7月1日、雨


                       Scene1.


                     「で、海堂のお父さんはどんなネタが好きなのかな」

黒い傘に身を寄せるように一緒に入っていた河村が、穏やかな口調でそう尋いた。


決して相手を急かさないその様子は、誰の目にも好ましく映る。
好感度の高さという点では、青学テニス部では彼と大石が双璧だろう。


「好きな…っすか。……っと」
海堂は、考えこむように少し目線を浮かした。


河村は、海堂が慌てることなく会話ができる稀有な人物の一人だ。
そのせいだろうか。
警戒心の強い猫みたいな彼が、今は口元を僅かに和らげている。
安心している、というサインだ。


だから自分のフォローの必要もないだろうと、乾は傍らで微笑ましい気分になりながら
それを見ていた。


普通なら、自分の目の前で海堂が誰かと相合傘をしているのを許容できるような
広い心は持ち合わせていなかったが。

不思議と河村なら許せてしまう。
日頃の行いというのは大事なもんだ、と乾は心の中で感心しきりだった。



……今日は、練習後に急に雨が降り出した。
傘がなかった河村を、乾と海堂は回り道をして家まで送って行くことにしたのだ。
海堂が傘を提供したのだが、背の高い河村の方がそれをさして歩いている。



「貝類とか、好きだったような…あとは、タコ。できれば生の方がいいっす」
「ああ、食感のいいネタが好きなんだな、きっと」
「それから、アナゴ…」
「はは、アナゴが好きなのは海堂だろ?知ってるよ」


以前、祝勝会が開かれた時のことを覚えていたのだろう、河村はおかしそうに笑った。
そして、「大丈夫、アナゴもちゃんと入れとくよ」と請合う。


なんでも来週の海堂の父親の誕生日に、海堂家では河村寿司に出前を頼んでいる
という。
スーパー主婦の穂摘が出前をとると聞いて、乾はちょっと珍しく感じたものだったが。
聞けば、海堂の父は仕事帰りに河村寿司に飲みに立ち寄ることもあるらしい。


弟さんはワサビの入った寿司は食べられるのかい?とか、巻き物は好きかなとか
そんな質問が、雨音と心地よく交差している。




並んで歩く三人へ降る雨は、細かい霧のようだった。

さあっと軽い音がするだけなのに、傘に当たっては、絶え間なく水滴が結ばれてゆく。
あまり降られている感覚はないが、周囲の緑が瑞々しく濡れてゆくのが分かった。


制服の白い半袖シャツと、先日少しだけ短くなった海堂の髪が、夏が来るのだと乾に
実感させてくれる。
だが、その前にまずは長雨の季節だ。



その象徴ともいえる青紫の花が、通りすがりの家の庭に咲いているのに、乾はふと
目をとめた。
だがもう盛りを過ぎたのか、その色合いはどことなく少し褪せて見えている。


(そもそもアレは花じゃなくて、ガクだったはずだな)
(学名は日本語で…水の器という意味だったか…)


余計なウンチクを脳裏に流しながらも、紫陽花を見る乾の目は知らず和らいでいた。

この花を好きだった人のことを思い出したからだ。

たくさん食べないと大きくなれないよ、が口癖だった。
今、標準をはるかに上回る背丈に育った自分を見たら、あの人はどう思うのだろう。





「先輩…乾先輩!」

余程、考えに没頭していたのだろうか。
隣を歩いている海堂に呼ばれているのにも気づかなかった。

傘から出した彼の手が、遠慮がちに自分のラケットバッグを引っ張っている。

「え、あ、すまん。何か言ったか、海堂?」
「いや俺の方こそスンマセン。河村先輩とばっか喋ってて」

見れば、海堂の向こう側では河村も済まなさそうな顔をしている。
だから乾は慌てて首を振ると、「濡れるよ、海堂」と彼の手を傘の中へと戻させた。


「違うんだ…紫陽花を見てたら、お前に言っておかなきゃならないことがあったのを
思い出してな」
「……なんすか?」
「今度の日曜の練習な、俺は休ませてもらう事になってるんだよ。祖母の墓参りに
母親と行く予定なんで、竜崎先生に言って特別に」


こんなに日が迫るまで思い出さなかったなんて、薄情なものだと乾は自嘲した。
本当のところ、あまり考えたくないのかもしれない。

どこかに小さな罪悪感を抱えたままの自分は。
海堂の黒い瞳の中に、どんな風に映っているのだろうと思うと少し怖くなった。


「おばあさん…の」
「うん、だから海堂、俺がいなくても決まったメニュー以上はやったらだめだぞ」

タカさんもちゃんと見張っておいてくれ、と乾が言うと、河村は笑いながら頷く。

「だけど乾、なんで紫陽花で思い出したんだい」
「ああ、生前、祖母が好きだった花なんだ」

祖母の家は小さいけれど一軒家だった。
そこに長雨の季節になると、青や白やピンクの紫陽花が咲き誇っていたのを、乾は
子供時代の思い出として今もイメージすることができた。



