もう初夏にほど近い、夕暮れ時だった。

テニス部の練習は今日もハードで身体はけだるかったが、吹いてくる風はひんやりとしていて
心地よい。
茜色に染まる道を、大きすぎるランドセルを背負った小学生が俺とすれ違って走っていった。
(おうちへ帰ろうって、子供が呼ばれる時間か)

俺は小さい頃から鍵っ子だったから、あまり親に帰宅を急かされた覚えがない。
両親は驚くべき無頓着さで、幼い俺に信用を置いていた。
放任と言えば聞こえはいいが、よくまあぐれもしないで、ここまですくすく育ってしまったものだ。

ちょっと自嘲気味の笑いが、俺の口元を掠めた。
どこか、苦い。
だがその笑いは、通りかかった公園をふと覗き込んだ瞬間に途切れてしまった。

「あれは…」
人のいなくなった夕暮れの公園。
昼間は主婦の歓談の場になるであろう、ベンチのある屋根つきの休憩場所に、見知った姿を
認めたからだ。
しゃがみこんだ制服のシャツの背中と、黒いくせのない髪だけで見分けられてしまった相手は、
テニス部の後輩だった。

たくさんいる新入部員の中で、ひときわ口数が少なく、一番熱心に練習する奴。
眼差しがひどくつよいせいか、ぶっきらぼうな態度のせいか、1年生も遠巻きにしていたが、
本人は特に気にした様子もなく淡々と懸命に練習に励んでいた。

強くなりたいって、口に出さなくても全身で言ってる気がした。
そのせいか奇妙に印象に残っている相手だった。


「海堂…?」
驚かさないつもりだったが、呼びかけた途端その背中はびくっと跳ねて、彼は警戒心も露わに
俺を振り向いた。

(あ、でも、きれいだな)
何を見て、自分がそう感じたのか、その時の俺にはよく分からなかった。
直感みたいに、そう思った。
それがシグナルだと気づかずに。

「い…ぬい、先輩…?」
見た目にそぐわない低めの声で俺の名をつぶやくと、海堂は腕の中の箱を庇うようにぎゅっと
抱え直した。
途端に弱々しい声が、にゃあ…と鳴いた。

「え……」
驚いて、2・3歩近づいた俺は目をまるくする。
彼が抱えた段ボールの中には、小さな本当に生まれたてみたいな子猫がうずくまっていた。

そして海堂は、日ごろの無口さを裏付けるように、何も言わない。
ただ母猫みたいに箱を抱き込んで、俺を睨んだまま動かない。
俺は海堂と子猫のミスマッチさに、やや呆然という風情になってしまった。
(えーと?捨てに来たわけじゃないよな?連れて帰りたい、のかな?)


「海堂が、見つけたの、そのこ?」
猫よりむしろ海堂を刺激しないようにと、俺は知らず子供に話しかけるような口調になっていた。
だが、それが却って良かったらしい。
海堂は肩の力を抜くと、「…そうっす。昨日夕方見つけて」とぼそっとつぶやいた。

「気になって、また見に来て、でも」
しゃべることが本当に苦手らしい。とぎれとぎれの言葉。
だけど懸命な様子だから、印象は悪くない。

「飼いたいの?」
俺の問いに、彼はとても困った顔をした。

傍らの道を車が走って行く音がする。
それ以外はもう人気もなくて、ひんやりしはじめた空気の中、暖かな茜色の夕陽が俺と海堂と
子猫を照らしていた。
懐かしいような空気。運命共同体みたいな、二人と一匹。

唐突に浮かんだその考えに、俺はなんとなしに楽しい気分になった。
そもそも俺は、本性を知らない奴らからは面倒見がいいと思われているようだが、実は自分の
興味のない事には絶対動かないタイプなのだ。
なのに今は、おかしいぐらい熱心に、この口数の少ない後輩の言葉を待っている。

