Scene3.



                     鳥居をくぐったと同時に、乾は目線だけで海堂の姿を探していた。


自分も彼も、待ち合わせの場所にはいつも必要以上に早く来てしまう。

だが今日は自分が一番乗りだったらしい。
ちょっと得意げな笑みが口元に浮かぶ。できれば今日は先に着いて彼を待ちたかった。



…7月に日付を進めた最初の日、早朝6時半。

ぽつりぽつりと雨粒が落ちはじめているこの天気では、どこか屋根のある場所で待ち
合わせた方がよかったようにも思えたが。
昨夜、海堂が指定してきたのは、今年の正月に二人で初詣に来た神社だった。



神域を囲む 『鎮守の杜』 と呼ばれる木々を見上げた乾はすっきりした黒いTシャツ姿で、
手には傘を一本持っているだけだ。
姿は見えていないのに鳥の鳴く声が、チチ、チチと絶え間なく聞こえていた。


墓参りに同行する母親に聞くと、8時半ぐらいに家を出たいと言っていたが、女性の
支度というのは男には理解不能なほど時間がかかる。

(まあ9時に出られたら上出来ってとこだろうな)


服も一度帰宅して着替えるつもりだったので、雨に濡れても全然構わない格好で来た。
それでも傘だけは忘れなかったのは、海堂が雨に当たるのが嫌だったからだ。


今日のこの天気だと、彼が傘をさして来ない確率は75%と乾はふんでいた。

肩や身体を冷やしたらダメだよと乾は口煩く言うのだが、それが海堂にはかなり過保護
と感じられるらしい。

だがまあ、彼を大事にするのはもはや乾の趣味でもあった。
こういう場合は、自分の方が気をつけていれば万事OKなのだと知っている。




ポツポツと降ってくる雨粒を仰ぎ見て、乾は傘をさすよりも 注連縄をはった立派な木の
下に入る方を選んだ。
きっと御神木と呼ばれるものなのだろう。
不思議なものでその周りは、空気までが清々と澄み渡っているように感じられた。

頭上で重なった枝葉がさやさやと音をたて、たまにその隙間から雨がこぼれおちる。


(……ああ、なんだか気持ちがいいな)

胸の奥深くまで澄んだ空気を吸い込みながら、乾は思った。
いつも心にひっかかってばかりいたこの日を、素直な気持ちで迎えられた。
それは彼が、乾のことを案じていると態度で示してくれたからだ。



未だに電話が嫌いなままの海堂は、携帯を持っていてもメールがいいところで、通話に
活用することはあまりない。
以前 『俺が相手でもダメなの?』 と聞いたら、困ったように眉を寄せていた。
『あんまり…アンタの顔が見えてないと、やっぱしゃべりにくいっす…』



そんな彼が、昨夜は珍しく電話をよこしてくれた。
それだけでも有頂天になるような出来事だったのに、海堂は墓参りに何時に出かける
のかと乾に尋いてきた。

予定の時刻を言うと 『その前に、ちょっとだけ会えないっすか…顔みたい』 とおずおずと
告げられる。


……ああ、きっと。
ずっと気にしていてくれたんだな、と乾にはすぐに分かった。

自分が怖がってないか、悲しんでいないか、それをこの不器用なひとは案じてくれている。



恋をして。
自分は考えていたよりずっと脆い人間なのだと思い知ってきた。
彼を傷つけ、自分も傷つくことで。
彼に護られ、深く慈しまれることで。


だがもう今は、迷っていてもそれを隠すつもりはなかった。
あの子はとても敏感だ。本当ではない乾の笑顔などすぐに見破ってしまう。

(だから、俺は)

海堂が来てくれたら、“嬉しいよ”と伝わるような顔で笑いかけよう、と思った。
あの子の心配がちゃんと消えるように。報いることができるように。

ありがとう、大丈夫だよと、そう言おう。




ぱたぱたと聞こえる雨の音とうらはらに、乾の上にはあまり雫は落ちてこなかった。
何かに護られているような気さえする。
眼鏡の奥で柔らかく目を細め、初夏の色濃い木の枝葉を見上げていた、そのとき。


