Scene1.

「いーぬい!!今日誕生日なんだって?プレゼントとかなんにもないけどオメデトウ〜」
朝練の後もしばしテニスコートに残り、ようやく部室へ引きあげようとしていた乾の背中へと、
菊丸が元気よくそう声をかけた。

「ああ、そうだったな。乾も今日で15歳か。おめでとう」
一緒にいた大石も笑顔になって、同じように祝いの言葉を口にする。
人一倍大人びて見える乾は、毎年誕生日などどうでもいいというポーズを崩したことがなかった
が、それでも周囲から祝福されて悪い気はしないだろうと思ったのだ。

だがしかし、こちらを振り向いた乾の表情を見た瞬間、青学ゴールデンペアは凍りついてしまった。
笑っている。喜色満面の笑顔だ。
不透化眼鏡のせいでいつも表情が読めない乾の口元が、今は見間違えようもなくにやけていた。

(キモいにゃ、大石!!どうしちゃったんだよ、乾のやつ〜)
(耐えろ、耐えるんだ英二。俺も確かに怖くないと言えば嘘になる、しかし…)

部室への細長い一本道では逃走することもかなわず、お互いのレギュジャの裾を掴みながら、
大石と菊丸は朝一番の恐怖体験と向かい合おうとした。


「二人ともさっそくどうも。天気もいいし、俺だけこんなに幸せで申し訳ないぐらいだ」
「そ、そぉ?いいんじゃないかにゃ。誕生日なんだから、幸せ独り占めでさ…」
「そ…そうとも乾!お前が幸せそうだと、俺まで晴れやかな気分になるよ」
ははははは、と乾いた笑い声をたてる二人のわざとらしさには全く頓着せずに、芋ジャ姿の乾は
うっとりと晴れた空を見上げた。

…かなりイカレてしまっている、と大石と菊丸は絶望的な気分になった。
(何があったんだ、乾に…まあ悪い事じゃなさそうだが…)
(なに言ってんだよ、大石!乾があんなにトリップするなんて、薫ちゃんに決まってるじゃんか!)


目の前で小声のやりとりをする黄金ペアの言葉から、耳ざとくも『薫ちゃん』という言葉だけを拾い
あげた乾はまたニヤリと笑った。
「そうなんだ、実は海堂がな…」

その瞬間、自ら墓穴を掘ってしまったと悟った菊丸は、激しく青ざめた。
だが、菊丸は見かけによらず腹が据わった性格でもあった。
毒を食らわば皿までだ。最悪でも倒れるほどノロケられるだけで、命までは取られまい。

「うん、海堂がどしたの乾?」
「お、おい英二!?」

わざわざ乾のノロケを聞く体勢に入ったパートナーに、大石は驚愕する。
だが目配せをされて、菊丸が被害を自分たち2人で最小限に抑えようとしているのだと感づいた。
(それにまあ乾は誕生日なんだから、恋人の自慢話ぐらい聞いてやってもいいか…)
己を捨てても部の為に尽くす体質になりはてている大石は、重い胃をさすりながらもそう考えた。

「朝練前に俺のところへやって来て、練習しすぎとしか思えない棒読みで  『乾先輩、誕生日
おめでとう
…ございます…』 と言ってくれたんだ」

乾はご満悦だった。自分の熱愛している恋人はとても恥ずかしがり屋で、人目のある場所では
そっけないぐらいの態度を取られることが多い。
だが今日は違った。特別な日だから、一番にそう言ってくれるつもりだったのだろう。

それでもやはり照れくさかったのか、短いそのセリフの最後が小声になってしまったのがこれまた
可愛くて、乾は危うく彼をどこかに連れ去りたい衝動にかられるところだった。


だが乾がとっておきのホットニュースを教えてやったというのに、目の前の黄金ペアはぽかーん
とした顔でつっ立ったままだ。
やがて菊丸がおずおずと尋ねてきた。

「え〜とさ、乾、それで??」
「それでとは?」
「も、もしかして、それだけなのか?」
「それだけだと?あの内気な海堂が人前で俺に祝いを言うのに、どれだけの努力と勇気を費や
したと思う」