「飼いたい…っすけど」
「うん」

いつの間にか俺は、中学2年にしては大きすぎる身体をよいしょと屈めて、海堂の傍にしゃがみ
こんでしまっていた。
彼と目の高さを揃えて、件の子猫を見つめる。

「俺んち、弟が動物の毛とかダメで」
「ああ、アレルギーなんだ」
「…っす」

海堂は指先で子猫をそっとくすぐるようにした。にゃあ、とまた甘えたような鳴き声がする。
「でもこいつ小っこいし、まだ自分で食い物とか取れないだろうから、放っとけなくて」
ふと見ると傍らには、プラスチックの容器とコンビニででも買ったのだろうか、牛乳のパックが
パックが置かれていた。

海堂がこの猫を助けたがってるのは一目瞭然で。
(海堂の方が、捨て猫みたいだな)
俺はどうにも苦笑を抑えきれない気分になっていた。

普通なら誰か飼い主を探すところなんだろうが、この不器用そうな後輩にそれができるとは
俺も思わなかった。
世の中、向き不向きというものがあるのだ。


「あのさ海堂。2・3日だけ、なんとか家に置いとけないか、このこ」
「え……?」

しゃがんでいても、俺の方が目線が高いから、海堂が少し見上げてくる。
瞬間、さらっと流れたくせのない髪と、夕陽に染まった頬に見とれた。
自分の中に湧き上がってきた気まぐれに、俺は珍しく身を任せたくなってしまう。

「俺が飼い主を探してあげるよ。クラスの奴とか、テニス部の奴らにも聞いたらきっと見つかる」
「ほんとっすか…」
「うん、本当」

海堂はすごくびっくりした顔をしていた。それはそうだろうと思う。
部の先輩後輩とはいえ、今まで練習中以外特に話したこともなかったし、まして海堂の無口さ
ではなおさらだ。
本来、自分のことは自分で解決するタイプだしな。

「なんで…」
「うん?」
「なんで、助けてくれるんすか?」

直球の問いを、これまたはっきりした視線で繰り出されたから、ちょっと焦った。
俺はデータ主義なので、裏返して言えば突発的なことには弱いのだ。
まして海堂のデータは、テニスならともかく個人的には極めて希薄で。
でも、仕方ないだろう。知りたいと思ってしまったのだから。

「んー何でだろうな。一生懸命だからかな、海堂が」
思いついたことを口にしてみると、案外自分の本心に近かった。
「テニスとおんなじ。俺は一生懸命やる奴は評価するし、手も貸すよ」

傍らには学生カバンと一緒に、お互いのラケットバッグも投げ出されてあった。
同じスポーツをやっているというのは、海堂には少し気を許す材料になるかもしれなかった。


だんだん薄闇があたりを侵食してくる時間。
海堂は俺の言葉に逡巡する様子を見せたあと、いったん猫の入った箱を地面に置いた。
それからぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます。お願いします、先輩」

ぶっきらぼうなぐらいの言葉だった。なのに俺の中にはじんわり暖かいものが広がった。
なんでだろう、嬉しかった。
その気持ちを誤魔化すように俺は笑って見せた。

「意外に礼儀正しいね、海堂は」
「…?助けてもらうんだから、あたりまえだ」
「うーん、あたりまえの事ができない人、結構多いよ。好感度アップだな」

妙に楽しそうに言う俺が理解できなかったのか、海堂は拗ねたような表情になった。
からかわれたと思ったのだろうか?
でもいつも仏頂面しか見たことなかったのに、海堂の表情が変わる。見たこともない顔をする。
それに自分が目を奪われていることに、俺はまだ気づいていなかった。



もう大分遅い時間になっていたので、俺はとりあえず海堂を連れて近くの大型書店へ行き、
そこの軒先を借りて猫の写真を撮った。
明るいところで見ると、猫はメスで、白地にベージュ色の模様があるなかなかの美人だった。

「これなら飼ってくれる奴、すぐに見つかるよ」
「だと、いいっすけど」

別れ際にまたぺこりと頭を下げた海堂の後姿を見送りながら、俺は「良い飼い主を見つけて
やろう」などと思っている自分に気づき、ちょっと気恥ずかしかった。
「俺らしくもない…」

他人のデータを取り、情報を分析して相手の弱点を探る、そんなやり方が身上の俺が。
なんで喋ったこともあまりない後輩相手に、親身になっているんだか。
テニス部の奴らが聞いたらどう思うだろうなと、でも俺はやっぱり楽しい気分で。
浮かんだ笑みは結局、その日俺の口元から消える事はなかったのだ。