「……いつ、亡くなられたんすか」

多少のためらいはあったものの、聞きたい気持ちの方が勝った海堂は、隣を歩く乾を
見上げ そう口にした。
彼の表情に拒絶の色が見えたら謝ろうと思ったが、乾はただ困ったように笑っただけ
だった。


「俺が小学校2年の時だったかな。知ってのとおり、うちは両親共働きだろう?」
「……」
「祖母はうちに通ってきて、俺の面倒をよくみてくれてた。俺はとても小さかったけど
それは今も覚えてるよ」


ああ、そうなのか、と海堂はふいに納得がいった気がした。

いくら乾がしっかりしていても、彼にも子供時代はあったはずだ。
一人ではまだ何もできないような頃は、親がいなくてどうしていたのだろうという疑問が
するりと解けたように思えた。

(そのおばあさんが、先輩の面倒みてくれてたのか)

だが小学校2年といえば、まだまだ幼い。
亡くしたときはさぞ悲しかっただろうと、ぶ厚い眼鏡の向こうの乾の表情を見つめた。



「本当は墓参りに行くとき、一度ぐらい 紫陽花を供えてやりたいと思うんだが…」
あれは庭木で、花屋に切花では売ってないからな、と乾は苦笑する。

マンション住まいの自分には、手に入れにくい花だった。
鉢植えならば売っているが、それを幾つも買ってきて根こそぎ刈り取るのは、さすがに
ためらわれる。


「そうだなあ。海堂の家は庭が大きいけど、紫陽花は植わってないのかい?」
「それが…ないんすよ。あったら、幾らでも乾先輩にあげられるんすけど…」

ひとつの傘の中で残念そうに肩を落とす河村と海堂は、まるで兄弟のように見えた。
他人の事情に、自分のことのように心を痛める。

気持ちの優しいこの二人を、がっかりさせるのは本意ではなかった。


「まあどのみち、今週末にはもう花の盛りも過ぎてるよ。今でももう、ちょっと色が
変わってきてるだろう?」

だから乾は、自分の方から諦めの言葉を口にして、わざとその話題を終わらせる
ようしむけた。


本心を隠すのは、得意だ。
だが同時に、海堂に隠し事があるようで胸がうずく。

(何でも話せばいいってもんじゃない…)

そう、思う。
だが自分が上手く笑えていたかどうか、乾はその時、全く確信が持てなかった。








「引き止めてすんません、先輩」
「いや?俺は海堂と寄り道できるなんて、いい日だなーと思ってたけど」


河村を家まで送り届けて二人きりになると、ふいに海堂が 『もうちょっと付き合って
もらっていいっすか』 と切り出した。

むろん、乾がNOと言うはずもない。
何か買い物かな?と思ったのだが、海堂は黙ったままでいくつか角を曲がり、乾が
知らない公園の中へと入っていった。


小さいが瀟洒なつくりのその公園は、雨に濡れて、しんとしている。

入り口から死角になった場所にある屋根つきのあずまやのような建物へ足を踏み
入れると、二人は傘を開いたままで地面に置いた。


「……静かだな」
独り言のように乾がつぶやいた声が、雨音にまぎれる。


石造りのベンチに並んで座ると、この小さな空間に本当に二人きりなのだと感じた。
奇妙な安堵感。
ずっと黙って、二人でこうしていたくなるほどだった。


「先輩、アンタ…」
「ん?」
「さっき、もっと俺に話したいことあったんじゃないすか」


さらりとした海堂の問いかけは、先ほど河村が一緒にいた時よりも、少しだけくだけた
口調に変わっている。
先輩後輩ではなく……恋人に向けてのそれ。

自分の膝の上にのせた手を見ていた乾は、ぎくっとして視線をあげた。


隣に座る海堂は乾を見てはいなかったが、その横顔は定まって、ひどく凛としていた。

彼に何かを悟られるほど、自分は動揺していたのだ。
そんなことに、やっと気づく。
本心を隠すのが得意だ…などと、もう二度と言えそうになかった。


「……まいったな。なんで分かったの、海堂」

搾り出すような声でそれだけを言う。
海堂は 『別に…アンタ何か溜め込んでる顔してたからな』 と当たり前のように答えた。

そっけない声に篭っている労わり。
それに、ふいに泣きたいような気分にさせられる。


「俺は、隠しておきたかったんだけどね、海堂にだけは」
「別に言いたくないのなら、無理に聞かないっすよ」

でもアンタが言って楽になれるんなら言えよと、不器用に促され、乾は固く目を閉じた。




「手、つないでもいいかな」

正面から顔を見ていない分、乾の声の掠れ具合に不安がかきたてられる。
だから海堂は返事をするよりも先に手をのばし、一回り大きな手を握りしめた。

好きだからって、何を聞いてもいいわけじゃない。

それぐらいのことは分かっていた。
だがこんな途方に暮れたような乾を見ることなど、付き合い出してからそう何度も
ありはしなかった。
(柳さんのことを、話してくれた時以来か…)



