Scene1. 5月6日(火) AM6:30


朝練のない朝は、彼はいつも決まったコースを走る。
よほど天候が悪くないかぎり、何かを追いかけるような速いピッチで走ってくる。

このコースを決めたのは、乾自身だった。
最初に考えた時より距離は長くなっていたが、それでも彼が乾のマンションの前を通るのは決まっていた。

まだ両思いでなかった頃は、彼が不審感を覚えない頻度で、申し訳のようにノートを広げながらマンションの
前に立っていた。だが、書いてある中身など頭に入っていなかったものだ。
規則正しい足音と息遣いが自分に近づいてくるのを、心臓が壊れるような思いで待っていた。

あの頃、もう彼を、好きで好きでたまらなかった。
触れることができなかった分、もしかしたら焦がれる気持ちは激しかったのかもしれない。
それが、今の乾にはよく分かる。


朝のひんやりとした空気の中、ほとんど予想どおりの時刻に遠く彼の姿が見えた。
いつもの短パンと黒いタンクトップ、そしてレギュジャではないジャージを着ている。
どくん、どくんと自分の心臓が鳴っている音が聞こえた。
祈るような思いで、彼が近づいてくるのを待つ。もしかしたら今日こそは。そんな願い。

「おはよう、海堂」
「……おはようございます。…乾先輩」

乾に向けた視線には、警戒心が籠もっていた。口調にも親しみは全く感じられない。
どうにもならないような痛みが胸を刺したが、それを表には出さず乾は持っていた紙片を彼に差し出した。
「これ、新しいメニューだよ。バギーホイップはもう完全にお前のものになってるし、海堂は持久力もあるから
今度はパワーアップに重点を置こうかなと思って」

口だけ滑らかにしゃべりながら、乾は紙片に目を向ける彼の顔を食い入るように見つめていた。
癖のないきれいな髪も、触れ心地のいい唇も、長い手足も、細いけれどしなやかな身体も。
なにもかも知っている。何度も何度も、何度も触れた。

だけどもう、手が届かない。目の前にいるのに、笑ってももらえない。
せめて以前の親しい先輩後輩になりたかったけれど、海堂は自分の中の混乱をどう受け止めていいか困惑
しているらしく、乾を他よりも忌避しているふしがあった。

「勝手に無茶なトレーニングをしたらダメだよ。俺は海堂の体力とか身体の成長とかいろんな要素を考えに
入れてメニュー組んでるんだからね」
わざと少し、親しげな口をきいてみた。それが気になったのか、彼は顔をあげて乾を見た。

「先輩が…ずっと俺のメニュー組んでくれてたって、ほんとだったんすね」
「……え、海堂、それって…」
急に乾の鼓動が速くなる。何でもいい、かけらでもいい、彼が取り戻したのかと思ったのだ。

だが彼は、昔よくそうしていたように、不得手そうにゆっくりと答えた。
「これと…おんなじ字の、メニューのメモが部屋にあったっす」
そう言ってから、さらに彼は「…たくさん、あった」とぼそっと付け加えた。

「そっ…か、それじゃあ、俺の言うこと信用してくれるな?メニューをちゃんと守るんだよ」
ひどい落胆と、それでも海堂が自分に興味を向けてくれたという喜びが、同時に乾の胸に押し寄せた。
この2週間というものの、海堂は話しかけても最低限の返事をするだけで、ほとんど乾を怖がっているように
さえ見えたのだ。

それを思えば、なんだっていい。
ゼロにどんな大きな数字を掛けたってゼロにしかならないように、彼が無関心なままでは、乾のどんな言葉も
上滑りするばかりだ。

海堂が、一瞬何か言いたげな顔をしたような気がした。
だが乾の言葉にこくんと頷くと、「ありがとうございました」と低い声でつぶやいて踵を返す。
そのまま、また速いペースで、どんどんとマンションの前から遠ざかっていった。
次第に小さく消えてゆくその背中を、乾は表情を歪めたまま、いつまでも見送っていた。

……約2週間前、雨の放課後。
室内トレーニングと称した校内ランニングの最中に、海堂は階段から落ちた。
目を覚ました時、海堂は事故のことと、乾にまつわる記憶を一切失ってしまっていた。



(また…雨の音がする。頭、痛ぇ……)
マンション前で乾と別れてから、海堂の走るペースはむしろ速くなっていた。
まるで逃げるように。乾から、逃げ出すように。

あの先輩と一緒にいると、感情が騒いだ。そして決まって耳の奥で激しい雨の音がする。
頭もいつも痛くなった。検査の結果、どこも異常はないと聞いているのに。
(異常はないって、大ありじゃねえか)

分からないことだらけだった。
事故にあったのだと、聞かされた。雨で校内をランニングしていたらしい。
桃城と越前がふざけながら走っていて、前にいた乾にぶつかった。
乾の傍を走っていた自分は、落ちかけた彼をとっさに支え、まるで身代わりのように階段の一番下まで転落
した…らしい。
(らしい、らしいって、全部人に教えられたことばっかりだ)

目を覚ました時、保健室のベッドに寝かされた自分に覆いかぶさるようにして、必死で名前を呼んでいる背の
高い眼鏡の男が目に入り、とても不思議に思ったものだ。
何故こんなに泣きそうな顔で自分を呼ぶのだろう。知らない奴なのに…と。

病院で検査を受けた結果、脳に異常は見られず、だがあの先輩に関する記憶は戻ってこなかった。
だが最初海堂は、別にそれで支障が出るわけでもないだろうと思っていた。
自分は誰に対しても無愛想で、ろくに喋らない。桃城と口げんかするぐらいで、親しいヤツも部内にいない。
先輩など、顔と名前が分かっていれば充分だと思った。

事故のあと、初めて部活に出た時に、乾がやってきて怪我をさせてごめんな、とそう言った。
『…や、思い出せないんすよ。事故のことも…それから』
『俺、のことも…思い出せない…?』
『すんません。どこも悪くないらしいのに、何でなんだか…でも先輩の名前と顔は覚えたし、問題ないっす』

そう言った時の、乾の顔が忘れられない。
表情を歪め、眼鏡の奥の瞳はとても悲しそうで…この人、泣くんじゃないかと思った。
『……謝ること、ないよ。海堂は、なんにも悪くないんだから……』

謝ることないのは、この先輩の方だろうに、と思った。
桃城と越前が部活中にふざけていたのが、そもそもの原因だ(二人ともさすがに殊勝げな顔で謝ったが)
聞いている限りでは、乾が責任を感じるべき事とは思えなかった。

だがそれからも、乾は毎日海堂にかまってくれた。
練習の時いろいろアドバイスをくれたり、自主練に付き合ってくれたり、プロの試合で海堂が見逃したものの
DVDを貸してくれて、後で解説してくれたりもした。
どうしてそんな事をしてもらえるのか分からなかった。

