Scene2.



                     夕方のランニングを終え帰宅した海堂は、自室でぼんやり考え事にふけっていた。

いや、実際には今考え始めたことではない。
ここのところずっと、心の中を占めていた物思いだった。

(もう明日だな。7月1日…)

乾が亡くなった祖母の墓参りに行くと言っていた日は、あっという間に迫っていた。



自分にしてやれることはないかと考え続けるうちに、思いついたことがひとつだけ
あるにはあった。
だが、それを実行に移すことを、海堂は未だにためらっていた。

不言実行の人、海堂薫には似つかわしくもなかったが。


自分自身が何かするのではなく、人に頼みごとをしなければならない。
それがどうにも躊躇してしまう理由であった。

以前に比べればマシになったと思うが、あまり愛想がよくない自覚は充分にある。
上手く事情を話せるだろうかとか、どう思われるのだろうと、ひどく思い煩ってしまって
いたのだ。



だがこうしている間にも、どんどん時間はたってゆく。
もう1時間もすれば夕飯時だ。
人を訪ねるには失礼な時間になってしまうだろう。

(行かなかったら、俺はきっと後悔する…)


あの日 乾は、『聞いてくれて嬉しかった』 と言って笑ってくれた。
海堂は具体的になにもしてやれなかったのに、だ。

まるで悲しみが取り払われたようなあの笑顔を見て、それを本当にしてやれたらと
願ってしまった。


いや、本当はそんな大それたことを望んではいない。
ただ少し、
もう少しだけ楽な気持ちで乾が墓前に立てたなら、とそう思ったのだ。


(きっとあの人は…仕方がないって思ってる。どうしようもない事だって。だけど)


決意の浮かんだ眼差しで窓の外を見やり、海堂はくしゃっと自分の前髪をかき上げた。
くせのない黒い髪は、指の間をさらさらとこぼれてゆく。
それから半袖のTシャツの上に柔らかい素材のパーカーを無造作にはおると、他には
何も持たずに部屋を出た。




キッチンから母が夕飯の支度をしている物音といい匂いがしていた。
気づかれないようにこっそり家を出るつもりだったが、玄関で靴を履こうとしていた時に
目ざとい弟に声をかけられてしまった。

「あれ、兄さん、どうしたんですか?もうすぐご飯ですよ」
「…葉末」
「何か急ぎの買い物ですか?それとも学校に忘れ物?」
「いや…」

コンビニにでも行くと言って誤魔化そうかと一瞬考えた。
だが海堂は、心の中ですぐにそれを却下する。
この弟に偽りを言って良い結果になったことなど一度もなかった。
乾に 『海堂薫の守護天使』 と呼ばれている葉末を、あなどるべきではないと思い直す。



「葉末、戸田さんのおばあさん覚えてるか。あの人にちょっと用があるんだ」

兄の言葉にきょとんとした葉末は、戸田さん戸田さん…と口の中で何度か呟いてから、
ポンと手を叩いた。

「ああなんだ、園子さんのことですか。勿論覚えてます。兄さんとお家の前を通った時
お茶をご馳走してくださったじゃないですか」

おきれいな方ですよね、とませた事を言うのも忘れない弟に苦笑しながら、頷く。

「きいてもらえるか分かんねぇけど、頼みごとがあるんだ。すぐ帰ってくる。母さんには
うまく言っといてくれるか」



真剣な表情の兄を見て、葉末は 『僕もいっしょに行きましょうか、兄さん』 と言いかけた。
大事なことらしいし、こういう時は自分の方が上手く立ち回れると知っていたからだ。

だが、すんでのところでその言葉を引っ込める。
兄は、誰かを困らすような無茶な頼みごとをする人ではない。

(まして、園子さんが兄さんの頼みを断るとも思えませんしね…)


「分かりました。遅くなりそうなら電話してください。お母さんには僕からちゃんと説明して
おきますから」

頼もしく請合った弟を見て、海堂は普段は強い光を湛えている瞳をふと和らげた。
葉末はそれが 『ありがとうな』 という意味だとちゃんと知っていた。



そのままそっと家を出ていった兄の背中を見送った葉末は、 『頼みごと』 というのは
何でしょうねと改めて首を傾げる。
まあ帰ってきたら教えてもらえるだろうが、なかなか興味をそそられた。