朝練の最中に、脳内で何度も巻き戻し&再生を繰り返した海堂の姿を 『それだけ』 と言われ、
上機嫌だった乾の眉間にはたちまち暗雲が垂れ込めた。

言外に 『汁』 と通達されている気がして、黄金ペアは震え上がった。
だが絶対絶命の窮地に陥ったその瞬間、乾の背後にある部室の扉が開き、救世主が姿を
現したのが見えた。

(薫ちゃんだ!!)
(海堂!助かった!!)
心の中で、大石と菊丸はブラボー!と拍手喝采をした。


既に制服の白い開襟シャツに着替えた海堂は、部室への道を塞ぐようにして乾と黄金ペアが
対峙しているのに気づいて、けげんそうな顔をする。
「お疲れっす…先輩たち何やってんすか、こんなとこで」

「や、乾に朝からすごくいい事があったという話を拝聴していたところなんだ!」
「そうそう!ラッキー千石も顔負け!ってね〜」

妙なテンションで騒ぐ二人をうろんげな眼差しで見やった海堂は、小首を傾げると傍らに立って
いた乾に言った。
「へえ…そうなんすか。良かったっすね、先輩」
よもや自分の言葉で乾が浮かれポンチになっているとは考えもしない。

そんな海堂の天然発言に、乾の眉毛がハの字になり、しょげたオーラを放出し始めたのを感じて
黄金ペアは彼らの脇を光の速さで駆け抜けた。
『いぬいー先行くぞ〜!』
菊丸の声が遠ざかっていくのを気にも留めずに、乾と海堂は道の真ん中で見つめあった。



「アンタ、なに情けない顔してんすか。いいことがあったんじゃねえのかよ」
尻尾をたらした大型犬のような風情の乾を見上げると、海堂は二人の時しか見せないような顔で、
気をひきたてるように笑いかけた。
「誕生日なんだろ。そんなんじゃ、幸せが逃げるっすよ」

…ああ、なんて優しい子なんだ、と乾はじーんとした。本日の幸せゲージが再びぐぐっと上がる。
(海堂のことを怖いとか無愛想とか言ってる奴は、目に風穴が開いてるんだな。気の毒に)
まあそれはそれで構わんが、と乾は思った。
みんなが海堂の可愛さに気づいてしまったら大変なことになる。


「あ、そういえば今夜はお母さんと食事行くって言ってたっすよね。それが楽しみなんすか」
今日は火曜で平日だ。
部活もあるし、夜には珍しく乾が母親と食事に行くというので、海堂のお祝いは週末までお預けに
なっていた。
土曜日に二人で、あの水族館へもう一度行くことになっている。
プレゼントもデートの日に渡す約束だったから、今日のところは乾に『おめでとうございます』と
言うことぐらいしかできなかった。

(たったそんだけの事も、あんま上手く言えなかったけどな…)
昨夜イメージトレーニングをしてみたのだが、人のたくさんいる場所で乾を捕まえて祝いを言うのは
難しかった。
周囲の目が物珍しそうに冷やかすように見ていて、いたたまれなかったのだ。

『誕生日おめでとう』 もすんなり言えない自分に内心落ち込んでいた海堂は、危うく乾が言った
ことをスルーしてしまうところだった。



「……え?ちょ、先輩、今なんて!?」
「え、だから、急な出張が入ったから、食事はキャンセル。こんな事なら海堂とどっか行けばよか
ったなあ」

でも平日だから、部活後の時間なんてたかが知れてるかと、乾は口の中でブツブツつぶやく。
海堂家は結構ルールが厳しいから、夜遅い時間まで外出する許可がおりるとは思えなかった。
(でもまあいいか。土曜日にはデートもできるし、海堂泊まりに来てくれるもんな)

そもそも乾は、自分の誕生日というものに執着した事がない。
親と交わした約束など遂行された試しがないので、6月3日に何かをしなければと思わないのだ。
海堂がお祝いしてくれるのが重要であって、それが何月何日に行われようとも、乾は無頓着
そのものだった。