「……乾先輩!」
待ち人の声がした。少し急いたような、どこかはずんだような、彼の声。


鳥居の方へ目線を移し、とびきり優しい表情で彼を迎えようとした乾は、だがそこで
ぴたりと全ての動きを止めた。

目をみはる。

頭の中は真っ白で
1秒ごとに近づく海堂をただ見つめる他に、本当に何もできなかった。


走ってくる。
降りだした雨など気にも留めずに。 傘も持たずに。

Tシャツに柔らかそうなグレーのパーカーを羽織っただけの軽装の彼は。

黒髪をしっとりと雨に濡らし。
長い両腕には、今にも零れ落ちてしまいそうなほどたくさんの花を抱えていた。


………季節外れの、美しい美しい青紫の花。





「待たせたっすね。すんません、先輩」

大きな木の下に立つ乾の目の前まで駆け寄った海堂は、息をきらしながらそう言うと
不自由そうに頭を下げた。
何せ、両腕がいっぱいなのだ。普通に走ることすら困難だった。


だがそんな自分の言葉に、何ひとつ乾は返してこない。


いぶかしんで背の高い相手を見上げれば、彼は何かポカンとした表情でこちらを見ていた。
こういう時の乾のクセだが、口が半開きになっている。
これは一度注意した方がいいのだろうかと、海堂は場違いなことを真剣な顔で考えた。


「かいどう…」
「なんすか、ヘンな顔して」
「ヘンな顔って…俺、どんな顔してる、今?」
「なんつーか、活動停止、みたいな感じっすけど」
「だって、どんな顔したらいいのか、分からないんだ」

……笑えばいいのか、泣けばいいのか。



聞きたいことならば山のようにあった。
どうして?どうしたの、それ。家には紫陽花咲いてないって言っていた。
花は小分けにして根元が新聞でくるまれているから、買ったものではないはずだ。
こんなにたくさん。どうやって手にいれたの。誰にもらったの。

(俺に?俺にくれるの、それ)


じわり、と心が一番先に滲んだ。声にならない。

大木の下で向きあう乾と海堂の上に、ぱたぱたと雨の雫が落ちてくる。


乾は、恋人の頬の上を雨粒が伝うのに見蕩れた。
腕いっぱいの青紫の花と、それを抱えた海堂のはっきりとした意思のこもった目。


こんなに美しいものを、一生のうちに見ることは もうないかもしれない。
そう思わされる、光景だった。
食い入るような眼差しで、ただ彼という存在を見つめた。


「…きれいだな」


なんとか搾り出した言葉はひどくありふれていて。
なのに、そこに在る感情に触発されたかのように、海堂は微かな笑みをひらめかせた。
乾だからこそ見て取れる ささやかなそれに、つよく胸を揺さぶられる。

(ああ、どうしてこの子は、こんなことが出来るんだ…)


「先輩…」
「黙って…今だけ 俺の好きにさせて、海堂」


乾の大きな手がするりと海堂の頬を撫でた。それの冷たさにびくりとする。
だが自分たちの体温の差をよく知る海堂には、それが悪いことではないと分かっていた。

ひどく掠れた声には、熱がこもる。
常に冷静で平坦に見せかけていた乾の中に、海堂が最後に見つけ出したもの。

乾も同じ熱を自分から感じているだろうか、と思う。



夢見るような面持ちで、乾はゆっくりと海堂の体に腕を回した。
だが、抱き寄せることはしなかった。
恋人も、恋人が抱える花もつぶしてはいけない。

そっとくるみ込むように閉じられた腕の輪は、ただ慈しみに溢れていた。

自分だけ少し屈みこみ、海堂の髪に頬を寄せる。
ご機嫌をを損ねたような曇り空の下で、乾の表情は泣き笑いのようにゆがんだ。


視界が、ぼやける。
だが彼は、揺るがない。目を開けて、自分に起こる全てを見ている。


何から言えばいいか分からず、だが、何か言わねばならないというのなら。

(俺はさ、海堂……)


