長い指。

最近海堂家に泊まることも多いので、気をきかせた穂摘が買ってきたパジャマを着ていて、風呂に入ってきた
のか、普段は立たせている髪がおりている。

これが、海堂は苦手だった。
さらりと髪をおろした乾は別人のようで、その上真顔で見つめられたら、海堂の鼓動はいつも持ち主を裏切って
速くなり、逃げ出したいような気持ちにさえなった。


好きなのは分かっている。そんなのは今さらだけど。
もう一年も付き合っているのに、ダメなのだ。
この人のちょっとした仕草や言葉に、心臓が止まりそうになる。

(俺なんで、こんなにこの人を好きかな。ずっと一人でも平気でやってきたくせに)


泣きたいような、じれったいような、苦しいような、だけどそれでも幸せで。
全部の想いが入り混じると、時々理由もなく抱きしめたくなった。

言葉ではとても言えない。だから自分から腕を伸ばして、頭を抱え込むようにして彼を抱く。
そういう時は乾も何かを感じるのか、決して茶化したりしたことがなかった。
ただとても安らいだ表情で、海堂に自分を預けてくれた。




「あれ…海堂、起きてたんだ。何、俺のことじーっと観察して、おもしろい?」

本から目を離した瞬間、熱でまだ潤んだ黒い瞳が自分を見ているのに気づいた乾は、笑って海堂の額に
かかった髪をかきあげた。
汗で少し湿った額に触れると、薬が効いたのか数時間前よりも明らかに熱が下がってきている。

「先輩、葉末は?」
「うん?もう寝たよ。さっき海堂の顔見に来たけど、よく眠ってたから」
「そっすか…すみません、今日は一日迷惑ばっかかけちまって…」
「俺はむしろ大歓迎だけどね。海堂が病気になるのは嫌だけど、こうやって傍にいられるし、看病もできたし」


この台詞を本気で言っているから、この人はいろんな意味ですごい。
普通に考えれば、今日の海堂兄弟は乾に迷惑をかけまくりだった。
なのに熱を出した海堂の世話をして、怒って家を飛び出していた葉末の気持ちも聞いてやり、二人に夕飯を
食べさせ、今またこうして海堂の看病に張り付いている。


横になったままで、海堂はじっと乾の顔を見つめた。
一年も付き合っているのだから、好かれているのは分かっているが、自分のどこに乾にこんなにしてもらえる
要素があるのだろうと不思議に思うのだ。


「アンタ俺を甘やかしすぎだ」
「甘やかされてダメになるような人でもないくせに、何言ってんの」


艶のある低い声でさらりとそう言い返すと、乾は背後に隠してあったお盆をズルズルっと引き寄せた。
ポットやカップ、はちみつの瓶、四つ切にしたレモン、スプーンなどがごちゃごちゃ乗せてある。
何のつもりか分からないが、階下に飾ってあった赤い実のついた木の枝まで乗っていた。

(人の部屋に何持ち込んでんだ、この人!?)

きれい好きの海堂は、普段自室に食べ物をめったに持ち込まない。
だが看病されているという負い目があるため、乾の暴挙にクレームをつけるのはぐっとこらえた。

確かにマンション住まいの乾にとって、何か欲しい物がある度に階下へ降りてゆくのは、とても面倒なのだろう。
鼻歌まじりではちみつレモンを作りはじめた乾の手元をぼーっと眺めながら、海堂は育った環境の違いというのを
妙なところで実感させられた。


「これ飲んだら、また眠るんだよ」
「昼間っからずっと寝てるのに、そんなに寝られないっすよ」
「うーん、まあそれもそうか」
ふたつのカップにレモンを絞りながら、困惑したように乾が唸る。

「じゃあ、何か話しようか。クリスマスの話してよ、海堂」
「……え」



カップの中身をカラカラとスプーンでかき混ぜながら乾が言った言葉に、海堂はドキンとした。

付き合っているうちにだんだん分かってきたことだ。
この人の両親は息子を自慢に思ってる優しい人たちだけど、二人とも仕事が忙しすぎた。
乾の家では家族の行事なんてものはほとんどありえない。

実際、今年の誕生日に母親と食事に行くはずだった乾が、あたりまえのように約束を反故にされるのを、海堂は
目の当たりにした。

(サンタだって、去年初めて来たとか、俺に言ったじゃねえか)
そんな乾に、クリスマスに家族と楽しかった話なんて、とてもできない。


だが飲み物を作り終えて海堂を起き上がらせてくれた乾は、「さっき庭のイルミネーションを見たよ。雪が降り
積もって光ってるみたいで、すごくきれいだった」などと楽しそうに語っている。