だから恋人に 「なんでもっと早く言わないんすか!?」と強い口調で言われた時には、正直何を
咎められているのか分からなかった。


「…?早くって言われても、俺も聞いたの昨日の夜中だし…」
「昨日の夜中だ!?なんだよそれ、当たり前みたいに言うなって…」
「いやまあ、うちの家では当たり前なんだが」

淡々と答える乾に困惑した海堂は、眉を寄せ、癖のない前髪をぐしゃっとかき上げた。
当たり前のように約束を反故にする親。それを普通に受け入れる乾。
そのどちらに腹をたてているのか、自分でも分からなかった。

勿論、よその家の事情に自分が口出しする権利はないし、仕事の都合だというのも承知している。
それでも胸がキリキリ痛んだ。
この人は、こんな誕生日を今までに何度迎えたのだろう。


「……っ、つまり今日は誰も家に帰って来ないんすね」
「まあ、そういうことになるのかな」
「じゃあ俺、今日泊まりに行きますから!断ったって無駄っすよ」
「ええ!?海堂泊まりに来てくれるの?なんで断ったりするんだ。すごい嬉しい…」

親が家にいないなどまさに日常の事なので、別段なんとも思わなかったのだが、海堂が一緒に
いてくれると言う。
(ああもう、海堂を抱きあげてクルクル回りたいぐらいだ)
部室前でそれをやったら間違いなく殴られるので自制したが、乾は内心本気でそう考えた。

だが海堂は気難しい顔で、「大変だ、家に電話しねえと」とか「時間が足りねえな。買い物しといて
もらうか」などと小声でつぶやいている。


その時、予鈴が鳴る音が遠くから聞こえてきた。
乾はまだ着替えも終わっていない自分に気がついて、「海堂、とにかく詳しい事は部活の前にでも
決めよう。俺、なにか美味しいもの作るからさ」と上機嫌で彼に微笑みかけた。

だが意外なことに、海堂は重々しく首を振った。
「いや、いいっす。アンタ何も用意すんな」
「え?でも買い物しないと家になんにもないよ。外に食べに行くってことか?」
しかし中学生二人では、そう上等な店に入れるとも思えない。
背伸びして居心地の悪い店で食事するよりも、自分が料理をした方がいいような気がした。

だがそれにも首を振った海堂は、決然とした口調で乾にこう言い渡した。
「ケーキはうちの母親に頼んで焼いてもらう。メシは俺が作るっす」
「………は?」

何かとても意外性に富んだ発言を聞いた気がした。
だが海堂は「絶対、買い物するんじゃねえぞ」と言い含めると、ぽかーんとした顔の乾を残し、立ち
去ってしまう。


「メシは俺が作る…って言ったよな。今、海堂たしかに」
小さくなる白いシャツの背中を見送りながら、乾の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「俺のデータに、そういうのはないんだが……」
部室から出てきた連中が、独り言をいう乾を気の毒そうな目で見ながら通りすぎてゆく。

乾が恋人の言葉を測りかね、一日中夢想し続けたおかげで、3年11組は大迷惑をこうむった。
教師を含めた全員が乾と目を合わせないよう気をつけていたが、本人は避難勧告が出ている事
になど結局気づきもしなかった。




Scene2.

部活を終えて帰宅した乾は、着替えが済むとやる事がなくなってしまい、手持ちぶさたそうに海堂
を待っていた。
本来なら彼がお泊りに来てくれる日は、いつも腕によりをかけて美味しい物を作ってあげるのが
乾の楽しみだ。

幼い頃から乾にとって料理とは、必要に迫られてする行為にすぎなかった。
いつも忙しくて帰りの遅い母親の負担を減らしてやりたい。
それに彼女は家事が下手だったから、自分で好きな物を作って食べた方がいいと思って作り始め
いつの間にか上手くなってしまっただけだった。

だがこのキッチンで初めて海堂にご飯を作ってあげた時は、どんなに嬉しかったかしれない。
大好きな人を喜ばせる力が自分にあるなんて、知らなかった。
大好きな人には何だってしてあげたいものなんだと、初めて気がついた。