翌朝、早速俺は行動を起こした。
朝練の時に海堂を捕まえて聞いてみると、親御さんは2・3日だけなら猫を置いてもいいと案外
あっさり許可してくれたらしい。
アレルギーというのは、同じ家の中にいるだけでもくることがあってやっかいだ。
だからどうなのだろうと危ぶんでいたのだが。

まあ、この時は俺もまだ知らなかったのだ。海堂家の広さや、海堂の自室の広さを。
あの部屋なら俺自身でも飼ってもらえそうだと、今なら分かるのだが。

ともかく、なるべく早く飼い主を見つける必要があった。
俺は休み時間を利用して、クラスの連中に猫の写真をばら撒いた。
見込みのありそうな奴がいたら教えてもらえるようにも頼んだ。
しかしこういうことは、バクゼンと探すよりは、やはり人気がある奴に頼むに限る。
昼休みに入ってすぐ、俺は買っておいた購買のパンを掴み、ふたつ隣のクラスへと向かった。


「あれー乾じゃん」
お昼の放送が流れ、人が好き勝手に座っている教室の真ん中で、目ざとく俺を見つけた英二
が声をあげた。
周囲には、一緒に昼飯を食べたそうな女子が何人もちらちらと様子を伺っている。
しかしその視線をものともせずに、英二の横では不二が見てくれだけはおっとりとした様子で
サンドイッチを食っていた。

こいつらは二年のテニス部員の中でもとりわけ人気のある二人組だが、見た目のファンシーさ
を大きく裏切って性格は食えないことはなはだしい。
しかし、今の俺には必要な人材だった。


とりあえず椅子をひっぱってきて座り、昼飯を広げようとした俺に向かって不二が、「…で、猫
飼ってくれる人見つかったの」といきなり聞いた。

まあ休み時間に色々活動してたから伝わっていても不思議じゃないが、何となくうすら寒い
気分で、「なんで知ってるんだ…」と尋ねる。
「まあ、いろいろとね」としゃらっと言われたが、そのいろいろが怖い。その笑い方も。

「え、乾、猫の飼い主探してんの!?俺、飼いたい!うわ、かっわいいじゃんか!!」
俺が不二に気を取られている隙に、英二が俺の手から猫の写真をひったくった。
こういう反応はある程度予測していたので、俺はきっぱりと却下する。
「ダメ。まあ、英二でも可愛がってくれるとは思うが、今回はできれば女の子がいい。この猫を
すごく大事にしてくれそうな、優しい子」

「なんだよ、そのえり好みはあ〜」
意外と本気で欲しかったのか、ぶーたれた声を出すと、英二は俺のメロンパンを半分ほども
ちぎり取ってくれた。
いつもなら奪い返すところだが、今はそんなささいなことに構っていられない。
「俺は代理人だからね。できる範囲で一番良い飼い主を見つけてやりたいんだ」

残りのメロンパンを自作のドリンクで悠々と流し込む俺を見て、一瞬イヤそうな顔をした英二
だったが、意趣返しなのか急にキラキラした目つきになった。
「乾にそこまでさせるなんてさー、どこの美人なんだよ、それ頼んだの。上級生?」

どこの美人、ねえ。
ふと夕陽に染まった海堂の顔が、俺の脳裏にプレイバックした。
(飼い主見つかったら、一回ぐらいうれしそうな顔、するかな?)


「…まあ、無口だけどきれいな子だよ。ね、乾?」
そこに狙いすましたように不二の爆弾発言が投下された。
何を言われたのか把握した瞬間、俺はげほっと思いきりむせかる。

「ちょ…いぬい〜!?」
英二が慌てて俺の背中をトントン叩いてくれたが、俺は咳き込みすぎてもはや涙目だった。
なんで拾ったのが海堂だって知ってるんだ、こいつは!?

「不二…おま…どこまで知って……」
「何をどこまで知ってるかなんて、僕が言うわけないと思わない?」

ああ、そうだ。おまえはそういう奴だよな。いろんな意味で怖い。
ものすごく怖い。
このままでは、自分の胸の内にあるものを、暴かれそうで。
(……なにを?)


