Scene 1.  川べりの道


「あ〜あ、まだあっついにゃ!海堂重くない?もう一人連れてくればよかったかな」
「平気っすよ、これぐらい」

生暖かい川風が、頬をなぶってゆく。
もう夕方6時半は回っているはずなのだが、周囲は結構明るいままだった。

(…何時になったら花火ができるだろう)
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
自分が案外このイベントを楽しみにしていたと気づき、俺は知らず苦笑してしまっていた。


今日も昼間は変わらずにじりじりと暑く、夏そのものと言った一日で。
だが日が暮れてゆく今の時間、何かの拍子に季節がうつろう頼りなさみたいなものを感じたりもする。
8月30日。もうほとんど夏休みも終りの夕方だった。
川の流れを見下ろす土手の道を、菊丸先輩と俺は大荷物を下げて学校へ戻ろうとしていた。



そもそもは大石先輩と菊丸先輩が、福引で大量の花火を当てたのが事の発端だった。
いわゆるファミリーパックとかいうヤツだろうか。
手で持ってする花火から打ち上げ花火までぎっしり詰まった大袋を、5つも当てたらしい。

お祭り好きの菊丸先輩の頭には「夏休みの思い出!」という単語がすぐ浮かんだらしく、大石先輩に
せがんで、男テニの面々で花火大会をすることになったのだ。

全国大会が終わってからは、部も休みになっていた。
俺たちは、短いながらもようやく世間なみの夏休みを満喫している最中だった。
ある意味、この夏は異様な緊張感がずっと続いていたわけで。
その反動なのか、日ごろから規則正しい俺ですらだらだらしたい気分になっていた。


花火大会の連絡の電話が乾先輩に来たあの日は、ちょうど俺も一緒にいた。
厳密に言えば、とても電話に出られるような状況ではなかったのだが……

先輩は涙目で睨み上げる俺を、にっこりと笑顔ひとつで黙らせた。
そして何と手だけをせっせと動かしながら平気でしゃべり続けるという暴挙に出やがった。

「あーハイハイ、花火か。俺と海堂2名参加ということで頼むな」

俺はといえばヘンな声が漏れないように手で口を押さえ、必死で耐えるしかなかった。
なんせ乾先輩にのし掛かられたままだ。逃げることもできない。
電話の向こうの大石先輩が聞きでもしたら、心労のあまり胃に穴を開けそうだと思った。

ようやく先輩が電話を切った瞬間、我慢の限界に達した俺は怒りのままにマジ切れした。
ヤツの腹に青アザが残るような一発をお見舞いしてやったのも記憶に新しい。
乾先輩はしばらくベッドの下で悶絶していたが、いい気味だとしか思わなかった。
(てか、出るんじゃねーよ電話に!真っ最中に!!)



……それはともかくとしてだ。

何か手伝える事があるかと早めに乾先輩と学校に行ったところ、俺は大石先輩に買出しを頼まれた。
『一人2・300円徴収して、飲み物とお菓子でも買おうかと思ってな』

別名・青学の母とも言われるこの先輩は、手塚部長の復帰によって部長代理からは解放されたが
相変わらず部内を隅々まで仕切っている。
手伝うために来たのだから、俺に異存はなかったが、その任務には少し困惑した。

『いいっすけど、俺菓子とか詳しくないんで、どんなもん買えばいいか分かんねーんすけど…』
『あ!いいよ 薫ちゃん、俺も一緒に行く!』
『そうだな、英二はそういうの得意だし、海堂一人じゃ重いもんな』
というわけで、俺はひどくウキウキした様子の菊丸先輩と連れだって買出しに出かけたのだ。




「お、見て見て 海堂、飛行機雲!」
俺の前を弾むような足取りで歩いていた菊丸先輩が、大きな声をあげた。
光る川面ばかりを見ていた俺は、つられて空を見上げる。
茜や紫にグラデーションを描いた空に、白い筋がスーッと伸びている。

(この人、楽しいことを見つける天才だな)
いや、反対か。何でもないような事でも、この人がいるだけで楽しいような気がする。
俺は他人を羨むようなタチではなかったが、自分が口下手で無愛想なのは自覚していた。
だから、いつも太陽のようによく笑う菊丸先輩をいいなと思っていた。


「よし、薫ちゃんここで休憩!」
「はあ?」
唐突にそう宣言すると、菊丸先輩は土手際に一人でさっさと腰を下ろしてしまった。
飲み物の入った重いビニール袋を下げたまま、俺はぽかんと立ちつくす。

最初俺は、学校の傍のコンビニへ行くつもりなんだとばかり思っていた。
だが、先輩はかなり距離のある小さなスーパーの名を挙げた。
『もっと安いトコに行くのが主婦の知恵ってもんだにゃ!』という、ワケの分からない主張につられて
ついていったのだが。
何も休憩するほどの遠出でもないだろうに、と思う。

だが菊丸先輩は大きな瞳で俺をじぃ〜っと見つめると、自分の隣をポンポンと叩いて座るように促し
てきた。
(う……逆らえねえ)
これが体育会系の年功序列なのか。
何かが違うような気もしたが、ダメ押しのようににっこりされると弱い。
結局、まあ急ぐわけじゃねえしいいかと観念する。俺も先輩の横に腰を下ろした。


すると、菊丸先輩は下げていた袋をゴソゴソさぐって、中から細長い瓶を二本取り出した。
それは、擦れあって涼しそうな音をたてる透明な青いラムネの瓶だった。

「はいこれ、海堂のお駄賃」
「お駄賃…て。ああ、なんでこんな重そうなもん買うのかと思ってたら、自分らで飲むつもりだったん
すか」

他の飲み物はラージサイズのペットボトルで、紙コップもいっしょに買っていた。
だがそのカゴの中に、菊丸先輩が当たり前のような顔でラムネを二本入れるのを、俺は不思議に
思っていたのだ。

「ん〜プラスチックのもあるけどさ。あんなのは邪道だよ。やっぱラムネは瓶のでないと!」
「イヤ、そういう意味じゃねーっす…」

微妙に会話がズレている気がしたが、軽く頭を下げて瓶を受け取った。
ひやりとした感触。まだ充分に冷たい。
だがラベルを剥がし蓋を取ったところで、俺は頭の中が疑問符でいっぱいになった。
(……どうなってんだ、コレ?)