だから本当に海堂が自分に何か作ってくれるのなら、どんな味だろうと完食してみせる!と乾は
固く心に誓った。
(お湯を注ぐだけのカップラーメンだろうと、鍋の中身が焦げていようと構うものか。愛の力で克服
してみせる!)
と、いささか失礼なことを考えていたその瞬間、ピンポーンとチャイムが鳴った。


確認もせずに玄関に走り出た乾がドアを開けると、そこには荷物だらけの海堂が立っていた。
明日はここから学校に行くから、制服姿のままだ。
ラケット、学生カバン、ケーキ箱、そして食材が入っているらしいスーパーの袋を下げている。

「海堂、なんで電話しなかったの。俺が迎えに行ったのに」
その有様に乾は咎めるような声を出したが、「先輩、先にケーキ受け取ってほしいっす」と言われ、
箱もスーパーの袋もあわてて彼の手から取り上げた。
海堂は荷物の重さよりも、ケーキを崩してしまわないかが心配だったらしく、ホッとした顔になった。


家に入った途端、彼は「着替えてくるっす。先輩の部屋借ります」と言って姿を消してしまった。
海堂を待つ間、乾は彼が持参した食材を調べてみた。
もう焼くだけになっているハンバーグが4つ、ラップにくるまれている。
付け合せと思われる人参のソテーも、小さいタッパに入っていた。

だが他は「素材」と呼ばれる状態の物ばかりだ。
じゃがいも、人参、キャベツの葉、タマネギ、カレー肉、ホールトマトの缶詰、ベーコン、ブロッコリー
卵、ご丁寧にブイヨンキューブやローリエの葉まである。
(これは…本当に何か作る気らしいな。穂摘さんも作らせる気だ)

正直なところ乾は、穂摘が何か料理を作って持たせてくれるのではないかと考えていたのだ。
だが調理前の食材がここにあるし、彼女は息子にできない事をやらせる人間ではない。
という事は、そこから導き出される結論はひとつだけだった。
(要するに…海堂は料理も穂摘さんから仕込まれてるってことなのか…?)



「先輩すんません。俺、手ぇ遅いから、ちょっと時間かかると思うんすけど…」
そう断りながら出て来た海堂は、なんとブルーのチェックのエプロン姿で、乾は彼をビデオに撮り
たい衝動と必死に戦わなければならなかった。
(か、可愛い!誕生日ってなんて素晴らしい日なんだ!)

「テレビでも見ながら待っててもらえますか」
「絶対イ・ヤ。海堂が料理をするところを見ないでどうするの」
「しょうがねえな。手出し無用っすよ」
「うんまあ、海堂の命に危険が及ばない限りは黙って見てるよ」

乾の反応をある程度予想していたのか、海堂は嘆息すると真剣な顔つきで料理にとりかかった。
鍋に水を入れて火にかけ、乾にピーラーを要求して、じゃがいもや人参を剥きはじめる。
いつもぴんと張り詰めた空気をまとった彼は、キッチンに立ってもとてもかっこよかった。
野菜を切る手つきも早くはないが丁寧で正確だったから、これは安心できそうだと乾は思う。


「海堂は穂摘さんに料理も習ってたんだな。メシは俺が作る!とか急に言い出したから驚いたよ」
食卓の椅子に座った乾が楽しげに笑うから、海堂は照れくさくなってカレー肉を包丁でドカドカ
叩いた。
一応、筋切りをしているのだ。

「別に大したレパートリーはないっすよ。将来一人暮らしする時の為にって基本的な事を教わった
だけで」
だいたい乾ほど料理が上手い人間の前で、「できる」なんて言えるはずもない。
今日だって、特別凝った物を作れるわけでもないのだ。
だがいつもなら乾が忙しく立ち働くキッチンで自分が何か作ってやれたら、少しは彼の気が晴れる
かもしれないと思ったのだ。