やはり自分に怪我をさせた責任を感じているのだろうかと何気なく桃城に問うと、闊達な性格の桃城にしては
珍しく心底困った顔をして、やがてぽつりぽつりと教えてくれた。
『…おまえと乾先輩…仲、よかったんだぜ』
仲がいい、という言葉が自分とあまりにも不似合いで、海堂は本当に驚いた。
誰かと親しく付き合う方法など、自分を逆さにして振っても出てこないと思っていたからだ。

『1年の時から乾先輩おまえの事気に入ってて、ずっと自主練のメニューも組んでくれてたんだ。スネイクを
完成させるメニューもな』
信じられなかった。桃城がいつになく歯切れの悪い話し方をするからなおのこと。
その上、乾と一緒にいると決まって頭痛に見舞われたから、海堂は本能的に乾を避けるようになっていった。
あの先輩は、傍でずっと聞いていたくなるような優しい声で、自分に話しかけてくれるのに。


だが、チラチラと見える何かから目を背けるのは自分らしくなかったし、大事なことを忘れているという焦燥感は
日々つのっていった。
だから自分の部屋を探して、「証拠」をひとつ見つけ出した。
たくさんメモがしてある自主練メニューの紙片には、それぞれ日付も書き込まれていて、それを順番に並べて
みると最初のは海堂が1年の秋だった。

(もう半年以上、しょっちゅう更新されてる)
(先輩は選手のデータを細かく取る人らしいけど、それでもこれを組むとしたら…すげえマメに俺を見てくれてた
って事なんだよな…)
だとしたら、いくら事故の結果とはいえ自分に忘れられてしまい、顔と名前が分かればいいなどと無神経な事を
言われた乾はどんなに傷ついただろう。

海堂は、未だ「誰かと仲良くしている自分」というのを想像できなかった。
だが、もし本当なら乾に謝っていろんな事を聞きたいと思った。
自分は喋るのが苦手だが、あの先輩はいつも優しそうに目を細めて海堂の言葉を待ってくれるから、大丈夫
ではないかと思ったのだ。

だが後日さらに桃城からもたらされた情報が、海堂を身動き取れなくしてしまった。
つい先日の校内ランキング戦。
最後の最後に乾と戦って、あの先輩からレギュラーの座を剥奪したのが自分自身だというのだ。

越前と、戦って負けたのは覚えていた。
動かなくなった足が悔しくて、ラケットで傷つけたのも。
そしてその後、確かに自分は残りひとつのレギュラーの座を賭けて、誰かと試合をしたはずなのだ。

目を覚ました時にはもう、普通の学校指定のジャージとTシャツを乾が着ていたのを覚えている。
(ずっと面倒見てた俺にレギュラー獲られたんだ)
(あの人がどんなに優しくても、俺のことよく思ってるハズねえよな…)
そう思うとひどく気後れした。
乾は今のところ海堂に嫌な態度など見せたことがなかったが、心の中ではどうなのだろう。
そんないきさつがあるのなら、なおさら何故自分に構ってくれるのか。


朝のひんやりした空気の中を、海堂は何かを振り切るように走った。
さっきも乾に聞きたいことがいろいろあったのに、顔を見るとうまくきり出せない。
そんな性格だと分かっていても歯がゆかった。自分も、今のこの状況も。

(不安で不安で、たまらない)
自分は確かにここにいるのに、取り返しがつかない方向へ流されている。そんな気がした。

だが今の海堂は、暗闇に放り出された子供のように手探りでうろつき回る事しかできなかった。
何を信じたらいいのかさえも、よく分からなかったのだ。




Scene2. 5月6日(火) PM6:00


部室のベンチに座ってノートに何か書きこんでいる乾を横目でちらりと見やり、不二は遅くなってしまったなと
考えながら手早く着替えをした。
もう本当は下校時刻を過ぎていて、ほとんどの部員は帰ってしまっている。
ロッカー代わりの木棚に、自分たちの他に何故かゴールデンペアの荷物が残っているのに気づき、不二は
軽く首をかしげた。

「…乾、もう下校時刻過ぎてるけど」
「ああ、もう少しで終わる」
さらさらと動くシャーペンの先を反対側から見ると、それが海堂のデータだと分かった。
今日は海堂はもう一度病院で検査があるとかで、部活を早退してしまっている。

あの事故が起こってから、既に2週間以上たっていた。
海堂が階段から落ちて保健室に担ぎ込まれた時、不二も一緒だった。
泣き出しそうな乾を、目を覚ました海堂は他人を見るような感情の籠もらない様子で見上げていた。

めったに物に動じない不二もさすがに、冗談だろうと思ったものだ。
記憶喪失なんてテレビや映画ではしょっちゅう使われるネタだが、現実にそんな事が起こるとは誰も思わない。
だがそれが海堂なだけに、信用しないわけにいかなかった。
彼が真っ正直で、嘘や曲がったことが大嫌いだと、テニス部の連中はよく知っていたからだ。


海堂から欠けてしまったのは、恋人だった乾に関する記憶だった。
彼は入学当時のように無口になっていて、どうにも今の状況を探りにくかった。
だが、口の上手い自分や人懐こい菊丸が何かと話しかけてみると、どうやら乾に近づくと頭痛がするらしい。
(やっかいだよね…)
(海堂は自分が大事なことを忘れてるのに薄々気づきはじめてるのに、考えようとすると頭痛がするんじゃ…)

しかし、誰もが意外に思ったのは、事故後の乾の言動だった。
乾は取り乱したりしなかった。少なくとも、表向きはだ。
部活に復帰した海堂が、自分のことを思い出せないままだと知ったその日から、乾は以前にも増してこまめに
彼に話しかけ、練習に付き合い、何くれとなく面倒をみた。
海堂は違和感なのか、頭痛のせいなのか、どちらかというと乾を忌避しているように見えたが。

図体の大きな乾に泣き喚かれたりするのも困りものだったが、その淡々とした態度に部員たちは却って不気味
なものを感じていた。
あれほど海堂のことを好きでたまらず、海堂に纏わりついてはウザがられ、だがそれなりにラブラブで、毎日
毎日恋人の事をのろけては部内の人間をうんざりさせていた乾が。
当たり前のように、今の状況を受け入れているのだ。

だが、当事者である乾を差し置いて、海堂に二人が付き合っていたとも言えない。
奇妙にはりつめた空気のまま、青学男子テニス部は息をひそめて2週間をすごしてきた。
普段と変わりないのは、この状況をどう考えているのかさっぱり分からない部長の手塚ぐらいであった。


「さて、終り。帰るかな」
ようやく書く手を止めて、筆記用具やノートをしまい始めた乾を見ながら、不二はついに誰もが踏み込む事を
ためらっていた核心に触れた。

「……乾。そろそろ話してもいいんじゃない?なんでそんなに自分を責めてるの」
のろのろと振り返った乾の口元は笑っていて、だが眼鏡の奥の目はどうしようもなく悲しげな色をしていた。
不二の中で、自分の言った事は当たりだという確信が湧きあがる。
「海堂が乾を庇ったからかい?でもあの事故に責任があるとしたら、当然桃と越前だろう」