瓶の口のところには、ビー玉が詰まっていた。
確か人が飲んでるのを見た時は、このくびれの上のとこにビー玉が入っていた気がしたのだが。
これは不良品なのだろうか…?

「あれ、海堂ラムネ飲むのもしかして初めて?」
瓶の口を凝視して固まってしまった俺に気づいて、菊丸先輩が笑った。
俺は小さい頃から、あまり駄菓子の類やジュースなんかを買い食いしたことがない。
だから知らない事も結構多いのだが、この人に笑われても嫌な感じはしなかった。

「人が飲んでるのは見たことあるんすけど…」
「こやってね、フタのでっぱりで押して落とすんだよ」

見ていると先輩はフタを二つにパキンと分離させた。その片方のでっぱりのあるのを使うらしい。
先輩を真似て、がこんと押し入れると、ビー玉は液体に沈んでしゅわしゅわ泡がたった。
思わず先輩の顔を見ると 「あはは、海堂嬉しそうなカオ!かーわいいにゃ」 とからかわれてしまう。

「面白いモンすね。それに、きれいだし」
「だろー?」


俺の感想に満足げな顔をすると、菊丸先輩は足をぶらぶらさせながらラムネに口をつけた。
俺も夕焼けの色を受けて光る冷たい瓶をゆっくり鑑賞してから、飲んでみる。
サイダーなんかとまた違うような味だった。初めてなのに懐かしいような味。

「おいしい?気にいった?」
俺が急いで頷くと、すげー嬉しそうに笑った。

この人は兄姉がたくさんいる末っ子なので、たまにはお兄ちゃんぶってみたくなるらしい。
下級生はいくらでもいるのに、何故俺に白羽の矢が立つのかはよく分からないのだが。
でも、葉末が嬉しそうにすると俺も嬉しくなるから、それと似た感じなんだろうなとは思う。


「…海堂さあ、ずいぶん変わったよね」
「そっすか?」
「うんだって、前はなんか“近寄るな〜”オーラ出てたじゃん」

唐突にそう言われ、俺は首を傾げた。
どうなんだろう。今でも俺を遠巻きにしてるヤツは多いと思うんだが。
今の3年生が特殊という気がしなくもない。いろんな意味でマイペースな人ばっかだしな。


並んで座る俺たちを赤く照らし出しながら、徐々に一日が暮れてゆく。
背後を自転車が、さーっと走り過ぎていった。

俺たちはいつものジャージではなくTシャツとジーンズという軽装で、素足にビーチサンダルをつっかけ
た菊丸先輩は足をぶらぶらさせていた。。
フツーの友達同士みたいだな、という考えがよぎって少しおかしかった。

確かに俺は変わったのかもしれない。
こんな風に誰かと一緒にいることに、抵抗を感じなくなった。
何かしゃべらないととか、俺といてこの人楽しいんだろうかとか、もう気にならなくなった。


「でも変わったのは断然、乾だよ。アイツほんとデータ取る以外は他人に興味なかったのに、海堂には
最初っからメロメロだったじゃん!びっくりした、ホントに」
「そ…そーっすか…?」

言われた事にむせかけてラムネに口をつけたら、炭酸がキツくて俺は涙目になってしまった。
揺らす度に鳴る、ガラス玉のカラカラって音。
過ぎゆくものを懐かしいと思わせる、その音色。



まあ確かに、俺は乾先輩に大事にされていると思う。
あの人は、何げなく俺が言った言葉でも絶対に聞き流したりはしない。それは知ってる。

以前、先輩ん家でテレビを見ていた時に、梅酒のCMが流れたことがあった。
『アレ、食ってみてぇかも、俺……』
画面に映っていたのは、梅酒をかけたかき氷だった。

俺は実のところ、酒は結構いけるクチだ。
正月なんかには親戚に面白がって飲まされるのだが、さすがに家では母親もアレは作ってくれない
だろうなと、ぼんやり考えていたのだった。

『海堂、そういう事はもっと早く言わなくちゃ』
ソファに並んで座り俺にくっついていた大型犬…いや乾先輩が、無駄に良い声で重々しく答えた。
『今から梅酒を漬けていたら、間に合わないだろう?』
(そーいう問題か!?なんで酒から漬ける必要あんだよ!?)


一週間後、先輩の家に寄った俺は、キッチンにピカチュウのかき氷機が鎮座しているのを見つけて
激しい眩暈を覚えた。

『先輩…何だよアレ…買ったんすか』
『ああ、この前安売りしてたんだ。機械がないとかき氷できないし、黄色くて可愛いだろう?』

それは確かにピカチュウは可愛かった。小学生のいる家なら、あれもいいだろう。
だがこの機能的なキッチンで、あれが異様に浮いている事に、先輩は何故気づかないのか。

『お母さんに…何も言われなかったんすか?』
『何って?貞治くん、私にも作ってね〜と言われたから、海堂が先だと言い渡しておいたが』
ダメだ、この親子…ボケどころがおんなじだ。

傍目にはキリリとして、仕事のできそうな感じの先輩のお母さんを、俺は脳裏に思い浮かべた。
たまに先輩が、すごくおかしな私物を持っているのに気づくことがある。
その辺から察するに、細かい事にこだわらないのは母親似なのかもしれない…


とにもかくにも、今夜俺は先輩ん家に泊まりに行くことになっていて、風呂の後にかき氷を作って
あげると言われた。

いろいろとツッコミどころは満載だが、俺たちは今も『お付き合い』を続けている。
とうてい普通とは言いがたい組み合わせだが、一緒にいたくてがんばってきたのだ。
(もう付き合い始めて…だいたい9ヶ月ぐらいか…)



「俺さ、なんかいいなって思ってたんだ。不二も手塚が帰って来てからすごい嬉しそうだし、乾と海堂
だってお互いに好きなんだなーって分かるし!」

菊丸先輩がひどく開けっぴろげな口調でそう言うから、俺は赤面して俯いてしまった。
「…や、俺と乾先輩、ケンカもしますよ。いいコトばっかじゃないっす」
「うん…そっか。そだね」