「でもすぐ帰ってくるとは思えませんね…兄さんはあの方のお気に入りですし」

くすりと小さく笑うと、さてお母さんに何と言っておくべきでしょうと考えながら、葉末は
暖かなキッチンへと一人踵を返していった。






夜にだんだんと近づいてきた空は、雨こそ降っていなかったが曇っていた。
明日は、残念だが雨になるのかもしれない、と海堂は思う。

少し蒸し暑い空気の中、家の裏手へと回り、そこから細い路地へと歩みを進めた。


通学に使うことのないこの道を通ることは、かつてはあまりなかった。

角をいくつか曲がるにつれて、次第に昔風の閑静な佇まいの家が多くなってくる。
自宅からいくらも離れていないのに、雰囲気が全く違うことに最初は驚いたものだ。

決して豪邸というわけではない。
だがどの家も古い趣のあるものばかりで、しかも今どき珍しく平屋まで見受けられた。



早足で歩いているうちに、目指す家が海堂の視界に入ってきた。
低い生垣に囲まれた、瀟洒だが重みのある感触の日本家屋。
縁側に面した庭は、夏が近づいているせいか緑の色合いが濃い。

初めて見た時も、この家の隅々まで行き届いている様子が目を引いたのを覚えている。



正面の玄関のベルを鳴らすつもりでいたが、生垣に近づいていくと、この家の主人が
ちょうど庭に出ている姿が見えた。

ほとんど同時に、彼女も自分に気づいたようだ。
ゆっくりとした足取りで近づいてきて、生垣を挟み、こちらの顔を見上げてくる。

洋服姿も何度か見ていたが、今日は紺地の着物をさらりと着ていた。
少し蒸した空気の中で、それがいかにも涼しげに見えていた。


「まあ、薫ちゃん」


ただそれだけ言って、ふんわりと笑う彼女を見て、海堂の固くなっていた気持ちはするりと
ほどけていった。
無言で丁寧に頭をさげる。
無意識に他人にそうさせてしまうような何かを、この人はもっていた。

(きれいな人だな、いつ見ても)

年齢で言えばとうに80は越えているのだろう。
目の前の小柄な老女は、笑うと顔に深いしわが刻まれたが、その笑顔は内側から光る
ようだ。

一目見ただけで、彼女が自分を歓迎してくれているのが分かった。
表情の変化ひとつで、それを悟らせることができるのを、素直にすごいと思う。



どう切り出せばいいか、来るまでに色々と考えていた。
だが今、それすら消し飛んで、言葉を飾るのはよそうと思った。

だから海堂は、拳を握りしめ躊躇いながらも、相手の目をまっすぐに見つめた。
普通の人なら臆するような強い視線を、彼女は静かに受け止めていた。


「こんな時間に、すみません。……お願いがあって、来たんです」
「お願い?私にできることなら、薫ちゃんの力になりますよ…」


小首を傾げて、もの柔らかにそう言った彼女に励まされ、海堂はやっと用件を口から
絞り出した。

「園子さんの、庭の紫陽花を…ほんの2・3本でいいんです、分けてもらえませんか」

図々しいお願いだって分かってるけど、だけどお願いします。

そう言って勢いよく頭を下げた海堂は、やがて彼女がくすくすと笑い始めたのに気がついて
おそるおそる顔をあげた。


「そんなことだったんですか。真剣な顔をしてるから、何かと思ったら」
「いや、俺は…」
「薫ちゃんが欲しいのなら、いくらでもあげますよ。うちの紫陽花は日当たりのせいで遅咲き
だから、今ちょうど見ごろだし」
「ほんとっすか」
「もちろん。でも、どうしたの。学校で使うの?」
「いや…そうじゃないっす……けど」



予想以上にあっさりとこちらの頼みを承諾され、安堵する一方で、海堂のキャパシティは
もはや飽和状態に近かった。
いつも以上に、すんなりと言葉が出てこない。
乾の事情はかなり込み入っていたから、どこからどう話していいのか分からなくなった。


だがそんな海堂の困惑さえもすっと掬いとるように、彼女は言葉を繋いでくれる。
「無理に言わなくても構いませんよ。私が聞いてもいい事なら、聞かせてほしいけれど…」


その優しさは、このところ迷ってばかりだった海堂の胸に染みた。
自分が丹精して育てた花を、理由も聞かずに譲ってくれようとしている人に、きちんと説明
しておきたいと思った。