ベンチにもう一度腰を下ろした乾は、それだけの動作をするのもおっくうな様子だった。
ろくに食べても寝てもいないのではないか、という嫌な予感がする。
なにしろこの男は海堂への恋心が募った挙句、不眠症になった前科があるのだ。

「…そういうことじゃないんだよ…」
「え?」
「事故がどうとか、責任がどうとかじゃないんだ。俺は…」
低い位置から不二を見上げると、乾は自嘲気味の苦い苦い声音でこう言った。
「俺は、本当の意味で海堂を大事にできてなかった。こんな事になって初めてそれが分かったんだ」
「……乾?」

乾のぶ厚いレンズ越しの目に、不二は彼が今まで持たなかった何かが在ると気づいた。
ひとつの言葉で言い表すのは難しかったが、それは覚悟…のようなものに思えた。
今一人で道に迷っている海堂を、変わらずに想い、守るということ。
身体も心も弱っているはずなのに、ひどく厳しい誓いを乾は自分自身にたてている。

「言わないの、自分達が付き合ってたって」
「言えないよ。海堂は敏感な子だから、色々おかしいのに気づき始めてる。苦しませたくない」

そんなんで保つの、と言いたかったが言えなかった。
乾はこれ以上話す事はないとでも言うように荷物を担ぎ、「じゃあな、お先」と呟くと、部室のドアを押し開けて
出て行ってしまった。
(助けなんか要らない…というより、進んで罰を受けてるという雰囲気だな)
乾が海堂に何を済まないと思っているのか知らないが、ランキング戦に関する事かもしれないなと思った。

不二から見て乾は、あの試合の後、よく体面を取り繕っていた。
いくら大人びていても所詮は中学生なのだ。
レギュラーの座を、入学したてのルーキーと自分の恋人に剥奪されたのでは、心穏やかでいられるはずもない。
乾は物静かに見えるがプライドが高いし、自分の強さにも自信があったはずだ。

一方の海堂は、試合中はただ乾を倒す事しか考えていなかっただろう。
だが、終わってみればどんな顔で乾に接していいか分からなくなったに違いない。
(だからって、乾が海堂に嫌な態度を取ったりするとも思えないんだけどね…)


困ったように不二がため息をついた時、部室のドアがそろ〜っと開いた。
「不二ぃ〜」
荷物の残り具合で居るのは分かっていた。
こそこそと入ってきた黄金ペアは、どうやら先ほどの会話を立ち聞きしていたらしい。
生真面目な大石はバツの悪そうな顔をしていたが、菊丸はお構いなしに不二の制服のシャツの裾を引いた。
「なんかよく分かんないけど、乾かわいそうだよ。あのまんまじゃ川に身投げしちゃうかも」

不二的には、乾は身投げするぐらいなら海堂のストーカーにでもなりそうな気がしてならなかったが放っておけ
ないのも事実だった。
たとえ本人が、どれほどそれを全身で拒否していたとしてもだ。

「何とかならないか、不二…と言っても、ケンカしてるのを仲直りさせるのと訳が違うからな…」
いつも乾のノロケの被害に遭っているくせに、気の優しい副部長はそう言った。
善良な大石は、不二の薄茶色の瞳をうっすらと見せたのにも気づかず、乾と海堂の行く末を案じている。

「そうだね。僕もまあ、切り札がないわけじゃないんだけど…」
「え、なになに?なんかいい方法あんの!?」
ぱっと顔を輝かせた菊丸の肩を笑いながらぽんぽんと押し戻し、不二はさっきまで乾が座っていたベンチに
ギシッと音をたてて座った。

「大石の言う通り、今の海堂はある種の病気だからね。それが効果を現すかは僕にも分からない」
「そっかあ…そうだにゃ。薫ちゃん、乾のコト考えると頭痛いってゆってたもんな…」
「できないって言ってるわけじゃないよ、英二。切り札は効果の上がる状況で使わなきゃってこと」

ふくみ笑いをしながら自分たちを見やる不二に、菊丸も大石もようやく示唆された事が分かってきた。
要するに不二は、膠着している今の状況を動かせと言っているのだ。

「えーとつまり、不二が言うところの“効果が上がる状況”にすればいいわけか?」
「どうすんの?俺手伝うし。大石だって手伝ってくれるよ!」
元気よく他人の事まで請合う菊丸に大石は苦笑を禁じえなかったが、自分のモットーは『部内の愛と平和』だし
もうあんな乾を傍観していられなかった。

「ああ、俺もできる事はなんでもするよ」
優しくあいづちを打った瞬間、副部長の運は尽きた。
不二のたくらみの歯車がカチリと音をたてる。善良な人間は、善良であるがゆえに利用される運命なのだった。

「…そう?英二にも勿論動いてもらうけど、何と言っても大石が頼りだから」
にっこり笑った不二を見て、大石の背筋にゾクッと悪寒が走った。
しまったと思ってももう遅い。自分にとんでもない役割が振られる事を大石は確信した。

「なに、大石が主役なんだ?いいな〜」
(替わってやる!いやむしろ替わってくれ、英二!!)
「うんだって、大石が部内で一番コントロールがいいからね」
(コントロール!?テニスか!?何をやらされるんだ、俺は)

「そうだよ、大石はライン上にボールを狙って落とせるんだし!ってアレ?どっかにボールを落とすのかにゃ」
「そう、英二は賢いね。落とすんだよ」

腹黒い笑い方をする不二と、訳も分からずそれに同調する菊丸を呆然と見つめているうちに、大石の胃がシク
シクと痛みはじめた。
「大石ぃ〜不二ってほんと友達思いだよね!」
「あ、ああ…そうだな」
心優しい副部長は翌日、目だけで殺されそうな剣幕で乾に睨まれる境遇に陥ることとなる。




Scene3.  独白(乾 語り)


簡単な夕食を作って、機械的に食べて機械的に片付けた。
特に何の味もしなかった。エネルギー補給、ただそれだけのこと。

部屋はモデルルームのようにキレイに片付いていて、何の気配も温かみも感じられない。
俺という生きた人間が存在するのに、この無機質さには笑ってしまうほどだった。
(いや、今の俺なんか生きてるとも言えないか)

食卓の椅子に座って、俺は青いマグカップを手のひらで暖めるように包んでいた。
細かい銀の模様の入ったきれいなきれいな青。
一目見て、きっと彼が気に入るだろうと思ったから、その場ですぐに買った。
値段が結構したのはナイショだった。
バレンタインの時購入したアイスクリームメーカーが数万円もする代物だと気づかれて、彼に叱られたから。

『これ、海堂専用だからね』
このカップにココアを淹れてクリームを絞って差し出すと、彼はびっくりしたような顔で受け取ってくれた。
『アンタ、またこんなん買ってきたんすか…』
『だって海堂きれい好きだから、カトラリーとかカップぐらいは専用のがいいだろ』
彼はしばらく眉を寄せていたが、やがてありがとうございますと小さくつぶやいた。
大切そうに両手でカップを包み込んで、ココアを飲んでくれた。