炭酸がきついのを考慮してあるのか、ラムネはいっぺんにごくごく飲めないようになっていた。
瓶を傾けて一口飲む度に、底から泡が立ちのぼる。

それが何故か儚いような気がして、俺は光る川面へと視線を移した。
夏は、もう終わるのだ。
先輩たちは引退し、やがて卒業していく。高等部は同じ敷地内にあるけど、部活動も別だ。

思い出にすがりつくようなガラでもないくせに、この夏が過ぎ去るのを惜しいと思った。
それぐらい、特別な日々だった。


あの人と俺にも距離ができるだろう。今までみたいに始終一緒にはいられない。
環境が変わり、お互いの生活や練習に忙しい中で、会う時間を見つけなければならないのだ。

続けてゆく努力を惜しむ気はなかったが、不安じゃないと言えば嘘だった。
俺たちは、ちゃんと手を繋いでいられるのだろうか。



「俺、親も兄ちゃんや姉ちゃん達も、友達も部の奴らもみーんな好きだけど、まだ特別に誰か好きに
なったことないんだよね」
「そっすか。菊丸先輩に好かれた人は幸せっすよ、きっと」
「ホント?ほんとにそう思う?」
「先輩人気あるから、ちょっとヤキモキしそうっすけど、一緒だと毎日楽しいんじゃねえかな…」

すると菊丸先輩は、瓶の中のビー玉みたいによく光る瞳で、まっすぐに俺を見つめた。
いつもの明るくて元気な先輩じゃなくて、ほんの少し年上らしい顔つきをしていた。

「…海堂は?海堂は乾と一緒にいられて楽しかった?」


そのシンプルな質問は、却って俺の胸を痛くした。
乾先輩と付き合うようになって、約9ヶ月。
今まで自分のカラに閉じこもっていた俺にとっては、初めての事の連続だった。

俺はむやみに他人を拒絶して、一人で何でもできると肩ひじ張って突っぱねて。
先輩は誰に対しても同じ温度で、広く浅くしか人と付き合ってこなかった。

見た目は全然違うのに、俺たちは結局よく似ていたんだと思う。
同じように幼くて、自分勝手だった。
だから俺たちの恋は始まった頃、どんなに取り繕ってみても土台がヨロヨロしていたのだろう。

「楽しかったっす。しんどかったり、自分が嫌になったこともあったけど」
俺はひどく静かな声で、そう答えた。


つらい事も多かった。
俺はもしかしたらこの一年で、物心ついてから一番たくさん泣いたのかもしれない。
自分の感情に焦りを覚え、他人と身体を繋げる事にとまどい、先輩の気持ちが分からない時もあった。
何もかもをリセットしてしまいたいと、一度も思わなかったわけじゃない。

だけど乾先輩が俺に好きでたまらないってカオで笑いかけてくれると、胸がいっぱいになった。
自分は、こんなにも大切に思われている。
その気持ちが溢れると、涙が出た。
嬉しい涙っていうのがあるんだって、俺は生まれて初めて知った。

「誰かと二人でいるだけで、こんな幸せになれるんだ…って、あの人は俺に気づかせてくれた」


取り繕う事も忘れそう口に出してしまうと、途端に俺は猛烈に気恥ずかしくなってきた。
(関係ない人に何語ってんだ俺!これじゃ、ただのノロケじゃねえか…)
恥ずかしいセリフを臆面もなく言うあの人の癖が、ついにうつっちまったのか。
思わず脳内で、乾先輩に全責任をなすりつけてしまいたくなる。

赤くなった顔を上げられず、手の中のラムネの瓶を穴が開くほど見つめていた俺の頭へ、だがふいに
菊丸先輩の手が降ってきた。
男にしてはさほど大きくもない手が、俺の癖のない髪をよしよしって風に撫でてくれる。

「薫ちゃんはいい子だにゃ。乾が好きになるわけだよ」
「……え」

だが菊丸先輩は、それ以上はもう何も言わなかった。
飲み終わったらしい瓶を揺すり、ビー玉をカラカラと鳴らしながら立ち上がる。

「あー俺も早く誰か好きになりたいなー!!」

川の流れる音を押し返すような、大きな声。
そんな菊丸先輩を見上げた俺は、この場面をいつまでもずっとずっと覚えている気がした。

茜と紫の空。ラムネの瓶。風にくせっ毛を煽られながら、笑うひと。
思い出というのはこんな風にささやかで、だがキラキラ光るものなのだろう。
きっといつまでも色褪せることはない。



「さあ、海堂そろそろ行こっか!」
「…っす」

飲み終わった瓶を荷物に突っこんで立ち上がった俺を見やると、菊丸先輩はいたずらっぽい顔をして
にぃ〜っと笑った。

「海堂!じゃーんけーん、ぽん!!」
イキナリじゃんけんを挑まれ、反射的に俺はそれに応じてしまった。
俺がパー、先輩がチョキ。菊丸先輩の勝ちだ。

「っしゃ!チ・ョ・コ・レ・イ・ト!!」

言葉の字数だけ先へ進んだ先輩を見て、俺は嫌な予感がした。
「あの…菊丸先輩。まさか学校までこれやりながら帰るつもりっすか」
数歩先では、菊丸先輩が朗らかに笑いブンブン腕を振っている。

「あたりまえ〜海堂ガンバレ〜!!」
「…そっすか。分かりました」

まあまだ花火ができるとも思えねえし、案外ちょうどいい時間になるのかもしれない。
そうして俺と菊丸先輩は単純な遊びを子供みたいに繰り返し、抜いたり抜かれたりしながら、川の
流れに逆らう方へゆるゆると進んでいった。



俺たちの時間は一方通行で、元いた場所へは決して戻れない。
ただ前へ、前へと進むだけだ。
だがどんな時にも、あの人の手を離さずにいたいと、その時 俺はつよく願った。

心がすべてを決めてゆくのだとしたら。

俺は、この恋を悔やむことは、決してないだろう。






Scene2. さくら、さくら


「…別れようと思うんだよね、手塚と」
バキッと音をたて、俺の手元で鉛筆の芯が無残に折れた。

俺は普段から結構鉛筆を愛用している。
この独特の握り具合と書き味をイイと思っているのだが、一旦鉛筆削りに突っこむと見る間に短く
なってしまうのはいかがなものだろうか。
……イヤ、そうじゃない。問題はそういうことではなくて。