このひとに、死ぬほど恋をしていた。








緩くて甘い抱擁を解いたのは、単純に雨足が強まったせいだった。

それまでぱたぱたと聞こえていた音が激しさを増したのに気づき、乾は海堂の肩を
抱くと拝殿へと走った。

「軒先をお借りします」
そう言って軽く頭を下げれば、隣で海堂もペコリと同じ仕草をする。


浅い段を四つ上ると、賽銭箱の前を通って建物の正面ではなく横手に回った。
こういう所に座るのはあまり良くないのだろうが、突発事態なのでカンベンしてもらう
ことにして、段にぺたりと腰をおろす。

乾は傘を、海堂は二人の間にそっと紫陽花の花を置いた。




何から話せばいいかと困り顔の海堂を見て、乾は笑い、彼に質問をし始めた。

彼がもっとずっと無口だった頃から、こういう事には乾はひどく我慢づよかった。

この花を誰に譲ってもらったのか、その人とはどういう知り合いなのかなどと聞かれ、
海堂もぽつりぽつりと言葉にしてゆく。



「海堂の家の近所?ああ、裏側か…俺、一度通ったことあるよ。庭つきの、趣のある家
っていうか、そういうの多いな」

「俺もあんま使ってない道だったんすけど…ちょうど通りかかったらあの人が、部屋の
電球替えようとしてて、危なっかしくて」

「それで親しくなったのか。海堂らしいというか…」



…その人のことを “戸田さん” と最初呼んだ。だがやがて “園子さん” と言い直した。

どうやらかなり年配のご婦人のようだ。
小さな声で海堂は、「きれいな人っす、すごく」とぼそりとつけ足す。


自分の丹精した花を、こうして惜しげもなく切って知り合いの少年に与えたその人へと
乾は思いを馳せた。


他人に優しくできる人はそれを大げさには考えない。
ただ、与えるだけだ。
返してもらうことなど、思いつきもしない。

海堂もそうだ。

彼の性格から言って、人に何かを頼みに行くというのはハードルが高かったはずだ。
だがそんなことは口にしない。
言わずにただこの美しい花を乾へと差し出す。



「よほど海堂のことが気に入ってるんだな、その人は」
「そっすか…?」
「だって大事に育てた花、好きでもない相手にこんなにたくさんくれないよ」
「先輩に、くれたんだろ、これは」
「海堂が一生懸命頼んでくれたからね。どうしてこれが欲しいのか、説明するの大変
だっただろう?」


まるで見てきたようにそんな事を言う乾に、海堂はうっと言葉に詰まった。
お見通し、といった顔で、こっちを見て笑っている。
気恥ずかしくて思わず視線を逸らすと、テニスシューズの爪先にまでかかる雨が目に
入った。
伸ばしていた足を、少しだけ引っ込める。



「…たくさん渡しておあげなさい、って言われた」
「 “園子さん” に?」
「ちゃんと埋め合わせがつくようにって」
「そう…そっか…」


「俺は、これで何かが変わるのかどうか分かんねぇけど、先輩」
「……うん」
「一度ぐらい墓に供えてやりたいってアンタが言ったから」



そんだけだ、持って行けよ、と彼が言う。
ひどくぶっきらぼうに、まるで怒っているみたいな横顔で。
何でもないことのように、乾にたくさんのものを受け取らせようとする。


その、心。


たくさんの木々が雨で潤ってゆくのを見つめながら、乾は無言で彼の手をとった。
夏の始まりの雨。
自分たちの間に置かれた紫陽花の上で、大切な人の温もりがじわりと伝わる。

(忘れずに持って行こう、全部)

今こんなにも自分を大事にしてくれる人の心も、一緒に連れてゆく。




ありがとう、海堂、とつぶやけば、コクリと小さく頷いた。
こんなささやかな感謝の言葉にすら とても困った顔をする彼は、揉みくちゃにしたく
なるほど愛しくて、かなわないなと乾は思う。