彼の温もりがひとかけらでも残っていないか探すように、カップを俺の手が包む。
失って初めていろんな事に気づくなんて、お笑いもいいところだ。
誰よりも何よりも好きだと思っていた。
だから大事にした。俺の与えてやれるものは何でも彼にあげたかった。

それがどんな傲慢な考えかに気づかなかった。
自分がどれほど与えられてばかりいたのかを、かえりみようともしなかった。

『与える』という大義名分は、俺の醜いプライドを満足させていた。
だけどそんなのは体のいい自己満足にすぎなくて、俺は。
本当はただ、必要とされたかったのだ、あの子だけには。


『レギュラーの座はぜったい諦めねぇ…』
大番狂わせというのがあるなら、あの越前と海堂の試合がまさにそれだった。
手塚がランキング戦に1年を参加させたのも驚きだったが、まさか海堂が敗れるとは想像もしていなかった。
疲労で動かなくなった足をラケットで傷つけた挙句、コートから出た海堂は、すれ違いざまにそう言った。

あの時、俺は本当のところ何を思っていたのか。
心外だという気がしたのは、否定できない。
海堂がレギュラーを諦めないというのは、俺と戦って勝つことを意味していた。

彼が本気で俺に歯向かってくるつもりだと知って、驚いたような気もする。
海堂は、それまで試合で俺に一度も勝ったことがなかった。
俺は長い間彼にテニスを教えているうちに、無意識に海堂は自分の後ろからついて来るのが当然と思って
いたのかもしれない。

恋人だ、という甘えもどこかにあった。
あの直前の春休み、俺は彼と初めて最後まで身体を繋げていたから。

俺の心の緩みや弱さが、あの2試合であからさまに露呈した。
越前に負けたのも屈辱だったが、自分が海堂に負けるとは思っていなかった。

彼が勝ったのは、彼が俺よりも強かったからだ。
ゲームが終わってネット越しに握手をした時に、彼の目を見て思い知った。
彼は、もうずっと以前から、俺と戦うことを覚悟していたのだと。
恋をしていても、どんなに俺を好きでも、海堂はその時が来たら俺と全力で戦い、倒すつもりだったのだ。
俺の中には、そんな覚悟はひとつも用意されていなかった。


俺は気持ちを切り替えたつもりでいた。2ヶ月たてばランキング戦は巡ってくる。
皆のトレーナー役も引き受けた。チームメイトのデータも取りやすくなるし、自分の勉強にもなったからだ。
誰も知らないところで必死にトレーニングを重ね、自分を高める努力も始めた。
それでも、あのレギュラージャージを剥奪された意味は重かった。

俺は海堂に嫌な態度をとったり、そっけなくした事はない。それは絶対にだ。
負けたのは自分の弱さが招いた事だとよく分かっていた。
だからそんな幼稚な真似をして海堂を傷つける事はできなかった。俺は、彼を好きでたまらなかったから。

海堂はランキング戦以降も変わらない態度の俺に、どう接していいのか分からない様子だった。
戦っている時はただ必死だったのが、勝ってみて初めてとまどいが生まれたのだろう。
俺は普段と変わらない自分を取り繕っていた。
だがあの子は敏感だから、自分と俺がぎくしゃくしているのを知っていたと思う。

俺は彼のとまどいを取り除いてやろうとはしなかった。
負けてあのジャージを取り上げられた自分が、なんでそこまで気を遣う必要があるんだという思いがあった。
俺は、一番ひどいやり方で、彼に意趣返しをしていたのかもしれない。


丁寧な手つきでカップを棚にしまうと、俺はのろのろとした足取りで自室に入った。
しかしパソコンに電源を入れるのも、本を読むのも、データを整理するのも嫌だった。
この部屋には彼の声や表情や暖かさが、亡霊のように溢れていた。
中でも痛いぐらい鮮明に蘇るのは、あの春休みの夜のことだった。

最初にキスをした日から、彼と身体を繋げるまで俺は長い期間を費やした。
何も知らない彼を怖がらせるのも、痛い思いをさせるのも絶対にごめんだったからだ。
いくら好かれていたとしても彼はセックスの経験もなかっただろうし、俺に抱かれる事にどれほど抵抗があったか
想像に難くなかった。
それでも彼は全部俺に預けてくれた。

『好きにしろよ。アンタがひどいことなんかしないのは知ってる。だからおっかなびっくり触るんじゃねーよ』
舌を絡めるキスが甘くて。
擦れ合う素肌が気持ちよくて、お互いの心臓が壊れたみたいな速さで鳴っているのが伝わってきた。

海堂の指先が時々たまりかねたように背中を引っかく。
俺は苦笑しながら、宥めるようなキスを額や鼻先やまぶたに数え切れないくらい落としていった。
お互いびっしょり汗をかいていて、俺の顎から彼の肌の上にぽとりぽとりと汗が滴り落ちた。

熱くて、熱くて、苦しくて、気持ちよくて、愛しくて。
気が狂いそうだった。
心と身体がちゃんと繋がった行為は、俺たちに恐ろしいほどの愉悦を与えてくれた。

『海堂…海堂、なあ…痛くない…?』
なんとか身体を繋げてみたものの、圧迫感がひどいのか、彼は浅い呼吸を必死で繰り返す。
それが可哀想で、俺はそれ以上動くこともできずに聞いた。

俺の吐息交じりの囁き声にさえ感じるのか、彼は全身を震わせ潤んだ目で俺を見上げてくる。
『…バッカだな、アンタ…』
汗で滑って少しずり落ちた俺の眼鏡を直してくれると、彼はそのまま俺の首に腕を回してしがみついた。
その行為に身体はより密着し、繋がっている部分も深くなり、俺も彼も堪え切れないような声を漏らす。

『アンタ…はどうなんだよ。俺なんかで、イイんすか…』
声は掠れていたし、目も快感に濡れていたけれど、それでも彼はどこか侵しがたいほど凛として見えた。
却って俺の方が不安げに、彼のしなやかな身体をきつく抱きしめる。
『ん…イイ、すごいイイ……俺もう、どこにもいきたくない…海堂と』

海堂と。きみと混ざり合って、もう離れずにすめばいい。
そんなバカな睦言を、笑みの形をした海堂の唇が、柔らかく塞いでゆく。

あの時、何故分からなかったのだろう。愛されているのだと。
きみの、心を。
本当に抱かれていたのは、俺の方だったのに。


自分勝手で傲慢だった俺は、罰を受けた。
片思いをしていた頃よりももっと遠くに、今、彼はいる。

それでも最後の最後まで、彼は俺を庇ってくれた。
俺なんか階段から落ちようと怪我をしようとどうでもよかったのに。

一番下の段にぐったりと横たわった彼の顔は蒼白で、一瞬本気で死んでしまうのかと思った。
喉が枯れるほど、彼の名を呼び続けたのを覚えている。
どれほど呼んでも閉じた瞼は震えもしなくて、俺は自分が指先まで冷たくなるのを感じた。