「不二…手塚が戻ったばかりなのに何を言い出すんだ、おまえは」
俺はむしろ呆れたような表情で、爆弾発言をした不二に向かってそう言った。



8月30日の夕刻。
花火をする為に集まった俺たちだったが、特別準備することもないし、海堂は買出しに行ってしまう
しで、ぽっかりと時間が空いた。
俺と不二は、仕方なしに二人で生徒会室でクダを巻いていたのだ。

手塚はこの部屋を私用に使うなと普段から口やかましかった。
だが何やかんやとテニス部に使われ、特に不二はこの部屋の影の主と呼ばれていたものだ。

そんな思い出深い(?)部屋で、俺は暇つぶしにデータノートに鉛筆を走らせ、不二は勝手知ったる
何とやらでコーヒーを淹れながら話をしていたはずなのだが。

(しまった…あまりのろけるんじゃなかったか)
心の中で俺は、セルフ反省モードに突入していた。
実は今日の花火の後に海堂をお持ち帰りできるので、ひどく浮かれていたのだ。

海堂がTVで見た梅酒のかき氷を食べたいと言ったので、俺はピカチュウのかき氷機を買った。
ピカチュウは海堂には何故か不評だったが(キティちゃんの方がよかったか、猫だしな)何で削ろうと
味は同じである。
前から分かっていれば、自分で梅酒を漬けたのだが、まあ今年は致し方あるまい。

俺は風呂上りの海堂にかき氷を差し出すのが楽しみでたまらず、ついちょっとだけ…いや、かなり…
不二にその話をしてしまったのだ。


だが不二とて手塚が九州から戻ってきたばかりだ。
ポーカーフェイスなこいつにしては珍しく、最近は傍目にも分かってしまうぐらいに嬉しそうだった。

こいつらがどういういきさつで付き合い始めたのかは謎だが、俺が知っている限りでは1年の秋には
既に付き合っていた。
テニス部の連中は、不二が何かものすごく悪辣な手段で手塚を落としたと推測したのだが、手塚に
聞くと、「ああ、俺が好きだと言った」とあっさり白状されて驚いたものだ。

二人とも感情をあまり表に出さないがもう2年は付き合っているわけで、分かりにくいなりにお互い
好きなのだろうと思うわけなのだが。



「不二、俺の話にうんざりしてたなら謝る。だからそんな思ってもない事言うな」
「別に乾の話なんて、いつだって海堂の事ばっかりだろ」
「…スマンな」
「まあ、乾があんまり能天気すぎてムカついたのは事実だけどね」

コーヒーフィルターに湯を注ぐ不二は、さらりとした半袖のシャツ姿で、何となく新鮮に映った。
そしてその横顔は、怒っているというよりはむしろ拗ねているという雰囲気だ。

うちの部は大雑把に言えば、感情全開なヤツと何を考えてるか読めないヤツの二派に分かれる。
読めない派の最高峰とも言える不二が、イライラを露わにしているのは確かに珍しい。


俺も昔は不二と同じ部類だったが、好きな人ができてからかなり読みやすくなったようだ。
それはそうだろう。俺は可能なら世界中に海堂を自慢して回りたいぐらいなのだから。
恋人のいる奴がどうして全員こういう衝動にかられないのか理解できない。

(まあ、海堂は一人しかいないからな。当然か)
今は買出しに行っている大事な人を思い、俺はこっそりと口元を緩めた。
だが目ざとい不二は、俺がにやけているのに気づいたらしい。
きれいな眉をひそめたので、俺は淹れてもらっているコーヒーの中身が少々心配になってきた。


「思ってもない事じゃないよ。ずっと考えてたんだ、手塚とのことは」
俺にコーヒーカップを手渡すと、不二は自分のカップを持ち、窓際にもたれるようにして外を見た。

暑かった一日の終り。空が茜色と紫に染まってゆく。
遠くで一匹だけ蝉が鳴いているのが、やけに物悲しく聞こえていた。

「今回は短い期間で済んだけど、手塚なんてどうせいつかはいなくなるだろ」

いちいち説明されなくても、俺には不二の言っていることが理解できた。
認めたくないが手塚は天才で、将来を嘱望された選手だ。
怪我も癒えた以上、高校生になれば留学とかそういう話も必ず出て来るだろう。
本人がそれに応じるかどうかは、また別の話だったが。
(それで手塚が戻って嬉しいくせに、浮かない顔をしていたのか)

「なら、今別れておいた方がお互いラクだろうし」
好きならなおさら、行くなとは言えない。だからと言って何年も待てるとは思えない。
だから今のうちに別れてしまうのが、お互いの為だと言いたいらしい。

まあ、確かに論理的な考えだな、とは思った。
くだらないとも思ったが。


「じゃあ別れたらいい」
淹れてもらったコーヒーの美味さに感心しながらも、俺は突き放すような口調でそう言った。
不二が向けてきた刺すように強い視線にもひるまずに、ゆっくりと微笑する。

俺の好きなひとは、先のことを約束するのが嫌いだった。
それは責任を負いたくないって事じゃない。
今日の次に続いているのは明日だと、よく知っているだけなんだ。
一日一日を積み重ねるのが共に在るということだと、俺はあの子を見ていて学んだ。

「俺は続けるよ。海堂をずっと好きでいつづける。未来に起こる事なんか恐れない」
「……乾」
それは不二にというより、自分に対する誓いの言葉のようだった。


俺だって、不安に思わないわけじゃない。
学校は同じ敷地内とはいえ、部活も別になり、海堂に会える時間は激減するだろう。
彼は男テニの幹部になり、主力選手になる。
彼を好きになる人間だって、これまで以上にたくさん出てくるはずだ。

(俺が自信あるのなんか、俺の気持ちだけだな)
そう思うと、苦い笑みが口端をかすめた。
いつもちゃんと手を繋いでいるつもりでも、なんて儚いものなのか。
(だが俺は想い続けるだけだ。あの日からずっとそうしてきたんだ…)