誕生日なのに母親との約束をあっさり反故にされた乾を見て、海堂の方がショックを受けていた。
表面上は何とも感じていない様子の乾が、ひどく危うい気がして怖くなった。

(だって、絶対傷ついてるだろ。なのにアンタ、普通の顔しやがって…)
こんな事がある度に乾の心には薄い傷がいくつも残り、表面はもう傷だらけなんじゃないかと海堂
は唇を噛む。
事情は分かっていても、自分の大事な人に悲しい思いをさせる彼の母親にも腹が立った。


ポトフの鍋に切った野菜や肉を入れて味付けをすると、あとは弱火でコトコト煮るだけだと説明して
海堂は蓋をした。
「腹へったっすか?我慢できなかったら、なんかつまんでてもいいっすよ」
珍しく甘やかすような口調でそう言ってやると、彼は微笑みながら首を振る。

「ハンバーグと、トマト味のポトフと、あと何作ってくれるの、海堂?」
「サラダっす。ブロッコリーに茹で卵を刻んだのと焼いたベーコン乗っけて、カレー味のマヨネーズ
ソース作って」
「うわ、美味しそうだな。海堂、俺より料理上手いんじゃないのか」
「謙遜しすぎるとイヤミっすよ、先輩」



いつもはただ機能的なのが取り得のキッチンなのに、そこに違う人が立つだけでどうしてこんなに
華やいで見えるんだろうと乾は思った。
(家は安らぐ為の場所なんだって教えられて育った人だからな、海堂は)

海堂家に行くといつでも、団欒とはこういうものなんだと気づかされる。
それはこれまでの自分に全く縁のないものだったが、彼はよく似た何かを絶えず与えようとして
くれた。

たくさん愛されてきた、その分だけ。
彼には愛し方というものが自然に備わっている。
欠けたところの多い乾の心を埋め合わせるように、一生懸命に大切にしてくれる。


乾にはもう分かっていた。今朝、海堂がひどく腹を立てた理由が。
約束を守らない母親や、それを当然のごとく受け入れる乾も勿論だったが、彼を怒らせたのは
乾が期待をしなかったからだと思う。

幼い頃から他人に過剰な期待をすると、必ず裏切られた。
親には構ってもらえなかったし、幼馴染も離れていった。
もう惨めな思いをしたくなかったから、乾はいつしか誰にも期待しなくなってしまった。

その習性が今も残っていて、誕生日の夜に一人きりだというのに自分は、海堂にも甘えようとしな
かったのだ。
(…寂しいから一緒にいてほしいって、素直に言えばよかったんだよな)


必死でブロッコリーを茹でている海堂の後姿を眺めていると、自分の頑なさが馬鹿みたいに
思えてくる。

あまり上手ではないエプロンの蝶結び。
キッチンタイマーがあるのに口の中で数をカウントしている横顔。
鍋つかみをはめた手を、無意識に握ったり開いたりしている様子。
目に映るものひとつひとつが愛しくて、泣きたい気持ちにさせられた。

過去の自分に足りないものがあったとしても、今はもうこんなにも愛してくれる人がいる。
なにを恐れることがあるのだろう。


「あ、先輩、手出し無用だって言ったじゃないっすか」
急に立ち上がって服の袖をまくった乾を見て、今度はベーコンを刻んでいた海堂が憤然とクレーム
をつけてきた。
今このキッチンのシェフは自分だと言いたげに、上目使いで睨んでくるのが可愛いすぎる。

「うん、でも使い終わった道具を洗うぐらいいいだろう?手元がごちゃごちゃしてたら、海堂も料理
しにくいだろうし」
そうやって上手に言いくるめると、料理だけで手いっぱいな海堂は、んじゃお願いしますと案外
素直に折れて出た。

二人並んで立つキッチンには、いつの間にかポトフの美味しそうな香りがいっぱいに満ちていた。
シンクに積んだ使用済みの鍋を洗いながら、乾はお腹の空いた子供らしくそれを吸い込んでみる。
(……なんだか、幸せな匂いだな)
乾がそう考えたのが伝わったように、目が合った瞬間、海堂は口元だけで照れくさそうに笑った。

特別贅沢なことをしているわけでもなかったが、乾の15回目のバースデイは、大好きな人と二人
きりのとても暖かで楽しい夜になろうとしていた。




Scene3.