あんなに、恐ろしかったことはない。
彼をどんなに大切なのか、あんな思いをしなければ分からなかった俺は、罰を受けても当然なのだ。


(今、海堂は何をしてるだろう…)
俺はふと、棚の上に大事に置いてある品物を思い出し、そちらに目をやった。
丁寧に包装されリボンのかかった包みと、青い封筒。

新学期始まってすぐに、俺は喜々としながら彼にもう一通の封筒を手渡した。
『海堂、もうすぐ誕生日だよな、これ持ってて』
『はあ?アンタほんとに俺の誕生日分かってんすか。まだ1ヶ月ぐらい先っすよ』

呆れた口調でそう言いながらも、彼は封筒の中身を取り出した。
ジンベエザメの写真が印刷されたそのカードは有名な水族館の入場チケットで、他にも当日の電車の切符の
役目をしたり色々特典が付いている代物だった。

『行ったことある?』
心配になって聞くと、彼はふるふると首を振った。俯いた顔が嬉しそうなのが、分かった。
『俺と一緒に行こう?』
動物が好きな彼なら、きっと喜んでくれるだろうと思っていた。
『付き合って初めての誕生日だから、デートしないとな』
そう言って、夕暮れの誰もいなくなった部室で、俺は海堂を引きよせて笑いながらキスをした。
たった1ヶ月ほど前のことだ。

もうあのカードが使われることはないのかもしれない。二人で出かけることも、きっとない。
笑ってもらえるのも、文句を言われるのも、キツい目で見返されるのも。
(最後にキスしたの、いつだっただろう)

髪を梳くのも、指を絡めるのも、お互いの境目が分からないほど抱きあうのも。
(大好きだよって、最後に言ったのはいつだった…?)

力なくベッドに座り込んだ俺は泣くことすらできなかった。
彼がいなくなった空っぽの世界へ、また眠れない夜が押しよせて来る。

(……助けて、海堂)
口に出せない願いを俺は、心の中で何度も何度も繰り返していた。
小さく身を縮めて、怯えきった子供のように。




Scene4.  5月7日(水) PM4:20


5月にふさわしい気持ちのいい天気は夕方近くになっても持続していて、絶好の部活日和だった。
だが大石は今から自分がやらなければならない事を思うと、心労で倒れそうであった。
準備運動を怠る事を許さない手塚の厳しい視線の下、今は部員全員がストレッチに励んでいる。

ふと見てみると、珍しく乾が海堂のストレッチの相手をしてやっていた。
あの事故の後、海堂は乾を忌避しているように見えたし、乾もたとえストレッチといえど海堂に易々と触れよう
とはしなかった。
気持ちが抑えられなくなるからだろうなと、そういう事には疎い大石にも分かった。

だがもう、乾は限界に近づきつつあるのかもしれない。
明らかに痩せてきていたし、体調も良さそうには見えなかった。
(俺にできることを、してやるしかないのか…)

深い深いため息をついた大石のストレッチの相方を務めていた菊丸が、「大石、ガンバレ!」と小さい声で激励
した。
(ガンバレって英二……間違って海堂に怪我をさせたらどうなると思ってるんだ…)
だが無言の圧力をかけるように、不二もにっこりと笑いかけてくる。
大石に逃げ道はなかった。やるしかないのだ。


「海堂、一緒にやろう」
ストレッチを始める時、珍しく乾がそう声をかけてきて、海堂は少しびっくりした。
すぐに頷いて見せたが、地面に脚を伸ばした自分の背中に乾の大きな掌が触れた瞬間、ズキンとした。
いつもみたいに頭痛がするのではなく、胸の真ん中が痛かった。

たかがストレッチの補助をしてもらってるだけで、何をこんなに意識してるんだろうと恥ずかしくなるほどだ。
何かを聞きたい気持ちは日々膨れ上がってゆく。なのに何から聞いたらいいのか分からない。

(俺と先輩、仲良かったってホントっすか?)
(俺が先輩を忘れた今でも、こんなに優しくしてもらえるぐらいに?)
そんな質問をまともにされたら、きっと乾は困ってしまうだろう。
彼は自分に怪我をさせたのを済まないと思っているに違いない。
なのに好意に理由をつけてもらいたがっている自分の方がきっとおかしいのだ。

(理由って…俺、先輩に何て言ってほしいんだよ)
どくん、と心臓が大きな音をたてた。
背中に触れている乾の手にまで伝わってしまいそうだった。

「……海堂?」
気がつくと、交代しようとしない海堂を不思議そうな顔で乾が覗き込んでいた。
「す、すんません…替わります…」
大慌てで乾を座らせたが自分の耳が熱くなっているのを感じる。赤くなっているかもしれない。

今度は乾の広い背中に自分の手で触れた。
グッグッと力を込めながらも、奇妙な既視感のようなものが去っていかない。
(触ったことある…この人の背中…)
服に遮られない素肌と、なだらかな背中や骨格のラインを指先で何度も辿った。
するっと自分の中に浮かんだその考えにぎょっとして、海堂は今度こそ真っ赤になった。

(なに考えてんだ、俺!おかしいんじゃねえか!?)
周囲に人が大勢いる部活中に、白昼堂々と自分の脳裏に浮かんだあまりに生々しいヴィジョンに、海堂は
気が遠くなりそうになった。

必死で乾の背中を押しているうちに、やがてそれも済んでよいしょと乾は立ち上がった。
「……海堂?」
「え…え!?」
高い位置から顔を覗き込むようにされて、心拍数が上がる。声が裏返った。
そんな海堂の様子をどう思ったのか、乾は海堂のバンダナの結んだ先をひょいっと摘んだ。
「バンダナ、新しいやつだろ。似合うな、この色」
「あ、ハイ…そっすか…?」

ブルーグレーのバンダナは、確かに今日新しくおろしたばかりの物だった。
そんな細かいことに気づいて、わざわざ言ってくれる乾を変な人だなとも思うけれど、本当はとても嬉しい。
この人が、自分を見てくれていると安心するのだ。
海堂はそっけない返事をしただけなのに、乾は眼鏡の奥の瞳を細めてひどく優しい笑い方をした。
それを無言で見上げながら、海堂は自分の心にまた波が立ち始めるのを感じていた。



ストレッチの後、乾はレギュラー陣にコート2面を使ってラリーをするよう指示した。
対戦した2人で先に5点取った方が勝ち。負けた者は交代する方式だった。
最初にAコートに大石と河村、Bコートには桃城と菊丸が入った。レギュラーは8人なので、待ち組が4人いる。

ラリーが始まり、河村の「よっしゃあー!燃えるぜ、バーニーング!!」という雄たけびを聞きながら、乾はコート
とコートの境目に立ち、ラリーに目を配っているふりをしていた。
本当は、乾が意識を集中していたのは、すぐ傍でぼんやりと順番を待っている海堂だった。