「話、聞いてもらってもいいっすか…」
どうしてもぶっきらぼうになってしまう自分の口調に、海堂はひやりとしたが、相手はそんな
事は気にもとめない様子だった。

もちろんですよ、と言うが早いか、勝手口の木戸を開け、中へと招き入れてくれる。


雲にさえぎられながらも日が暮れてゆこうとする、そんな時刻。
海堂は、季節の花や木に囲まれた静かなこの家へ足を踏みいれることとなった。







「…お肉や揚げ物がなかったから、あんな献立では後でお腹がすいてしまうかもしれない
わね。大丈夫かしら」
「いや、そんなことないっす。すげー美味かったです」

あれから、『よかったら、一緒に夕飯を食べましょう』 と言われ、恐縮しつつも結局ご馳走に
なってしまった。

もちろん、家には電話を入れさせてもらった。
電話に出た葉末は 『お母さんにはちゃんと言っておきます。ゆっくりお話してきてください』 と
まるで予想ずみのように笑っていた。


「なあに?どうかした」
「いや…俺の周りは料理が上手い人が多いなと思って。今話した先輩も、上手いから」

表面に模様が彫ってある塗りの重厚なダイニングテーブルからは料理の皿は片付けられて
代わりに可愛らしい和菓子とお茶が乗せられた。
軽く一礼して湯のみを持ち上げると、柚子の香りがほのかに漂ってくる。

「中学3年生で料理が上手って、すごいのね」
「俺もそう思うんすけど…あの人は 『親が共働きで、そういうの期待できないから、自分で
やってるうちに上手くなっちゃった』 とか言ってた」



不器用ながらもとつとつとそう語る目の前の少年を、園子は微笑ましげに見つめた。

最初会ったときから、あまりしゃべるのが得意ではないのは知っていた。
だが、ぶっきらぼうでも礼儀正しいし、他人への心遣いも細やかだ。
今も、食事を一緒にしていて気づいたが、その所作は驚くほどきれいなものだった。

(よほど親御さんにきちんと躾けられてるんですね、薫ちゃんは)



彼と顔見知りになったのは、去年の春ごろだったと思うから、もう1年以上前になる。

縁側に面した部屋の電球が切れてしまい、踏み台をもってきて何とか替えようとしていた
ところ、外を通りかかった薫に声をかけられたのだ。


声をかけられたと言っても、ひどく無愛想な感じで、『危ねえから、俺が替える。中入っても
いいっすか』 と言われ、びっくりしたものだったが。

入ってきた彼は手足が長く、背の高さとのバランスがまだ取れていないように見えた。
学生服の襟章で中学1年生なのだと知れる。
黒いつやのある髪と、きついぐらいの眼差しが印象的だった。
カバンとは別に、大きなテニスのラケットバッグを下げていたのも記憶に残っている。


その時は、電球をすぐに替えると、こちらが礼を言うのも聞くか聞かずのうちに立ち去って
しまった薫だったが。
それからたまに、学校帰りに外を通っているのを見かけるようになった。


自分が一人暮らしだと知って、また男手が要るようなことがないかと気を回していてくれた
こと。
そしてこの道は、本当は彼の通学路ではないことも。
園子が知るようになったのは、それからもっとずっと後のことだったのだが。




「それにしても、その乾くん…も辛いでしょうにね。子供にとって、近しい人の死というのは
とても怖いものですよ」

小さな子供にとって、葬式というのはどんなものだろうと考える。

皆が黒い服を着て、泣いていて、お経があげられて、そして昨日まで確かにいた人がもう
いないと告げられるのだ。
小さな心が受け入れられる容量を越えてしまっても、致し方ないと思わされた。

「そうっすね…俺もそう思うし、先輩もほんとは分かってると思う。でも、ちゃんと悲しんで
ちゃんとありがとうって言えなかったのが心残りなんだろうって…」



薫は、テニス部の先輩で、いつもとても世話になっている人の為に紫陽花が欲しいのだと
そう話してくれた。
彼が、幼い頃に祖母を亡くした際に、怖くて葬式に出られなかったこと。
そして、それを今でも深く深く後悔しているのだということも。