「ああ、すごく美味しかったな。さすが穂摘さんに仕込まれてるだけの事はあるよ、海堂」
「アンタ、3時間も前に食った物のこと、いつまで反芻してるつもりだよ」

海堂がえっちらおっちら作りあげた夕飯は、乾を深く感動させたようだった。
食べる前に料理をビデオに収めたがったのには閉口したが、作った海堂本人にも出来栄えは
まずまずだと思えたし、喜んでくれてよかったと思う。
普段、周囲からは感情が読み取りにくいと言われている乾だが、あれから何かのタガが外れた
ような笑顔で夕飯の感想を並べたてている。

「なあ、また特別な日には作ってくれる?」
「別にいつでも作るっすけど、時間かかるし、アンタの方がずっと料理上手いだろ」

乾が紅茶を淹れる準備を始めたので、海堂は冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
朝のうちに母に連絡できたから、なんとか普通のデコレーションケーキを作る余裕があったらしい。

「そういう問題じゃないだろ。海堂が俺の為に作ってくれるのが重要」
重々しくそう主張する乾を見て、それはそうかもなと海堂も思った。
乾の料理は技術的にもかなりな水準だが、それ以上に自分を喜ばせたいという気持ちが入っている。
だからいつも美味しいと感じるし、幸せな気持ちになれるのだろう。



ワクワク顔の乾と一緒にケーキ箱を覗き込むと、チョコレートクリームで美しくデコレーションされた
小さめのホールケーキが登場した。
色とりどりのフルーツで飾られた中央に立ててあるチョコのプレートには、ご丁寧に『さだはるくん 
おたんじょうびおめでとう!』とまで書いてある。
それを見て海堂は軽く眩暈を覚えたが、本人は大喜びだった。

「俺、手作りのバースデイケーキって初めて。このチョコのプレートのとこ食べていいか、海堂」
「安心しろ。誰も取ったりしねえよ」

小学生の為に用意されたようなケーキにげんなりした海堂だったが、一方でふと気がついた事が
あった。
(もしかして、わざとかよ、コレ…)

今朝、母親に電話をして、ケーキと自分にも作れそうな夕飯の材料を揃えてほしいと頼んだ。
乾が家に一人だから、自分が祝ってやりたいのだと。
だが自分の誕生日には、母はこんなケーキを作らない。
そう考えると、彼女が何か意味をこめて、この楽しげな代物を作ったような気がしてきた。

(先輩には、もっと誕生日を子供みたく楽しむ権利があるって…そう言いたいわけか)
ふんわりした見かけによらず案外食えない性格の母親に、海堂は苦笑する。
だが彼を喜ばせたい気持ちは、二人とも同じなのだ。



乾がポットにお湯を注ぎ、紅茶を蒸らしていたその時、今しもケーキにナイフを入れようとしていた
海堂がぴたりと手を止めた。
焦った声で、「…あ、しまった!」とつぶやくのが聞こえる。
一瞬ケーキを潰してしまったのか、チョコのプレートを割ったのかなどと思ったが、可愛らしい
ケーキにはまだ傷ひとつついていない。

「どうした、海堂」
問いかけると、海堂はひどくばつの悪そうな顔で乾を見上げた。
それからテーブルに未使用のナイフを置くと、突然 「すんません、先輩。俺ちょっと家に帰ってきて
いいっすか。すぐ戻りますから」と言い出した。

「え…え、なに何で?もう11時回ってるぞ。必要なものなら何でも貸すし」
荷物になるから泊まりの日の海堂は乾の服を着ている事もあったし、歯ブラシだって専用のが
ちゃんとある。
こんな夜遅くに焦って家に取りに帰らなければならない物があるとは思えなかった。