自分はもう本当に自制が効かなくなってきているのかもしれない。
彼に触れてはいけないと、これまでひたすらに自分を戒めてきた。
たとえストレッチ程度でも、あの子の体温に触れたらもうどうにもならなくなりそうで怖かった。

それなのに禁をおかしたのは、彼が新しいバンダナを身につけていたせいだった。
いつ買ったのだろう。
初めて見たそのバンダナは彼によく似合っていたが、乾の不安を掻き立てるのに充分だった。
たった2週間と少しで、もう自分の知らない事がある。
このまま、知らないことが小さく積み重なっていって、彼は知らない人になってしまうのだろうか。

それが怖くてたまらなくなって、ストレッチの相手を申し出た。
彼の背中を押しながら、胸が痛くてたまらなかった。
ジャージ越しにかすかに伝わってくる体温が頼りなく、愛しく思えて、何故自分はあんなに当たり前のように
彼に触れていたのだろうと悲しくなる。
今ならもっと、宝物みたいに触れるのに。何よりも大切だと彼にすぐ分かるように触れるのに。


スパーン、スパーンと小気味よい音をたてるラリーの応酬に目を向けるふりをしながら、その時乾も海堂も
実際はボールの行方など追っていなかった。
ただぼんやりとお互いのことを考えていた。その瞬間。

「うわーっ!海堂スマン避けろーっっ!!」
大石の絶叫がコートに響き渡った。海堂がはっとした時にはもう遅かった。
ラケットがすっぽ抜けでもしたのか、大石の打ったボールは一直線に海堂に向かってきていた。

海堂もぼんやりしていたせいで反応が遅れた。
完全に頭に当たることを覚悟して、ギュッと目をつぶった瞬間、何かが自分に覆いかぶさるのを感じた。
ガシャ、という鈍い音。
(…?痛く、ねぇ…なんで…)
恐る恐る目を開けてみると、至近距離に眼鏡をかけていない乾の顔があった。
海堂の頭を両腕で抱え込んで、というよりむしろ全身で海堂を庇っているように見えた。

「い…ぬい先輩……」
掠れた声で名前を呼ぶと、乾は一瞬海堂の顔を覗き込んで「怪我してないな?」と心配そうに聞いた。
急いでコクコクと頷く。
それでも乾は抱えた腕を緩めると、海堂の全身にざっと点検するように視線を走らせた。

二人の足元には、乾の眼鏡が転がっていた。
割れてはいなかったが、片方のつるが折れてしまっている。
ボールが当たったのだと気づいて、海堂はぞっとした。自分は先日頭を打ったばかりなのだ。
もう充分おかしくなっているのに、これ以上同じような目に遭っていたらどうなっていただろう。


「すまん、乾、海堂、大丈夫か!?」
顔面蒼白、といった様子で大石がコートの向こう側からすっとんで来た。
この状況でラリーを続けられるはずもなく、他のメンバーも集まってくる。
海堂は足元の乾の眼鏡をそっと拾い上げた。どう見ても使い物にならない。

見上げると、乾がたじろぐようなキツイ視線で駆け寄ってきた大石を見ていてびっくりする。
いつもはこの野暮ったい眼鏡で隠れているが、この先輩は端正な顔立ちをしているだけに、本気で怒った表情
にはもの凄い迫力があった。

「大石、おまえ海堂がこの前頭に怪我したばかりなのを忘れたわけじゃないだろう」
「すまん、本当にすまない。わざとじゃないんだ、許してくれ海堂」
ペコペコと頭を下げる大石が、まさかわざとやったとはつゆ知らず、気の毒になった海堂は「や、俺はどっこも
怪我してないっすから。それより乾先輩が…」と口ごもった。

「乾、スペアの眼鏡持って来てるの」
不二が突然実際的なネタを振ってくれたため、緊迫した空気がようやく緩んだ。
乾もペコペコ謝る大石をそれ以上責められなかったのか、「ああ、部室の俺のカバンの中にある」と答えた。
「俺、取って来てやるよ、乾!」
行動の早い菊丸が返事も聞かずに部室の方へすっとんでいく。

なんとも言えない空気が辺りに流れた。
青学レギュラー陣は、この2週間一触即発だった乾・海堂問題が新たなる局面を迎えた事に固唾を飲んでいた。
乾は裸眼では1メートルもまともに動けないらしく、困った顔で立ちつくしている。
海堂は壊れた眼鏡を握ったまま、目線を泳がせる乾の顔をじいっと見上げていた。

(どうなるんだよ。どうにかなってくれ、この二人!!)
多少ニュアンスは違っても、その時全員がほぼ同じような事を考えていた。
特に多大なる犠牲を払った大石の願いは切実なものだった。

そこへ乾のバッグをわざわざ抱えた菊丸が、駆け足で戻ってきた。
「いーぬい、探してみたけど入ってないぞ〜」
「…え、そんなはずはないんだが」

菊丸からバッグを受け取った乾は、その場にしゃがみ込んで中身をごそごそ探った。
「おかしいな…中身を入れ替えたわけでもないし」
「スペアの眼鏡ってそれだけなんすか?」
心配そうに問いかけるのが海堂だと知り、乾はぼんやりとした輪郭のブルーグレーのバンダナに向かって「いや
もうひとつ家にあるから心配いらないよ」と諭した。

「手塚、ろくに見えてない状態の乾に居られたら却って危ないから、家に帰した方がいいんじゃない?」
「ああ、そうだな。乾、今日はもう帰っていいぞ」
考えがあるのかないのか、とにかく威厳だけはある手塚が判断を下したので、周囲にホッとした空気が流れた。

「でも乾先輩、眼鏡なしでまともに歩けるんすか」
桃城がもっともすぎる意見を述べる。実際乾は先ほどから、全然動こうとしていない。
「おいマムシ、おまえ助けてもらったんだから、先輩送って行けよ」

不二の口元ににやりと会心の笑みが浮かんだ。
乾が見えていないのをいいことに、菊丸も大石に向かってにーっと笑ってみせる。
誰かがそう海堂に薦める予定だったのだが、関係ない桃城が言ってくれたことで全てがごく自然な流れに思えた。
まさかこれがヤラセだとは、乾も気づかないだろう。

海堂はいつも口ケンカが絶えない桃城にそう言われた事に少々ムッとしたが、今はそれどころではなかった。
ろくに周囲が見えていないらしい乾の手助けをしなければならない。
「そっすね。じゃあ部長、俺、乾先輩と一緒にあがっていいっすか」
「ああ、構わん。頼んだぞ海堂。他の者は練習を続ける、元の位置へ戻れ」
「え…あの、海堂?」

周囲がよく見えていない間に、自分の事をどんどん決められた乾は焦った声を出した。
だが眼鏡のない乾は、もはや身障者レベルだった。
「とりあえず部室戻って着替えるっす。先輩」
海堂は乾のバッグを肩に担ぐと、一瞬ためらってから乾のジャージの袖口を握った。
誘導するように引っぱって、ゆっくり歩きだす。