「…俺は俺を幸せにできないけど」
「先輩?」
「海堂には、俺を幸せにする才能があるんだな」


真面目な顔と声で急にそんなことを言った乾に、胸のつまる思いがした。
何言ってんだ、アンタ、と軽くあしらえそうになかった。

ただ本当にそう思ったから出た言葉だと、それぐらいは分かっていたからだ。



緩く握り込まれたままの右手。
そこから伝わるものと、自分の伝えたいもの。
同じ好きだという気持ちが重なり、それだけが、自分たちを駆りたてる。


行動させる。


「悪くねえな、それ…」

繋いだ手を軽く揺らすと、花を包んだ紙がかさりと音をたてた。
雨の音と混じってそれは、不思議と楽しげに二人の耳に響き、やがて消えてゆく。



とても静かで、いつまでもこうしていたいと思うような瞬間だった。

神様の住む社の下、二人はそんな時間を、しばし分かち合うことが許された。










降りしきる雨の中、乾は海堂を連れて近くのコンビニへ行くと、傘を買ってくれた。


まだ朝も早いせいか、客はまばらで。
だが、背の高い乾が腕いっぱいに紫陽花を抱えて入ってくると、客も店員も一様に
ぎょっとした顔で振り返る。

それをまったく何とも思わない様子で、乾は悠々と透明のビニール傘を購入した。


ビニール袋も一緒に手渡されたから何かと思えば、中には海堂の好きなアロエ
ヨーグルトが入っている。


「すんません、先輩…」
「傘、こんなのでごめんな」
「こんなのって、何が悪いんすか これの」
「俺、海堂に安っぽい物持たせるの嫌いなんだよ」
「意味分かんねぇ…家まで5分じゃねえか…」



乾のマニアックなこだわりに軽く眩暈を覚えながら、海堂は透明な傘を開いた。

確かにチープな物かもしれないが。
普段黒や紺の傘を持っているから、降りかかる雨が透けて見えるのが珍しい。

子供のように傘をくるりと回せば、それを見た乾がおかしそうな笑い顔になった。
『気に入った?』 と表情だけで尋いてくる。




そのまま歩いているうちに、幾らもたたずに交差点にたどり着いてしまった。
今日はここでお別れだ。
海堂は横断歩道を渡ってまっすぐ、乾は右に曲がる。


人気のない道路では、ただ雨の音ばかりが耳についた。

何故か名残惜しい気持ちになり、立ち止まって乾を見上げた瞬間、二人の横をやや
乱暴な運転の車が走り抜けていった。



「……海堂」
「なんすか?」
「その…今日は室内トレーニングだろうけど、ムチャしないようにな」


「っす。アンタも、墓の前で泣くんじゃねーぞ」
「うっ…俺、ちょっと自信ないんだけど、それ」


「…笑ってた方がいいに決まってる」
「海堂?」
「ごめんて言うより、ありがとうって言う方がいいに決まってんだろ」



乾の口元がゆっくりと綻んだ。
彼の上にたまに現れる臆病さは、きれいに拭われていて。
ちゃんといいカオになったな、と海堂は思う。

きっと大丈夫だ、 この人は。 ここからはもう悲しまないですむのだろう。





じゃあ、と簡潔に告げると、海堂は水たまりを上手に避けながら横断歩道を渡った。
来るときには持っていなかった傘とヨーグルトの入った袋も一緒だ。


向こう側に着いたと思った瞬間、「海堂!」と、乾が大きな声で呼びかけるのが聞こえた。
めったに大声を出さない彼に驚き、反射的に振り返る。


「海堂!明日、この花をくれた人の所へ連れていって!!」



信号が変わり、車が数台二人の間を走り抜けた。
傘から落ちる雫と、降りしきる雨にさえぎられ、それでも乾がたくさんの紫陽花を抱いて
いる姿がはっきりと見えた。


大きく頷く。


(明日、晴れるといいけどな)


空に願いをかけながら。
約束を、心で繰り返しながら。


透明の傘をさした海堂は、もう迷うこともなく、そのまま家の方へと走り去っていった。