ふっと心をよぎった声を振り切るように、俺は慌てて立ち上がった。
「とにかく頼む。二人とも心当たりを聞いてみてくれ」
「えっ、もう行くんだ、乾」
「他も当たらないとね」
「ほえーほんとに熱心だにゃ〜」

座ったまま妙に満足そうな顔でひらひらと手を振った不二は、澄んだ茶色の瞳でじっと俺を
見据えてきた。

「……うん。今は僕の方が、乾の分かってないことも知ってるのかもね」
きれいな声が紡ぐ、予言みたいな言葉。
そういやこいつの姉さんが占いをやるとか聞いたことがあったっけ。

(やばい。なんだか分からないが、やばすぎる)
変に焦った気分で、それには何も応えずに俺は席を立ち教室を出て行った。
その後の二人の会話など、知るよしもなく。

「なんか、乾ヘン〜」
「…うん、そうだね。かなり重症かも」
不二の、楽しげな含み笑いも。





放課後になる頃には、早くも飼い主候補は4人ほど集まっていた。
だが俺は、眉間にしわを寄せて唸ってばかりいた。
「うーん……」

何かこう、こいつにやろうという決め手に欠けていたのだ。
いや、誰でも可愛がってくれるのだろうが。
えり好みしてると言うなら言え。
俺の理想の飼い主には、いま一歩、いや二歩ぐらい遠かった。


立候補している4人の家族構成や、家は一戸建てかマンションかなど、データを書き込んだ
メモをめくりぶつぶつ言いながら歩く俺を、部活へ散ろうとしている連中が避けて通ってゆく。
遠巻きにしてると言うのかもしれんが。

「乾!」
「…この家まだ弟が小さいな。猫がもみくちゃにされる確率87%…」
「乾!!」

いきなり肩を掴まれ、強い力で後ろに引き戻された。
危うくひっくり返りそうになったが、今度はそれも支えられる。
足元を見て、さすがに血の気がひいた。階段から転げ落ちそうになっていたのだ。
「す…すまん、助かった。……ああ、高梨だったのか」

命の恩人は、男前と呼ぶには癖のありすぎる笑顔で立っていた。
高梨祥吾。二年の中では、こいつも有名人だ。
成績もいいし、スポーツも何でもこなすのだが、齢14歳にして将来は新聞記者になると豪語
している変り種。
報道部の次期部長になるのは確実だろう。

不二とはまた違った意味で、他人の中身を見透かすような眼をしている。
デジカメも必ずどこかに隠し持っているので、油断ならない相手だったりするのだが。


ご丁寧に俺の周囲に散らかったメモを拾い集めると、奴は楽しげに口笛を吹いた。
「乾が猫の飼い主探して走り回ってるって、本当だったんだな」
「まあな」

勘ぐられたくなくて、ことさら何でもないようにに言う俺を見て、高梨の人の悪そうな笑みがより
深くなった。
「すげーえり好みしてるって聞いたけど」
「誰に?」
「不二に」

途端に自分の人選がスタート地点から誤りだった気がしてきた。
大石とかタカさんとか、地道で人望厚い奴に頼むべきだったか。だが急いでるからな。

「青学タイムズに載せてくれる気か?ありがたいが、今回急いで引き取り手を探してるんでね」
「ちがうちがう、俺も立候補しに来たんだよ」
「おまえが?」

意外な事の成り行きに、俺は眼鏡を掛け直すフリをしながら改めて相手を観察する。
どうも冗談ではなさそうだ。
話を聞くべく、人通りの多い階段脇から少しだけ移動した。


「正確には俺の妹だ。うちの一年の。あいつ前から猫飼いたがってたんで、優しいお兄ちゃんが
調達してやろうかと思ってな」
どうやら不二が根回ししてくれたらしいと、遅まきながら俺は気がついた。
さっき人選ミスだと思ったことも棚に上げ、さすが不二は仕事が速いと感心する。
しかも俺のあげた条件にも、マッチしそうだ。