渡されたカップを両手で包み込み、湯気を顎に当てるようにしながら、海堂は表情を曇らせた。

こういう時、すごく難しいといつも思う。
乾をつらい気持ちにさせたくない。でも同情されてると感じさせて、嫌な思いもさせたくない。
だから口下手な自分は、いつもただ抱きしめてやるぐらいのことしかできないのだ。




二人はしばし黙ってはちみつレモンをすすっていたが、やがて乾が質問をしはじめた。
以前もっと海堂の口数が少なかった頃は、彼の言葉を引き出すべく、よくこの方法をとっていたものだ。


「海堂はプレゼントに何が欲しいか、サンタにどうやって伝えてたんだ?」
「……12月に入ったら、手紙を書けって言われるんすよ、サンタに」
「て…手紙??」

既にこの時点で乾の口元は、笑いをこらえているのか微妙にゆがんでいた。
それを見て、どうせなら笑かしてやるかと、海堂も少し気が楽になってきた。


「母親が、夜にサンタに電話をしとくから、何が欲しいか手紙に書いてねって言うんすよ。で、俺が一回、自分で
直接電話したいってゴネたことがあったんすけど……」
「ほ、穂摘さん…なんて…?」
「サンタは地球の裏側に住んでるから、向こうの昼間はこっちの夜中なんだって。薫は夜中まで起きてられない
でしょうって言われた」

憮然とした海堂の横顔を見ながら、乾はもう少しでこぼしそうになったカップを横に置くと、遠慮なく爆笑してくれた。


「…アンタ、笑いすぎ」
「だ…だって、海堂それ…かわいすぎるんだけど……」

かわいいな〜、たまんない、などと言っている全開の笑顔を、まだ熱の残るぼんやりした頭のまま海堂は鑑賞した。

髪をおろしたパジャマ姿の乾は、ものすごく素な感じだ。
この人のこんな顔を、他の誰にも見せたくないなと思った。

(あのなあ、アンタのその笑い顔、それの方がよっぽど…)

…かわいいだろうが、などと考えている自分に気がついて、海堂は突如ハッと我に返る。

マズイ、マズイ、マズイ。風邪というのはどうも人間を弱気にさせるらしい。
こんな甘ったるい事を考えるのは、当然自分に熱があるせいだと、無理やり決めつけることにした。




「…そんで俺、小学校3年のクリスマスの時、どうしても欲しい物があったんすよ」

膝を抱え直した海堂がまた話をしはじめたから、笑っていた乾は表情を改めた。
思い出をたどるように、海堂は視線を宙に浮かせて、ぽつりぽつりと言葉を繋ぐ。
いつもは強い光を湛えている瞳が、今夜は柔らかく潤んでいて、とてもきれいだった。

「だけど子供の目から見てもちょっと高いもんだったから、あれを貰えるほど自分が一年いい子だったか自信が
なくて…前の晩心配で眠れなかった」


「…で?プレゼントはちゃんと来た?」
それが何なのか、言われなくても乾には分かる気がした。

だけど彼の言葉で聞きたくて、先を促してやった。まだ少し掠れた声のままで海堂がうなずく。
「起きたらここに、ラケットとボールが置かれてた。俺、すげえ…嬉しかった……」

最後の声はとても小さくて、聞き取れないぐらいだった。
だが乾は、いつもどおり彼の言葉を大事に拾いあげ、宝物のように胸にしまう。

「……そっか。それが最初のラケットだったんだ」



その声に惹かれて顔をあげると、間違えようのない意味をこめて、乾が自分を見つめていた。

(あ、どうしよう…すげぇキスしたい……)
そう思った瞬間、乾の唇が額に触れ、まぶたにもゆっくりとくちづけてくる。
そこに少し長くとどまってから、今度は頬にもキスされた。

こういう時は言葉にしなくても、お互い分かるようになってしまった。

愛しい気持ちを同じぐらいに感じたら、好きな人には優しく触れたい。
抱きしめるのも身体を繋ぐのも大事だけれど、唇のキスは「好き」という言葉のようで、ひどく神聖な気がした。




だがやがて当然のごとく、乾が唇を触れ合わせようとした瞬間、さすがの海堂も我に返って手でグイーッと
乾の顔を引き剥がした。

「なに、痛いよ。ひどいなあ海堂ってば」
お預けをくわされた大型犬のような風情で、乾は涙目になって異議を申し立ててくる。


「ひどいなあじゃねえよ。伝染るだろ、風邪が」
「いやもう一日中これだけくっついてて、今さらそれはないだろうって感じなんですけど…」
「伝染るんだよ。今の俺はウィルスだらけなんすから!」