だが彼は頑なに首を振り、「どうしても要るもんなんで。2・30分で戻るっすから」としか言わない。
訳が分からない乾は、少々ムッとしてきた。

「学校で必要な物だったら、明日の朝早く出て海堂の家に寄ろう?それならいいだろう」
「や、今いる、から…」

彼を困らせるのは本意ではなかったが、いくら聞いても何を忘れたのか言わない。
明日ではダメだ、今取りに行くという。これではらちがあかない。

だが乾は彼をどこにも行かせたくなかった。
自分の誕生日はあと1時間もしないうちに終わってしまう。
最後まで海堂と一緒にいたかった。ワガママだと分かっていたが、それを通したかった。

「いやだ。どこにも行かせない。傍にいてくれるって海堂が言った」
「……先輩、アンタ…」

こんなことを誰にも言ったことはなかったように思う。
だが乾は海堂の手首を掴んで、子供でも言わないような聞き分けのないセリフを言ってのけた。
海堂の黒い瞳が驚いたように見開かれたが、別に恥ずかしいとも思わなかった。



ひどく切なそうな表情の海堂が何かを言いかけたその瞬間、静寂を破るように電話が鳴り響いた。
二人ともビクッとしたが、乾は眉を寄せると、なんと海堂の手首を掴んで引っぱったまま電話の
子機を取り上げた。

「……はい、乾…ああ、うん、俺だけど」
電話をしている間に、自分が家に帰ってしまうとでも思ったのだろうか。
海堂は自分の左手首をやんわりと拘束したままの乾の右手と、電話をしている横顔をぼんやり
見つめた。

「…うん、大丈夫だって。気にしなくてもいいよ。仕事なんだから、分かってる、ちゃんと」
優しい声が紡ぎ出す聞き分けのいい台詞は、多分彼の母親に向けられていた。
大丈夫、気にするな、仕事だから、分かってるから。
もっとずっと小さい頃から、彼が大人のような顔をして繰り返してきたはずの寂しい言葉。

(なにやってんだよ、あんた…分かってんのかよ)
笑顔でそれを口にしながら、乾の右手は海堂を離そうとはしない。
たった2・30分のことなのに、どこにも行くなと言ったそのワガママを継続させながら。
「実はさ、今日一人だって言ったら、海堂が泊まりに来てくれたんだ」
楽しそうに母親に今日の話をしはじめる。掴まれたままの手首が熱い。

(バカじゃねえの。強がって、平気なフリばっかして)
海堂の心の中に、ごちゃ混ぜの甘くて苦い感情がせり上がってきた。もういっそ泣いてしまいたく
なる。

怖かった。
たくさんついた傷は小さくても、いつかそれが重なりあって乾の心を壊してしまうんじゃないかと。

でも嬉しかった。
子供でも言わないようなワガママを、自分にだけはぶつけてくれた、そんな彼の姿が。


「うん、それで俺に夕飯を作ってくれて。そうなんだ、海堂が料理できるなんて俺知らなかったから
びっくりした……って、うわ!?」
海堂の手首を拘束したままで母親としゃべり続けていた乾は、突然海堂が自分の腕の中にもぐり
こんできたことに驚いて、受話器を取り落としそうになった。

ほんの2歩か3歩。
それだけの距離をつめて、恋人は掴まれていた手さえ払いのけ、乾の身体を両腕でぎゅうっと
抱きしめてくる。
「え、いやあの、なんでもない。ゴメン…そう、すごく美味しくてさ…」

薄いシャツ越しに伝わってくる、高い彼の体温。速い鼓動までリアルに感じて、ドキドキした。
自由になった右手で彼に触れて顔を上げさせようとしたが、いやいやをするように首を振り、もっと
深く乾の胸に顔を埋めてしまう。

……寂しくないっすよ、と言われた気がした。
彼は一言も発しようとしなかったが、全力で何かを埋め合わせようとしてくれていた。


「今からケーキ食べようとしてたとこ。え?甘いものは別腹だって言うだろ」
愛しさがゆっくりと胸に満ちてきて、乾は優しく笑いながら彼の髪を何度も何度も撫でた。
それから艶のある黒髪に自分の頬を押しつけて、目を閉じてみる。さらりとした感触。