「おまえの家、一戸建てか?」
「ああ」
「兄弟は?」
「俺と妹だけだ。チビはいないぞ」
「妹の性格と所属部を聞かせてくれ」
「おとなしめかな。おっとりしてる。園芸部所属だ」

おまけにこいつの妹なら間違いなく美人だろうと独りごちて、俺はあっさり決断した。
「よし決定だ。おまえの妹に進呈しよう。なんなら感謝の意を込めて、乾汁一年分も付けて
やってもいい」
「要らんわ」


妙にうわずった声で断る高梨を尻目に、俺は猫の写真を取り出し、奴に押し付けた。
写真をちらっと見た高梨が、「へえ、良く撮れてるじゃないか」とつぶやく。
「ああ、かわいいだろ」
「この子が拾い主ってわけか。テニス部の後輩なんだろ?」
「……!?」

3秒間をおいて、自分の一世一代の不覚に俺は気がついた。
高梨に渡した写真は、昨日試し撮りだと言って子猫を抱いた海堂を写したものだったのだ。

両手に乗せた小さな猫を覗き込んでいる海堂の口元は、ほんの少しだけ緩んでいて。
(もうちょっとだけ、笑ってくれたらいいのに)
そう思うような表情だった。なのにそれを関係ない奴に見られるなんて。


気がつくと俺は、眼鏡がずり落ちるような勢いで写真を奪い返していた。
我に返ってみれば、ぽかーんとした表情の高梨の視線がイタイ。
「ま…まちがえた。こっちだ、こっち」
この状況で、取り繕ってやり過ごせる相手かと自分をののしりながら、俺は猫オンリーの写真を
今度こそ押し付ける。

「野良猫にしては美人だったぞ。ちなみにメスだ」
「おう…」
呆然と返事を返した高梨は、突然発作みたいにくっくっくっと笑いだした。
ついには身体を折って爆笑している奴の頭を、俺は殴ってやりたい衝動にかられる。

「い…乾、おまえ、分かりやすすぎ…」
「なにが」
憮然とした顔で返事をする俺を見て、「…え」と奴は急に笑いをひっこめた。
俺より頭半分低い位置からまともに眼をのぞきこんでくる。探るように、測るように。

「……ごまかしてるってワケでもないのか…」
「だから、なにが」
こんな眼をしてる奴に一日に何度も擬視されては、身が持たない。
まあ分厚すぎる眼鏡のレンズのせいで、俺の表情もそうそう読めるとは思えなかったが。


「ま、いいか。時間の問題って気もするしな」
唐突に放り出すような口調で、高梨は言った。
またも不可思議な予言の言葉。俺はわけが分からず首を傾げる。

何かが、起こっているのだと。俺に注意を喚起する友人たちの言葉に。
その時、俺は気づかないふりをしていたのか。気づかずにいたのか。

ともかく夕方落ち合って猫を渡す約束を取り付けると、高梨は妹も連れて来ると請け合った。
なにはともあれ、こうして俺は海堂との約束を一日で履行することになったのだ。





日が傾いてきた。もう夕暮れだ。
約束の時間に合わせるため、あまり意味もなく部室で粘っていた俺は、結局誰よりも早く昨日
の公園に着いてしまった。
一人ベンチに座り、データノートなど開いてみる。
実際は、頭はあまり働いていなかったが。


「…乾先輩」
もう耳に馴染んでしまったひくい声。
呼ばれて、ゆっくり顔を上げた俺は 「やあ、海堂早かったね」と彼に笑いかけた。
それから彼が抱えているものを見て、もっと笑みを深くする。
「かわいいのに入れてるね。どうしたの、これ」

昨日の子猫は、籐のバスケットの中に収まっていた。
中にはふかふかのタオルが敷いてあって、籠自体にもリボンがあしらってある。

海堂は自分が持つにはファンシーすぎるそれに、苦りきったように目をやった。
「うちの母親が、女の子が貰ってくれるのなら可愛くしなきゃね、とか言って…」
どうやら猫自身も洗ってもらった様子で、元々白かった地毛が見事に真っ白になっていた。