俺はおもむろに立ち上がると、不二のいる窓際へと近づいた。
薄闇に包まれ始めた外の景色に目をやる。遠くにはテニスコートが見えていた。
懐かしい、なつかしい風景。

「不二、ひとつ俺の秘密を教えてやるよ」
「…乾?」
いぶかしげな顔をする不二を 『まあ、聞けよ』 という笑みで黙らせ、俺は視線を遠くへ浮かした。

溢れてくるイメージ。月日は過ぎてしまったのに、鮮やかさだけを増すような。
舞い落ちる風花。薄紅の花の色。

「……あのコート脇の桜並木で、初めて海堂に会ったんだ」





俺はあの時、桜の花びらが舞う下を、データノートを広げブツブツ独り言を言いながら歩いていた。
そういう時は、みんなが遠巻きにして避けてくれると相場が決まっている。
だから、低めのぶっきらぼうな声が自分を呼び止めたのにひどく驚いたのを覚えている。

『…あの、すんません』

その声に歩みを止めたものの俺はデータの世界からすぐには戻って来れず、一瞬きょとんとした。
そして、目線をすこし低い位置へと下げる。
睨むみたいなつよい視線とぶつかって、びっくりした。
彼の顔かたちより先に、まず瞳が俺を侵略してきた。

知らない子だった。襟章で新入生だと分かる。
襟をきちんと止めた学ランと艶のあるまっすぐな髪が、彼を人馴れしない黒猫みたいに見せていた。

『え…と、何かな?新入生だよね?』
馬鹿みたいに何秒も彼と見つめ合ってしまった事に気づき、俺は咳払いをしながら、そう聞いた。

『テニス部の、入部受付、やってるんすよね』
表情を読ませないので有名な俺のぶ厚い眼鏡の奥を、貫き通すような視線。
区切るような話し方をするから、彼が見た目通りしゃべるのが不得手だと分かった。

『あ…ああ、入部受付か。あれが部室だよ。あそこでやってる』
『そっすか。……ありがとうございます』


ぺコンと頭を下げて行き過ぎようとした彼を、何故か俺は訳の分からない衝動にかられ、呼び止めて
いた。
『あ、待って、テニス部入るの?』
何でそんな当たり前の事聞くんだという顔をしたが、彼は一応頷いてくれた。

『俺は2年の乾って言うんだ。きみは?』
『……海堂、薫。1年っす』
『そっか。じゃあ海堂くん、あのな…』

俺は人の悪そうな微笑を口元に浮かべながら、彼に近づいた。
自分よりずっと大きなヤツが距離を詰めてきて、いきなり頭上に手を延ばしたので、海堂はぎょっと
したらしかった。
頭を撫でようと手を伸ばした人間に警戒心いっぱいですごむ、猫みたいだった。

『…桜、似合うけどな。入部受付行くのに花飾りもなんだから』

身を硬くした彼の頭のてっぺんに、ちょこんと乗っかっていた桜の花をそっと取ってやると、俺は笑い
ながら海堂の目の前で花をくるくると回した。


何でこんなに楽しいのか、自分でもよく分からなかった。
花飾りを取ってもらった海堂は目を丸くしていたが、ちょっと赤くなってまたぺこりと頭を下げた後に
ぼそっと付け加える。

『レギュラーなんすね』
『……え、ああ。これか』

白地に赤と群青。
俺が着ていたレギュラージャージがどういう意味を持つのか、彼は知っているらしかった。

だが、その視線に憧れの色はなかった。
彼のことを何も知らないくせに、その時俺は確信した。
(この子は、これを獲るって決めたらしいな。なんとまあ、気がつよいヤツなんだか)

だが悪い印象は受けない。
俺はくるりと方向を変えると、もと来た部室の方へとゆっくり歩きはじめた。
海堂は不審そうな顔をしながらも、半歩後ろからついてくる。


『あの…どっか行くとこだったんじゃ…』

桜が、舞っていて。
海堂は今よりもっと背が小さくて、怒ったみたいな顔をしていた。
真新しい制服と黒い艶のある髪に、短い時をいさぎよく咲く花が似合っていた。

『いいんだ、将来有望な新入生をゲットするのも先輩の仕事だからね』
俺はなんだか分からないけど楽しくて。
ノートを小脇に抱え、海堂の頭のてっぺんから拾い上げた桜を大事に指先で摘んだままだった。

部室までのほんの短い距離を、二人で歩いた。
あれが何もかもの始まりだった。
自分があの時一目惚れをしたんだと、鈍感な俺が知るのはもう少し後になってからだったけど。





「ふーん、じゃあ初対面でナンパしたってわけ、海堂を」
俺の話を静かに聞いていた不二の辛口コメントに、「まあ、そうとも言うな」と俺は苦笑した。

あのまま別れたって、彼がテニス部に入るのは分かっていたんだから、また会えたのに。
彼に覚えてほしかった。
あのつよい瞳に個人として認識されたかった。
それを恋だと自覚するのにあれだけ時間がかかった自分が、今となっては笑えるが。


薄闇にまぎれ見えにくくなってきたコート脇の桜並木。そこには今は葉が茂っているだけだ。
なのに、いつだって鮮やかに思い出せる。
あの子がどんな顔をして、俺に何を言ったのか。
だがそれすらきっかけにすぎなくて、俺はあれから何度海堂を好きだと思ったことだろう。


「自分の一番欲しいものは決まってるのに、それから目を逸らしても何にもならんぞ、不二」
ぬるくなってきたコーヒーを口に含みながら、俺は真摯な口調でそう言った。

結局未来なんて、誰にも分からない。
データを取って、先読みをする俺が言うのもおかしなセリフだが。
こいつの姉さんが占いをすると聞いたことがあるが、そんなのも気休めにしかならない。

「最初に好きだと言ったのが手塚でも、おまえもあいつが好きなんだろう?両方努力しないと続か
ないからな、恋愛なんてのは」
「知ってたんだ、乾」
「うん、まあね」

他人の恋愛沙汰にこんな助言をするのは、俺らしくもないことで。
それをおとなしく聞いているのは、不二らしくなかった。

だが不二は何やかんやと俺をいじめながらも、結局は俺の恋を助けてくれてきた。
そのやり口がどうも俺の幼馴染を連想させて、何故そんなひねくれた親切心なんだとは思ったが。