『おばあさんが好きだった花があれば、楽な気持ちで墓参りにいけるかもしれないと思った』



……優しい子供たちだ、と園子はそう思う。
祖母の死を悼むことができなかったと悔いる乾も、そんな乾を楽にしてやりたいと願う薫も。


年をとった自分から見れば、その心だけで充分と思える。
乾という少年の祖母も、彼をただ愛しいと思うだけで、責める気持ちなどないだろうと。



だが一方で、自分ではなく人のためにこうやって頼みごとをしに来た薫の気持ちを大事に
してやりたいと思った。
薫の性格から言って、こういう事を実行に移すのは難しかったはずだ。

(ほんとうに、薫ちゃんらしい)

花は咲いて散るもので。
その儚さだけを彼が欲しがったのは、妙に頷ける気がした。


紫陽花の花も、明日墓前に供えれば、何日もたたずにしおれ色あせることだろう。

だがそれは、薫が大事に思っている人の心をきっと救う。


花にも心があるならば、
そんな風に使ってもらえたら、きっと咲いた甲斐があるだろうとそう感じられたのだ。







ゆっくりとお茶を飲んだあとで、二人は部屋の明かりを頼りに夜の庭へ出た。


園子が丹精して育てている木や花の名前を、海堂は半分も知らなかったが、季節ごとに
移り変わるそれらをいつも好ましく眺めていたものだ。

(大事にされるから、こうやってきれいに咲くんだ…)

彼女は何でもない事のように、紫陽花を譲ってくれると言った。
どうせもう一週間もすれば花も終わるし、その後は来年に向けて枝葉を刈ってしまうからと。

だが、この庭が植わっているものひとつひとつで、完全なバランスをとっているのだと海堂は
分かっていた。

それを自分の一存で崩してしまうのを済まないと、心から思う。




少し日当たりの悪い庭の隅に、青々と葉を茂らせた紫陽花の群があった。
暗いせいで色まで見えないが、青紫の花が咲いていたはずだ。


月もかからぬ夜空を見上げ、園子は「ああ、明日は雨になってしまうのかしらね」と呟いた。
そうして、使い込んだ様子の鋏で、大きな花のついた一枝をパチン、と切り取る。

「薫ちゃん、持っていてくださいね」

海堂が頷きながらその枝を受け取ると、彼女はためらう様子もなく次の枝へと鋏を入れる。
パチン、パチン、と音がする度に、腕の中には美しい花をつけた紫陽花が増えていった。




……しばらくその光景にぼんやり見とれていた海堂は、突然はっと我に返った。

「あ、あの!墓に供えるだけっすから、これで充分です。ていうか、これでも多すぎるぐらい
じゃねーかと…」


墓の左右に備え付けられた花活けは、大きな花をつけた紫陽花なら、2本ずつも入れれば
もういっぱいになるだろう。
なのにぼんやりしているうちに、海堂は驚くほどたくさんの花を持たされてしまっていた。
目の前の紫陽花を全部刈り取るつもりではないかと疑うほどだ。



だが、もう既に見栄えが悪いと感じるほど刈られてしまった紫陽花の前で、園子は慈しみの
こもった眼差しを海堂に向けた。


「別にお墓に全部持って行かなくてもいいですから、たくさん渡しておあげなさい」
「……え」
「ちゃんと埋め合わせがつくように。抱えきれないぐらい、びっくりするぐらい、たくさん」



だってそうでしょう?と、励ますように彼女の手が海堂の肩に触れた。

「これは薫ちゃんの真心なんですから」





海堂の脳裏に、あの日、雨の公園で話を聞かせてくれた時の乾の姿が蘇ってきた。
切なげで、弱々しくすら見えた、横顔。

死んだ人はもう戻ってこない。
だが思い出だけは消えることがないから、乾の後悔も悲しみもつのるばかりだった。

(………そんなあの人を、俺は)

助けるとか、救うとか、おこがましい事を考えていたわけじゃない。

でも、なんとかしてやりたかった。
そう願った。

ささやかでもいい、なにかをしてやりたいという気持ち。

それを自分は、長い時間をかけて、乾からひとつひとつ教わってきたのだから。






泣くのを堪えるように俯いた海堂の耳に、またパチンと鋏を使う音が楽しげに響いた。

新しい花が、腕の中に差し込まれる。
いつしか、人より長いはずの海堂の腕からも溢れそうになるほどに。


これを明日、乾に渡すことを考えた。
真心、と呼んでもらえたものを。


夜露にかすかに濡れた花に顔を近づけて、海堂は両腕でそれをつよく抱きしめていた。