「イイね、海堂のお母さん…」  
きっと息子の困惑をよそに、楽しそうに飾り付けたのだろう。
その情景を想像すると可愛くて、ああ彼は大事にされて育った人なんだなと思う。


無言で海堂は隣にすとんと座った。音をたてない感じがやはり動物っぽいなと思った。
昨日とは見違えるぐらいに、警戒心が薄れてるのが分かる。

俺は…彼にとって少しは気を許せる人間になれたんだろうか。
たった一日しかたっていないのに、過ぎた希みが胸を灼く。
明日になれば彼は、また元の無口な後輩に戻ってしまうかもしれないのに。


「そういえば、高梨の妹って海堂と同じクラスなんだって?すごい偶然だね」
「ああ、そうなんすよ…」
いざとなると別れがたくなったのか、指先で猫を撫で、猫も嬉しそうに鼻先をすり寄せた。
自分を助けてくれた人だと、こんな小さな生き物にも分かるのだろうか。

「どんな子?」
聞いてしまってから、海堂にはちょっと難しい質問だったかなと思う。
クラスの男子でもどうかと思うのに、女子では喋ったこともないだろうし。

「いや…喋ったことないんすけど…でも」
「でも?」

俺はわざと膝の上のデータノートにボールペンを走らせ、何かのついでのように先を促す。
もっと話してほしかった。
海堂は右手だけで機械的に猫を撫で、視線は夕陽の方に向いている。
「よく教室の花に水やったり、新しい花持ってきたりしてる…きっとこいつに優しくしてくれると
思う」

その彼の言葉に、俺は分厚い眼鏡のレンズの下で目をみはった。
それは、決して上手な話し方ではなかったけれど。

でも海堂は、他人に興味がないわけじゃないんだ。
他人のささやかな優しさを、ちゃんと見て心に留めている。
それはきっと彼が、口数が少なくても人に優しくできる人だからなんだろう。

俺と全然違ってる。
うわべだけ面倒見がいいと思われてるくせに、人をデータの対象としてしか見ない俺とは。
きみは手を貸してくれた俺を、優しいと勘違いしてしまっているだろうに。

急に心に何かが染みたみたいに泣きたくなった。恥ずかしいような気持ちで。
自分の中にこんな感情があるなんて、考えたこともなかったのに。
(俺は……)



「乾…と、それから海堂くん?」
特徴のある声が俺達を呼び、静寂が破られた。
逆光で見えにくいが高梨がひらひらと手を振り、後ろには青学の制服姿の女の子がいる。

「二人とも早かったんだな、待たせたか」
「いや、そうでもない」
立ち上がった海堂が、無言で高梨にぺこりと頭を下げた。
「こいつ飼ってもらえるって…ありがとうございます」
「んーいやいや、世話すんのは美也だし?」

高梨にせっつかれて進み出た妹は、予想以上に美人だがおとなしそうな子だった。
海堂はちょっと猫を覗き込むと、意を決したようにバスケットを彼女に手渡した。
「…こいつ、頼むな」
そっけない言葉に籠もる海堂の思いを感じたのか、彼女は大事そうに受け取った。
「うん。きっと可愛がる。海堂くんの分も大事にするから」と、ほんのり笑う。

高梨はやけに満足げに、うれしそうな妹を見ていた。
たいがい食えないこの男にも、弱点というか甘い相手はいるんだな。


「名前付けないとな、美也」
「うん」

ふと思いついたように、高梨は海堂を見た。
「ちなみに海堂くん、名前はなんて言うの」
「え…」
「いや、拾い主の名前付けんのって何かいいじゃん」

困ったように黙りこんでしまった海堂を見て、俺は苦笑しながら代わりに答える。
「……薫」
弾かれたように、海堂が顔を上げて俺を見た。
「薫っていうんだよね?」
「かいどうかおる?おお、キレイな名前じゃないの。女の子でもイケるしな。決定、決定!」

困惑しきった海堂の背中をバンバン叩くと、高梨はマイペースな調子で猫にカオル〜と呼び
かけた。
俺の胸のうちに、ムカつくのとしまったという思いが今さらこみ上げてくる。
しかし、言ってしまったものは取り返しがつかない。