でも俺も何か言ってやりたかった。
今さらこんな事を言うのは異様に気恥ずかしいが、こいつを友達だと思うからだった。


「まあ選ぶのは自分だ。おまえが本当に手塚と別れても、よくよく考えた末だろうと思うから、俺は
どうしろとは言わないがな」
「充分だよ。乾がそんな事を言ってくれるとはね。変われば変わるもんだ」

ふ、と不二の中で張りつめていたものが緩んだ気がした。
自分の中で考えて、考えて、煮詰まってしまっていたようだ。
こいつは身勝手な奴じゃない。
手塚に留学の機会があった時すんなり行かせてやりたいからこそ、こんな事を考えたのだろう。




「一人で先走らずに手塚の気持ちも聞いてやれよ。恋人なんだから」

そろそろ本格的に外が暗くなってきたのに気づき、俺は話を切り上げるようにノート数冊をまとめて
机の上でトントンと揃えた。
海堂もとっくに買出しから戻っていることだろう。

「…恋人ね。遠く離れていても、恋人って言うのかな」
そう自嘲気味に呟いた不二の表情には先刻までの苛立ちはなかったが、ただ少し寂しげに見えた。


好きな相手とずっと一緒にいるというのは、本当に難しい。
ましてや俺たちは世間的に普通の組み合わせではなかったし、いくら不二でも悲観的な気持ちが
先に立つのだろう。

だが好きになった人に、好きになってもらえるというのは奇跡だった。
当たりの宝くじみたいなものすごい幸運を、俺もおまえも握ってるんじゃないのか。


「不二おまえ、恋人って付き合ってる相手という意味じゃないぞ」
「じゃあ、なに?他に意味あるの」
「……恋しいひと」


俺は自分の落とした言葉の効果が相手の顔に現れるのを黙って見ていた。
しばらく呆気にとられたようだった不二は、やがて悔しそうな苦笑いを浮かべた。
珍しく不二から一本取れた事に満足した俺は、楽しそうに肩を揺らし低く笑い出す。

後日、意趣返しをされるかもしれなかったが、それもいいかと思えた。
たまには俺が優位に立つ日があったっていいだろう。


「ねえ乾、きみさ、どれだけ海堂のことが好きなの」
背後から、不二の問いが追いかけてきたが、俺は何も答えなかった。
ドアを開け部屋から出る瞬間にひらひらと手を振り、もう一度笑って見せただけだった。

あの子をどんなに好きかなんて。
(そんなのナイショに決まってるだろう?)



誰かを恋しいと感じたら、もうそこから何かが始まってしまっている。

普通の日々から逸脱した心は、昨日までの場所へは二度と戻れない。
だから俺は、手にした幸運の星を握りしめ、先へと進むだけなんだ。

どうしようもない。きみしかいらない。






Scene3.  最後の恋


俺が校舎を出るより先に、歓声と花火特有のにおいが押し寄せてきた。
まだ完全に日が暮れたわけでもないのに、気の早い奴らが始めてしまったようだ。

校庭を見渡すと散り散りバラバラに花火をやっているのだが、やけに人数が多い。
レギュラー陣だけと聞いた気がするのだが、ぱっと見ただけでも他の2年や1年の姿があった。
どこで聞きつけてきたのやら、と俺は思わず少し笑ってしまった。
(まったく皆、お祭り好きだな)

謹直な手塚に仕切られている割には、うちの部はマイペースな人間が多く、だが結束もどこにも負け
ないぐらい強かった。
センチになるような性格でもないが、いいチームだったと思う。
試合でコートに立てる人間はほんの一握りだが、ここにいる奴らまとめて青学だった。
今夜みんなが集まったのは、花火をやる為と言うよりは、この夏を惜しんでいるのだろう。


広い校庭ではみんな適当に仲のいいメンバーで固まって、まずは手で持つ花火をしていた。
俺は海堂を捜すべくさっと視線を走らせたが、なにぶんもう暗くなっていて、ざっと一周しないと彼を
見つけられそうになかった。

「…乾。手塚と不二は?」
まだ使用前の花火の束を抱えた大石が、俺に気づいて訊いてくる。
この期におよんでも部の全体像を把握しようとするあたり、この副部長は本当に立派だった。
「ああ、あいつらは放っておけばいい。大事な話をしてる」


実はさっき生徒会室を出たと思ったら、ドアの前につっ立っている手塚に出くわしたのだ。
立ち聞きしてたのかと責められてもおかしくない状況なのに、全く悪びれもしないあたり、あまりにも
手塚らしくて俺は呆れてしまった。

『ちゃんとしろよ』
『…すまんな』

交わした言葉はたったそれだけで、だがあいつは自分のすべき事を弁えているのだろうと思った。
生徒会室のドアの鍵がカチャと閉まる音を聞いて、なんとなく安心したのも事実だが。



俺の言葉をどう深読みしたのか、胃に手を当てながら生徒会室の窓を不安げに見やる大石を残し
俺は海堂を捜しにかかった。
赤や緑に火花が噴き出すものや、明るく弾けるもの。
みんなが花火に夢中になっている間を縫うようにして、小走りに回る。

シューシューいう音。笑い声。火薬のにおい。
それは何故か夢の中の光景のように、現実味に欠けていた。
本当にどこかにちゃんと彼がいるのだろうかと、妙な不安が胸にこみ上げたその時。

「…乾先輩!!」
低いけれどよく通る声が、ふいに俺を呼びとめた。
見ると人気のない隅の方で、海堂は花火の束を抱え、手持ちぶさたそうに立っていた。

こういう時に手も振らない無愛想さだけは、あまり変わらないんだなと思う。
今もよく知らない人が見たら、不機嫌なんだと決めつけてしまうような顔をして。
だが俺が駆け寄ると、海堂もどこかほっとしたような雰囲気になった。
人がたくさんいる校庭で、自分一人がはぐれたような気分に、彼もなっていたのかもしれない。