さっき別れ際に、河村が小さな声で自分に言ってくれたことを思い起こす。

『海堂はすごいなあ』
『…は?俺っすか?なにが…』
『いやだって、俺、乾が家族の話とか子供の時の話するの初めて聞いたよ。海堂が
いると、そういう話もするんだな』


正面から、そんな事を言われて気恥ずかしかった。
河村は自分をかいかぶりすぎだとも思った。

だが、彼の穏やかな声が、海堂が迷っていた一歩を踏み出す勇気に変わった。


(先輩が出してるサインを)
(見えてんのに、見過ごすのはイヤだ…)

この人の脆さを受け止める力が、自分の掌にあればいいと。
そう願う。
それを願ってしまうほどには、好きなのだから。




「さっき、祖母の話をしただろう?俺が小2のときに亡くなったって……」
返事の代わりに海堂の手が、軽く握りこんでくるのが分かった。
冴えた空気の中で、伝わる。
教えてほしいという彼の気持ちが。


「俺さ、祖母が死んだときに、怖くて」

「昨日までいた人がもういないっていうのが、怖くてたまらなくて」

「泣いて、自分の部屋に立てこもってさ、結局、葬式にも出なかったんだ……」




長いあいだ、重い石のように自分の心に沈んだ後悔だった。
それは、自分が何をしたのか理解できるようになるにつれて一層深くなった。


仕方がないことだと、乾にも頭では分かる。
自分はとても幼かった。
近しい人の死に初めて直面して、逃げてしまっても誰も責めないだろう。

あの人も自分を責めはしないだろう、と思う。

だが、自分を大事にしてくれた人の死を悼まなかった事実は、厳然として残った。
その罪悪感ゆえに、いまだ墓参りに行く事すらひるむ自分自身が嫌になる。



乾の告白を聞いてから、しばらく海堂は黙りこんでいた。
彼が言葉を選んでいるのだと知っていたから、乾も何も言わず、細かい雨が降りしきる
様を見つめていた。

思い出の人は、戻ってこない。

拠り所を失くした愛情を、乾はもはや身勝手だと思うことすらあった。
修正の効かない過去と今は、本当に相容れないもので。

(なのに俺は、埋め合わせをつけたがっている…)




「…ゴメンな、海堂。こんな話して」
その言葉に、海堂は突然我に返った。視線を上げると、乾はもういつもの顔をしていた。
感情を取り繕うのが上手い。
ほとんどの人間は、この人の如才なさに騙されて、見過ごしてしまうのだろう。


(アンタは、こんなに長く悲しんで)
(……まだ、悲しまなきゃなんねえのかよ)


海堂はゆっくりと首を振った。つないだ手は離そうとはしなかった。


「俺は話してもらって良かったっす。俺にだけは隠しておきたかった、ってのは心外
だけどな」
「いやそれはさ…その、軽蔑されたらイヤだし…」
「アンタが小学生の時にやった事で、俺が軽蔑するとか思ってたんすか」
「いやいやいや、海堂、そうじゃない、あのな」
「じゃあなんだよ」
「ほら、俺、海堂に嫌われたら生きていけないから!!」


身体をこっちに向けて、海堂の手を両手で握りこみ、必死な口調で乾が言う。
冷静沈着とか、データマンとか、そういう呼称ももはや形無しだった。


一瞬ぽかーんとしていた海堂は、やがてどうしようもなくなって、横を向き笑いだした。

「…なに言ってんだ、アンタ…バッカだな…」
「バカでもいいよ、海堂がやっと笑ったし」
「……アンタもな。やっと笑った」


至近距離で同じ言葉を海堂に返されて、乾は思わず片手で自分の顔に触った。
大好きな人の笑顔につられるように、自分も口元が緩んでいるのが分かる。


(許された気がする、なんて、俺の思い込みだろうか…)


何かが変わったわけではなく、後悔は今も胸にあるのに。
不思議と心は軽くなっていた。



今は、この人が傍にいてくれる。



だから乾は笑った形の口元のままで、海堂と軽く額を合わせて 「聞いてくれて嬉し
かった」と囁いた。

「子供みたいなカオして笑うなよ」と、すかさず返される。



今なら、あの青紫の花を、ただ懐かしいと思えるのかもしれなかった。
後悔とは、また別の気持ちで。


指に触れる彼の、いつも少し高めの体温。
触れることを許されている、自分。
その両方に溺れていきながらも



さらさらと降る雨の音に耳を傾けて、そんなことを、乾はひっそりと思った。