「んじゃ帰るか、美也。カオルきっと腹空かせてんぞ」
「うん、お兄ちゃん」
「ありがとな、高梨」
「そりゃこっちの台詞。俺も可愛がるよ、こいつ」

最後に海堂に安心させるようにそう告げてから、高梨兄妹は去って行った。
公園の入口のところで妹の方がぺこんと頭を下げたのが見えた。




残された俺と海堂は、急にぽっかり穴が開いたような空虚な気持ちになった。
さっきまで俺達二人が一緒にいる理由になっていた、あの子猫が貰われて行ってしまったから
だろうか。
それでも海堂は意を決したように俺を見ると、「あの、乾先輩」と呼びかけてきた。

もう180センチに届こうとしてる俺に比べ、海堂は160ちょっとぐらいだろうか。
「うん…?」
でも手足が長いから、きみはきっと背が伸びるだろうな。
練習だってものすごくするから、きっとそのうちレギュラーにもなる。
あのジャージ、きっと海堂に似合うだろう。

そんなことを、その時俺はとりとめもなく考えていた。
まるでもう会えなくなる人を必死で諦めようとするみたいに。

(今なら、見なかったふりができるかもしれない)
(なにもなかったことに、できるかもしれない)


だがそんな姑息な俺の思いを振り払うかのように、彼は懸命な口調で言った。
「あの、俺うれしかったっす。分かってもらえるかわかんねぇけど…」
「海堂…」
「先輩には何の関係もねえのに、助けてもらえると思わなかった。俺、喋るの苦手だから、感じ
悪いって思われてても仕方ねぇし」

いつのまにか公園内には、明るくはないけれど照明が灯っていた。
薄闇と夕焼けの名残りが錯綜する時間。
彼が不器用なりに俺に感謝を伝えたがっているのが、とてもいじらしく思えた。

「俺、海堂のこと、そんな風に思ったことないよ?」
見えにくい彼の表情から、ほんの僅かなものでも読み取りたくて、俺は真摯な声で告げる。
「海堂には、話したいことも伝えたいことも、ちゃんとあるだろう?」

口に出さなくても。きみの中には優しい気持ちが詰まっていた。
それを俺は、たった一日の間に知った。
そりゃもっと喋ってくれたらとは思うけど、無理して変える必要なんかないんだ。


ほんの2・3秒、彼は黙って俺を見上げていた。
言われた意味を考えて、咀嚼してるみたいに見えた。それから。

「…そうっすね」
ふいに瞳と、口元がゆっくりと緩み。
思いがけないような笑顔が、浮かんだ。

それは。
この先、どんなに時間が経っても、俺が決して忘れることのないようなものだった。

(もう、だめだ)
俺は奥歯を噛みしめるようにして、内側に溢れた感情にかろうじて耐えた。
自覚してみれば本当に単純な事で、自分がその答の前で右往左往していただけだと知る。
でも知ってしまえば、もう誤魔化せない。



「遅くまですんませんした」
「うん、気をつけてな」
公園の入口の所で、彼と別れ別れになる。

時間にすればたった一日のことなのに、何もかもが変わってしまった気がした。
上手く言葉が出て来ないまま、俺は平凡な挨拶を海堂と交わした。

俺という人間は、理路整然とした思考があってこそ成立しているというのに。
今の状況はといえば、お話にならないような乱れっぷりだった。

少し考える時間が必要だ。
頭を冷やして、問題を整理して、対策をたてて。
彼の背中をぼんやり見ながら、自分を立て直すべく俺がそう考えたまさにその瞬間、海堂が
ぱっと振り向いた。

「先輩、また明日」
照れくさかったのか俺の返事を待たず、言い逃げみたいに、彼はだーっと走り去ってゆく。


多分、それが決定打だった。
後には暗くて人に見えないのが幸いなぐらい赤面した俺がとり残された。
顔半分、手で覆って。頭の中はごちゃごちゃで。
だけど信じられないような幸福感に足元がフラつく。もう、戻れない。


本当に今さらだろうと自分にツッコミたくなるような、間の抜けたタイミングで。
(好きなんだ、きみが)

恋をしている自分に、俺はやっと気がついた。