何故か自慢げにそんなことを言う海堂だったが、そこはもう一年の付き合い、乾も簡単に退こうとはしなかった。


「まあ最初から、海堂がそういう事を言い出す確率95%と見てはいたが…」
「100%っすよ。なんすか、その5%は」
「いや、海堂が雰囲気に流される可能性も考慮してたからな…」

ごにょごにょと言いつのる乾を見て、この人頭いいくせに何でこんなアホな事ばっかり考えてるんだと、海堂は
絶望的な気分になった。
(付き合ってらんねえ、ああ、なんか熱がものすごく上がったような気がする…)



だが海堂の気も知らず、乾は突然得々とした様子で、お盆の上の赤い実のついた枝を取り上げた。
海堂の目の前で、くるくるとそれを見せびらかす。

「何なんすか、それは」
「んー?本日の俺の魔法のアイテム。これヤドリギっていうんだ。知ってた?」
「ああ、なんか母親にそう聞いたっすけど…」
「じゃあ当然、穂摘さんに説明されてるよな。ヤドリギの下に立ってる人間は、誰にキスされても文句言えない
っていう風習」
「…せ、んぱい、今、なんて……」


にぃーっと悪だくみの顔で乾が笑い、自分の頭の上にヤドリギの枝がかざされるのを、海堂は嫌な汗を
かきながら呆然と見つめた。
「まな板の上の鯉」という言葉が、何故か脳裏をよぎる。
何が恐ろしいって、乾が自分とキスするために、ここまで周到に準備をしているのが怖かった。

「ど、どこの風習なんすか、それは…」
「んー?ヨーロッパ」
「ここは日本っすよ。ていうか、アンタそうまでして風邪ひきてぇのか!?」

「……もういいから、黙って、海堂」



信じられないぐらい甘い声が、制するようにそう囁いた途端、海堂は動けなくなってしまった。
『いい子、いい子』 とでも言いたげに、指先が髪をさらさらと梳いてゆく。

あんたズルイだろ、と海堂は胸の奥でつぶやいた。
全部、封じ込まれる。
力づくなら抵抗もできるのに、慈しまれてしまったら、拒む理由が自分の中に見つからない。


せめてもとキッと思い切り睨んでやったが、乾は笑って腕を広げ、海堂をふんわり抱きしめてきた。
「……こうやって二人きりになるの、久しぶりだったね」


考えてみればそうなのだ。12月に入って3年生は実質的には部を引退した。
当たり前のように毎日顔を合わせていたこの人との接点は、どんどんなくなってゆく。
春になれば、同じ敷地内とはいえ、中学生と高校生だ。


乾はマメな性格だから、いつも会いたいという意思表示をくれるが、これからは自分も努力しないと自然消滅
しかねない。
何日もお互いの顔を見られないなんて事態も、この先きっとあるだろう。

3年生になって青学を率いる立場になる自分と、高等部でレギュラーを獲るために頑張ってゆくであろう乾は、
とても遠い存在に思われた。


(…なんでこの人と同じ年に、生まれてこられなかったんだろう)

不安が胸をさし、そんなどうしようもない事を海堂は考えた。
だがまるでそれがバレたかのように、抱きしめてくれる腕に急に力が籠もる。


大丈夫だよ、と言い聞かせるように。



薄いパジャマを境目にして、乾の身体がひんやりと感じられて気持ちがよかった。
やはり自分は熱が高いらしいなと、観念するように海堂は思う。

だが、それでいいのかもしれない。
いつも自分の体温が高いのは、きっと自分の方がたくさん好きだという証拠なのだ。

この人に、恋をしている。




「…もういい。アンタが明日熱出しても、看病なんかしてやらねえからな」

憎まれ口としか言いようがないのに、それを聞いた乾が笑う気配が、触れた部分から伝わってきた。
何やかんや言いながら最後は許してしまう海堂を、お見通しのようだ。

身体をいったん離して、お互いの目を見つめた。
ごまかしの効かない、くらりとする一瞬だった。


「…キスしよっか、薫」
「好きにしろ、バカ」






……二人にとってこの一年は、駆け抜けたとしか言いようのない速さで過ぎた。

その間に自分の心には、乾のくれた想いがひとひらひとひら降り積もり、
今は雪景色のように、見渡すかぎりこんなにも白い。


こんな幸福を教えてくれた彼に、自分は何もしてやれないけれど。

(俺はアンタと一緒にいるから、先輩……)

せめてくり返し想おう。何度も、何度でも。
彼の心にも、雪のひとひらのようなそれが、いくつも重なってゆくと信じて。




クリスマスにはフライング気味の、小さな静かな夜だった。
絶対風邪が伝染ると確信していたが、海堂は笑いながら、降ってくる恋人のキスをひとつ残らず受け止めてやった。