「遅いっすよ、何やってたんすか」
「ごめんごめん。待っててくれたんだ、ありがとうな」
「別に…一人でやったって面白くねえし」

少し拗ねたようにぼそっとつぶやいた彼が、それでも俺と一緒に花火をしたくて待ってくれていたんだ
と分かるから、自然と俺は笑顔になった。
彼が持っていたライターとロウソクを取り上げて、しゃがみこみながら準備をする。

「たくさん取っといてくれたんだな、花火」
「や、放っとくと一部の奴らだけで全部やっちまうからって、大石先輩が適当に分配してくれたんすよ」

とりあえず一本ずつ持って、俺も海堂も火をつけてみた。どちらからも派手な火花があがった。
俺は何となしに、花火を左右に動かしてみる。
横一文字に残る光の軌跡。細かく散る火花。


目の前を、桃と英二がまだ終わっていない宿題の話をしながら通り過ぎてゆく。
大石が、花火持ったまま走るなー!と叫ぶ。
堀尾たち1年生3人組が何をしゃべっているのか、どっと笑った。

だけど俺と海堂は、まるでその空間から切り離されたように静かだった。
遠くから、その賑やかな光景を眺めているような気がした。

夏は過ぎ去り、何かが確実に変わってゆく。
青学は高校も持ち上がりだから、またこの顔ぶれで同じような光景は訪れるかもしれない。
でも今は、今しかない。
何度桜が咲いても、あの出会いが一度きりであるように。



「海堂は覚えてないだろうけど、さっき不二に海堂と初めて会った時の話をしてたんだ」
突然何かに背中を押されたように、俺はそう口に出していた。

あんなささいな場面を海堂が覚えてくれてるとは思えなかった。
自分だけの思い出にするつもりだった。
なのに何故か今言いたくてたまらなくなった。込みあげる、この衝動。

強がってみたところで、俺も不安だということか。
不二に偉そうに言った手前、我ながら情けないとも感じたが。


だが瞬くように火花の散る細い花火を持った海堂は、はあ?というように眉を上げて俺を見た。
ものすごく心外だと、言いたげな表情をしている。

「何言ってんすか。覚えてるに決まってんだろ」
「え…そうなの?」
「アンタみたいなでっかいのが視界に入ってきて、どうやって忘れられるんだよ」

何だか喜んでいいのか判断に迷う表現をされてしまったが、ふいにそれが彼特有の照れ隠しだと
気づいた俺は、頭にかーっと血が上ってしまった。
(ああ、まいった。ものすごく嬉しいかもしれない)

だって自分一人で勝手に、あれを始まりだと思っていた。
好きだと自覚したのは、もう少し後だったが、俺はあの場所できみに心を奪われた。

熱心に花火を見つめる彼の横顔を見ているうちに、胸がいっぱいになる。
なあ、海堂。
俺はきみに好きになってもらえるなんて思いもしなかったんだ。



「でも多分、海堂が知らないこともあると思うんだけど」
「何すか、知らないことって」
「俺、一目惚れだったんだ。あの時、海堂に」

周囲に人がいるわけでもないのに、俺は海堂の耳元に唇を寄せて囁いた。
彼はくすぐったそうに首をすくめ、それからようやく言われた意味を悟ったらしかった。
次の瞬間、びっくりした顔で俺を凝視したまま、なんと海堂は火のついた花火を自分のテニスシューズ
の上にぼとーっと落下させた。

「うっわ!?」
「お、おい海堂、大丈夫か!?」

大慌てで振り落とした花火は、消えもせずにまだ火花を散らし続けている。
彼は恨めしそうな顔をしながら屈むと、それを拾い上げた。

「いきなり何言い出すんだ、アンタは!?」
「いや…そんなにびっくりするとは思わなくて…」
「あ…靴紐焦げちまった…驚くだろフツー、アンタ今までそんなこと言わなかったじゃねえか」
「そりゃまあ…俺のとっておきの秘密だし?」
なにやら互いに気恥ずかしくなってしまい、少しの間やたら真剣に花火を見つめる。



きっと海堂は、俺があの猫の事件をきっかけに彼を好きになったと思っていたのだろう。
一目会ったその日から好きでしたと言われては、さすがに焦らせてしまったか。
だがやがて海堂は、懐かしむような口調でゆっくりと話しはじめた。

「桜が…降ってたっすよね。アンタ、俺の頭に乗っかった花を取ってくれて、笑ってた」
「俺の第一印象はどうだった?」
「でっかいヘンなメガネ」
「ひどいよ、海堂…」

しゅんとしてしまった俺を見て、彼は笑った。
それは俺でもめったに見られないような笑顔だった。

「まあ、それもホントっすけど、優しそうな人だなって思った。俺めちゃくちゃ無愛想だったのに、アンタ
何が楽しいのかにこにこ笑ってて、入部受付までついてきてくれて…」
「客観的に見れば、確かにヘンな先輩だな」
「自分で言うなって」

小さく笑いあうと、二人で秘密を共有できたような気がした。
だがふいに、海堂は花火ひとつの明かりの中で、生真面目な顔で俺に訊いた。

「…アンタは?」
「え?」
「一目惚れするほど、俺のどこがよかったんだよ」

それは甘さとは程遠いような厳しいぐらいの口調だった。
だから、俺は思わず背筋をぴんと伸ばした。
大事なことを、聞かれている。

「…瞳かな。ここにまっすぐ入ってきた」
そう言って俺は自分の心臓の上をとんとんと叩いた。

「俺はリアリストだからね。相手のデータも何もなしに一目惚れなんて、ありえないと思ってたよ。
なのに海堂に、つかまってしまった」
「乾先輩…」

暗くてよく見えないけど、海堂の目がちょっと潤んでいる気がした。
ぶっきらぼうで通っている彼だが、本当は心が優しくて感じやすい人だから。
そんな彼がひどく愛しく思えて、俺は公衆の面前もお構いなしに彼の髪をさらりと梳いてやった。

暗いし、みんな花火に夢中だから、キスしたって大丈夫かな?
と、俺が不埒なことを考えたその瞬間。



「おいマムシ〜、打ち上げすっから手伝えよ!」
遠くから桃が海堂を呼ぶ声が響き渡った。越前も一緒になって手招きをしている。
あまりといえばあまりのタイミングに、俺は残りの花火を投げつけてやりたくなった。