「海堂、あのさ、いいの練習出られなくても…?」
子供のように手を引かれて自分についてくる乾が、何だか可愛いような気がして、見えていないのをいいことに
海堂はこっそり笑った。
ずっとこの人に対して緊張したり、考えすぎていたのに、少し気が楽になっている。

「なに言ってんすか」
あの時、乾は迷わずに自分を庇ってくれた。その好意は素直に受け取ってもいいと思えたから。

「先輩、助けてくれてありがとうございます」
隣で聞こえた柔らかい感謝の声に、乾は目をみはった。
表情までは見えなかったが、あの日以来初めて海堂の感情のこもった声を聞いた気がしたのだ。




Scene5.  5月7日(水) PM5:10


「悪い、海堂。鍵開けてくれるか。一番右についてるヤツ」
「…っす」

朝ランニングの時に通るマンションに乾の袖を引きながらやっと到着すると、いくつもの鍵がついたキイケースを
渡された。
家に誰もいないのか、と海堂は少々びっくりする。
勿論両親共働きの家などいくらでもあるのだろうが、海堂は友達の家になどあまり行ったことがなかったし、自分
の家にはいつも母親がいたから何か不自然な感じがした。

「構わないからそこのスリッパ履いて入ってくれるか」
あまり見えていなくても、乾はさすがに自分の家の構造は熟知しているらしい。
そう言われた海堂は急いでスリッパを2足出して、自分もつっかけた。
廊下を通ってドアを開けると広くて機能的なキッチンや、奥には居心地の良さそうなソファが見える。
海堂は乾をそのソファまで連れて行って、とりあえず座らせた。

「先輩、眼鏡どこにあるんすか」
「あ、俺の部屋。勉強机の上から2番目の引き出しに入ってる」
あまり見えずに他人に頼って移動してきた事に疲れたのか、乾は自分のこめかみを揉むようにしている。
早く眼鏡かけさせてやらねえと、と思った海堂は、そのままスッと立ち上がって元来た廊下の方へ戻ろうとした。

自然に身体が動いた。
途端にドクン、と心臓が音をたてる。
リビングへ来る廊下の途中にあったドア。あれが、乾の部屋だ。
(分かる…知ってる。俺、あの部屋に入ったことがある)

「あ、ゴメン、海堂。そこの廊下出てすぐのドアがそうだから」
背中から聞こえる乾の声に答えず、海堂は問題のドアの前へ行き、思い切って開けた。

たくさん床に積み上げている本。書き散らかした紙片。
ケースに入っていないビデオテープやDVD。テニス雑誌。筆記用具。
パソコンもデジカメもあるのに手で書くことをやめない、乾の自筆の古びたノートがどっさり置いてある。
それからベッドの置いてある壁に、ラクガキがあった。

何かを思い出したわけではなかった。だが海堂はこの乱雑な部屋を見て胸がいっぱいになった。
記憶などなくても分かった。
自分はこの部屋に来たことがある。多分何度も。
自分のきれいに整理整頓された部屋とは似ても似つかないこの部屋が、懐かしくて切なくなるほどだった。

(ああ、ほんとのことだったんだ)
(乾先輩は…なんでかは分かんねえけど、俺に目をかけてくれて優しくしてくれて)
(俺も多分あの人には、気持ちを許せてたんだ……)

海堂は机の2番目の引き出しを開け、どう考えても乾の容貌を損ねている重い黒ぶちの眼鏡を取り出した。
ずっと手探りだった自分に、ようやく手がかりが与えられたような気がして、それを大事に手で包みこんだ。


(…どうしたんだろう。何か、様子が違ってる…)
眼鏡を持ってきてもらって、ようやく人心地ついた乾は、「お茶淹れるからそこに座って」と海堂をうながした。
拒否されるのを半分覚悟していた。要らない、帰ると言われるかと思ったのだ。
だが海堂はおとなしく頷くと、キッチンの椅子に行儀よく腰掛けて、黙って何かを考えこんでいる。

アクシデントの結果とはいえ、海堂が家に来てくれた事は今の乾にとって夢のような話だった。
幸い牛乳は買ってあったから、急いでミルクパンで沸かして、ココアを作った。
惜しいことに、このごろまともに料理をしていないので生クリームがない。
仕上げにクリームを絞ってやりたかったが、それは断念して、乾はあの青いカップに心をこめてココアを淹れた。
海堂が好きな、甘さを控えたやり方で。

「はい、あんまり甘くしてないからな。美味しいと思うよ」
海堂は自分の前に差し出された、きれいな青いマグカップをびっくりしたように見ていた。
お茶を淹れる、と言ってもせいぜいインスタントコーヒーだろうと思っていたのだ。

「ごめんな、生クリーム乗っけてあげたかったんだけど、切らしてて」
「え…や、俺なんかにそんな事までしなくてもいいっすよ」
この人料理ができるのかもしれない、とふと思う。親が共働きなら、そういう事もありうるのか。

海堂は受け取ったマグカップに気を惹かれた。
とてもきれいな青に銀の細かい模様が入っている。きっと高価なものなのだろう。
いただきますと小さく呟き、両手でカップを包むようにしてココアをすすった。
(あ…すげぇ美味い…)
香りはいいのに甘すぎない。その味はちょうど海堂好みで、カップも好きな感じで、とても気持ちが緩んだ。

キッチンのシンクにもたれて立ったままの乾が、自分もココアを飲みながら、ひどく優しい目で海堂を見ている。
それに安心できた。
自分は事故にあってから2週間、不安で不安で、気ばかり張りつめ続けていたのだと分かる。
その不安の大元である乾と一緒にいて、安心するというのもおかしな話だったが。
でも今日は何故かいつもの頭痛もしない。それもうれしかった。


「ごちそうさまでした…」
「うん、そこの流しに置いといてくれるか」

頷いた海堂がカップを水ですすぐのを見て、相変わらず几帳面なんだなと乾は苦笑まじりになった。
そういう躾けのいいところも、好きでたまらなかった。
恋は盲目などとよく言うが、海堂のする事を嫌だと思ったことなど一度だってない。

(ああ、もう帰ってしまうんだな…)
さらさらと癖のないきれいな髪を見つめながら、苦しい思いが胸に湧いた瞬間、グラリと視界が傾くのを感じた。
慌ててシンクに手をつく。
だが支えにしようとした手も、立っている足からも力がどんどん抜けてゆく。

貧血か、と思った時には遅かった。
ガタン!と大きな音をたてて乾は膝をつき、そのままずるずるっと床に崩れ落ちてしまった。
「先輩!乾先輩!?」
耳元で海堂が必死の声で自分を呼んでいるのが聞こえた。
大丈夫だよと言いたかったが、意識は混濁しているし、手も足も痺れたように冷たくて動けなかった。
目も開けられない。