どうやら俺と海堂が二人の世界にいる間に、俗世では小さい花火が底をついたようだ。
次は打ち上げ花火をやろう!と手の空いた奴らが固まって準備を始めたらしい。
急に人が集まって、ざわざわし出している。

(あいつら、俺と海堂がしっぽりいい雰囲気で花火をしてるのを邪魔するとは…)

こうなると、俺の中で海堂について「限りなく黒に近いグレー」だった桃城の存在がかなり怪しく思えて
くる。
あいつは精神的にしごくまっとうだから、自分の感情を認めたがらないだろうがな。
雰囲気をぶち壊された俺は、水をさした二名を不機嫌そうに見やった。


「海堂センパイ、俺、桃先輩だけじゃ不安っす。助けてほしいっす」
お邪魔虫・越前がいつのまにか俺たちのそばにやってきて、普段のクールぶった態度からは考え
られないような甘えた声を出した。
(出た、俺ってちっちゃくてカワイイでしょ攻撃!!)

「スマンな、越前。俺が遅れて来たんで、さっき始めたばかりなんだ」
普段より70%ほど心が狭くなった俺は、意味もなく眼鏡を引き上げると、まだたくさん残っている花火
を見せびらかしてやった。

身長差30センチ以上の俺と越前の間に、見えない火花がバチバチ飛び交う。
(たとえ数分たりとも、誰が渡すか!俺の大事な海堂を!!)


「別に打ち上げなんざ、導火線に火ぃ点けるだけだろうが、大げさな」
「俺、帰国子女っすから、あんなのやるの初めてなんすよ」
「嘘つけ。アメリカには花火がないとでも言うのか、キサマは」

そっけない海堂の物言いに越前はクックッと笑うと、両手を挙げて降参のポーズをしながら、来た時と
同様にすっとまた離れてゆく。

「なんだありゃ、わっかんねえ奴」
海堂はからかわれたと思ったのか憮然とした表情だったが、俺はあれが越前一流の口説きだと海堂
が気づかない事を神に感謝した。


ていうか、あれは昔の俺と同じだ。
どんなくだらない事でもいいから海堂としゃべりたい。表情が変わるのを見たいなんて。

いつも迫ってはあっさり退くを繰り返している越前が、見た目とはうらはらに海堂をつよく想っている
事を、俺は嫌というほど知っていた。
越前だけじゃない。普通の女の子のファンだってたくさんいる。

ああ、どうして海堂はこんなにあっちからもこっちからもモテるのか。
(…俺はどうして好きになってもらえたんだろうな)


消えた花火を手元のバケツの水に突っ込むと、ジュッと音がした。
俺のテンションは何だか上がったり下がったりで、早く自分の部屋で彼を抱きしめたいと思う。
それがどんなに身勝手な気持ちでも。できるものなら今すぐ触れたかった。
(そうすればこんな不安、消えるのに)




ヒューッ!とかん高い音がして、最初の打ち上げ花火があがった。
花火大会のような大きな物ではないが、家庭用にしては充分鑑賞に耐える美しさだった。
みんなが空を見上げて、楽しそうに歓声をあげる。

星に願いを懸ける、とよく言うが、花火にだって願い事をしたいような気分になってしまった俺は、傍に
いた海堂に小さな声で言った。

「俺が海堂の運命の人ならいいのにな」

こういう場面にふさわしい、ロマンチックな台詞を口にしたはずだった。
だが予想に反して海堂は、眉を寄せ、どこか腹立たしそうな顔で俺を見返した。

「アンタ、運命なんて信じてんのか」
「ん?まあね。海堂のことは初めて見た時から、気になって仕方なかったよ。海堂は信じない?」
「……信じない」

はっきりとした口調で否定されて、俺は驚いて彼を見た。
何が気にさわったのか分からなかった。
だが彼は、そのつよい双眸を空に向けると、俺がずっと、決して忘れられないことを言った。

「最初から決まってることなんか、あるわけねえだろ」

その声に俺は、自分の中にひそむ甘えをばっさり切り捨てられた気がした。

ああ、そうだ。きみは最初からそういう人だった。
決して何かに流されることはなく、偶然を自分の力で必然に変える人だ。
胸がつまって、泣きそうな気持ちになる。

……きみのそのいさぎよさを、何よりも俺は、愛した。



「そう、そうだよな。ごめん俺なんか、おかしくて…」
「乾先輩…?」

きつい言い方をしすぎたと思ったのだろうか、海堂は俺の目を覗きこみ、困ったような顔をした。
それからふいに俺の右手に、彼の左手が滑り込んできて、ぎゅっと握られる。

「俺だって、不安に思わないわけじゃないっすよ」
「…海堂」

花火に夢中になっているにせよ、今も校庭には人がいっぱいいて、そんな中で彼が手を繋いでくれる
ことの特別を痛いぐらいに感じた。
(触ってるとうまく伝わる気がするって、ずっと前言ってたっけ)

「続けてくのは難しいと思う。でも俺は、あんたと一緒にいたい」
「…俺だって、そうだよ…もう、泣かさないでくれるか、海堂…」



結局彼は、俺の中の苛立ちも不安も分かってくれていて。
同じものを自分も抱えていると、正直に話してくれる。

以前はお互いのプライドや意地が邪魔をして、そういう事が難しかった。
自分の弱みを見せるのは、かっこ悪いと思っていた。

だが今俺たちは、二人でよろめきながら、また少し前へ進んだのかもしれない。
繋がってる。伝わってる。
きみは俺を、俺はきみを、信じられる。

「きれいっすね」
「うん、きれいだな」


いくつもいくつも空にあがる花火を見ながら、俺たちはひっそりと手を繋いで立っていた。
握り合わせたぬくもりは、決して強くはなりきれない二人を励ましてくれているようだった。



花と名のつくものは、いつも儚くて。
だがその下で生まれたものは、大事に育てれば長く続いていくのかもしれない。

きみと俺が、風花の舞う中で出会ったように。
今もふたりで、中空に散る花火を見上げているように。


俺たちは
きっと離れずに、いられるだろう。