あまりの事に呆然としていた海堂は、しかしやがて意を決した。
半分気絶したような状態の乾の腕を自分の首に回させて、支えるようにしてなんとか立ち上がる。
本当はベッドに運んでやりたかったが、身体の大きな乾をひきずっていくのはムリだったので、キッチンの奥に
あるソファへと必死でズルズル運んでいった。

(そういや、この人ずっと顔色悪かった…)
自分のせいだろうかと思った。そんなのは自惚れているかもしれないけれど。
自分が不安だったように、乾もつらい思いをしていたのだろうか。

ソファに乾を寝かせると、海堂は勘に頼って洗面所とバスルームを探し当てた。
余所の家の物を勝手に触って悪いと思いながらも、タオルと洗面器を取ってくる。
冷凍庫を開けると幸い氷はたくさんあった。
手早く氷水を作ってタオルを浸し固く絞ると、血の気が引いた乾の額に乗せてやった。

突然ひやっとしたのに驚いたのか、乾が瞼を震わせる。
その顔を見つめながら、海堂は悲しくてたまらなくなった。
乾が病気になったり怪我をしたりするのは、絶対いやだと思った。
(…あの時。俺が階段から落ちた時、先輩もこんな気持ちになったんだろうか)

何度も額を冷やしてもらっているうちに、乾はようやく意識がはっきりしてきた。
重かった瞼をこじ開けてみると、ソファに寝かされた自分を海堂が心配そうな顔で覗き込んでいた。

「か…いどう…」
「気分どうっすか?無理にしゃべらなくていいっすから」
「うん…」

そばにいて。お願いだからそばにいてほしい。
甘やかすような海堂の言葉に、乾の胸にそんな願いが痛いほどこみ上げる。
海堂は安心させるように乾の枕元に座ると、何も言わずにそのままいてくれた。
時々タオルを替えてくれながら、おとなしい黒猫のようにじいっと乾を見つめている。


「…俺、ここに来たことありますよね、先輩」
しばらくたって、ぽつり、と言った海堂の言葉に、乾は目をみはった。

「別に何か思い出したわけじゃねぇんだけど、なんか分かる。このリビングもキッチンも、先輩の部屋も初めて
じゃない」
片膝を立ててそこに顎を埋めるようにして、彼は相変わらず不得手そうにしゃべった。
そういう仕草は両思いになってからも、あまり変わらなかった。

「先輩と俺が親しかったって桃城に聞かされて、絶対嘘だと思ってた。俺、無愛想だし、一緒にいても面白くも
何ともねぇだろうし。だから誰かを忘れても大したことじゃないって思った…」
「海堂…」

海堂は自分の心臓のあたりをぎゅっと押さえてみた。
何で自分はこの人を忘れてしまったんだろう。優しくされた記憶はどこへいったのだろう。
そのことが、今さらながらに辛い。そして苦しい。

「すみません俺、先輩にひどいこと言った…」
「海堂、そうじゃないんだ、あの…」
「先輩は俺に優しくしてくれてたはずなのに、顔と名前が分かれば問題ないなんて言って…」
「……海堂!!」

……なにが起こったのか、とっさに頭で理解できなかった。
乾がソファから身を起こし、床に座り込んでいた自分をきつく抱きしめるのを、海堂はまるで他人事のように呆然
と感じとっていた。
(なに…なんだ、これ……)

「いぬい…せんぱい…?」
乾の左腕はつよく自分をかき抱き、右手は髪を撫で続けていた。
どう考えていいのか分からなかった。
ただ、今突き放したら、この人は泣きだすんじゃないかと思った。動けなかった。

「俺たちね…付き合ってたんだ、信じられないだろうけど」
衝動の赴くままに海堂を抱いてしまった今、もう乾も後戻りはできなかった。
驚きのあまり身動きもできない海堂の身体を、腕に閉じ込めて、耳に唇で触れるようにして告白をする。

「去年の12月から付き合ってた。俺はもっとずっと前から海堂のことが好きだった」
好きという言葉に、腕の中の海堂がビクンと反応した。
何を言われているのか、ようやく理解したけれど分かりたくないという様子が見て取れた。

「ここには何度も来てるよ海堂は。泊まったことあるんだから、俺の部屋も知らないはずない」
「……ッ!!」
その直接的な乾の言葉に、頭に血が上ったのか海堂は乾の腕をふりほどいた。
こんな時でさえ乾は、彼のキツい瞳に次々映し出される感情を美しいと感じた。
悔しさ、不信感、とまどい、焦り、悲しみ…そして怒り。

そこにいるのは、乾が誰よりも愛している人で。
だが乾を愛してくれた記憶を、全身で否定している人だった。


とっさに彼の両手首を拘束すると、乾は海堂の身体をソファに押し付け、無理やり唇を塞いだ。
海堂は必死で暴れたが、体格差のせいか、乾の気持ちが常軌を逸していたのか、そのキスは長く続いた。
それは、乱暴しているくせにひどく甘くて優しくて、泣きたくなるような口づけだった。

「……よ、せ…っ!」
海堂は思うがままに自分を蹂躙していた乾の唇に噛みつくことで、ようやく拘束に緩みを作り、渾身の力を
込めて乾の身体を突き飛ばした。
怖くて、怖くて、気をしっかり持っていないと泣きだしそうだった。

(何なんだよ!?なんでこんなことされなきゃなんねーんだよ!?)
涙で薄くくもった視界で必死で自分の荷物を探し、それを拾うと海堂は逃げ出した。
(付き合ってたってなんだよ!あんなことされてたってことかよ!?)
もう1秒も乾の傍にいられなかった。
ガシャガシャ耳障りな音をたてて荷物を揺らしながら、海堂は必死で走った。

乾が嘘をついていると、言い切ってしまえれば楽だった。
だがあのキスの合間、間近にあった乾の目がどんなに切ない色をしていたか見てしまったから、今の海堂には
ただ逃げることしかできなかった。



部屋の隅に突き飛ばされたまま自分のした事に呆然としていた乾は、よろめく足取りで窓際へ歩み寄り、カーテン
を細く開けた。
海堂が、マンションの正面玄関を走り出てゆくのが見えた。
その小さな背中は、ただ乾から逃げることしか考えていないらしく、勿論振り向くことなどしなかった。

乾は壁に背中をつけ、ズルズルッとその場に座り込んだ。
もう海堂は絶対に自分を許してはくれない。姿を見るのも厭うことだろう。
自分は何度も何度も彼を傷つけたから、その報いを受けるのだ。
きっとこのまま、ゆるやかに、ゆるやかに、朽ちてゆく。

それでもさっき抱きしめた彼の温かみが残っているようで、乾はそれが消えるのを恐れるように、座ったまま自分の
肩を両腕でぎゅっと抱いた。
身体よりも先に、どんどん自分の心が弱ってゆくのを感じる。指先まで、冷えてゆく。

(…神様、俺にあの子を返してください)
心の中、力なくつぶやきながら、乾はゆっくりと目を閉じた。