大好きな人の存在を、ただあるがままに感じた。
受話器からは母の声が聞こえて、自分も当たり障りのない返事をしていたが、そのやりとりは
奇妙に遠く他人事のようだった。
「…うんいいよ。きっと食べきれないから、置いといてあげるよ」

(どうして俺は、海堂にこんなに大切にしてもらえるんだろう。こんな風に抱いてもらえて)
彼がとても心配しているのが分かる。
乾が傷つくのを見て、彼はもっと傷ついてしまっている。とても気持ちの優しい人だから。

(だけどもう、俺は大丈夫なんだ、海堂)
強がる度に自分から削ぎ落とされてゆく物は、確かにあるのだろうと思えた。
だが今は、彼が与えてくれるものの方が大きかった。

負けが込んでいた自分の誕生日も、今日だけで一発逆転の幸せな思い出に変わってしまった。
彼が、変えてくれた。
(きみは、神様が15年分まとめて俺にくれたプレゼントなのかもしれない)

右手を回し、宝物のように彼を包み込みながら、秘め事ってこういうもんかなと乾は笑った。
それは誰も知らない、電話の向こうの母親も気づかない、密やかな抱擁だった。



「……で、結局忘れ物は何だったんだ?もう白状したら、海堂」
電話を切り、キッチンに戻ると、ポットの中の紅茶はもう出すぎて黒ずんでしまっていた。
どうにもならないなこれは、と乾は新しくやかんに水を入れ火にかける。

時間も11時よりは12時に近くなってしまったので、さすがの海堂も家に帰るのを断念した様子だ。
それに乾は安心したのだが、彼はいまだに忘れ物の正体を言い渋っていたのだ。


チョコのプレートをいったん外して、几帳面にケーキを切り分けた海堂は、一番美味しそうな部分
を皿に乗せプレートを飾ってやった。
自分のうっかりミスを思うと、情けなくてどんどん落ち込んでくる。
だが乾が気にしているし、隠してみても、もはや何の益もないように思えた。

「すんません、先輩…実は俺、プレゼント家に忘れて来ちまったんすよ…」
「え?プレゼントは土曜日デートする時にくれるんじゃなかったのか?」

有名なブランドの名前の入った缶から、惜しげもなく紅茶葉をスプーンで掬い上げたままの妙な
格好で乾が首を傾げる。
(こぼすだろ。戻すか入れるかどっちかにしろよ、アンタは!)
だが微妙な均衡を保っている山盛りの紅茶は、腹の立つことに一粒もこぼれたりしなかった。


「でも、誕生日に一緒にいられることになったから…ケーキ食べる時に渡そうと思ってたっす」
だが、海堂は乾のために夕飯を作ることで頭がぱんぱんだった。
その結果、ずっと前から用意していたきれいな包みは、部屋に置き去りになってしまったのだ。

「…なに、ケーキ食べる時に、先輩おめでとう!ってプレゼントくれるつもりだったの?」
海堂が本当にそうしてくれた時の情景を想像した乾は、自然と笑みが深くなった。
(それはぜひ見たかったな。絶対ビデオに撮ったのに…)

「悪ぃかよ。子供っぽいけど、うちではそうするから、アンタにも…」
そうしてやりたかった、と最後まで言えずに、海堂はまた俯いてしまう。
気持ちがあっても差し出すプレゼントがない。本当に自分はしまらないとがっかりした。

だが、乾は紅茶の葉をポットに入れながら、楽しげな口調でこう言った。
「海堂、あんまり完璧に幸せな人間は神様に嫉妬されるらしいよ」
「はあ…?」
「俺もう99.9%ぐらいまで幸せだから、これ以上うわ乗せしたらマズイんじゃないかな」
「なんなんすか、それ…」



彼がようやく小さく笑ったのに安堵して、乾は時計に目をやった。もうじき日付が変わる。
「さてじゃあ、王子様。お茶はミルクとレモンどちらがよろしいですか」
「誰が王子様だ。バカじゃねえのかアンタ」
うやうやしく腰を落として尋ねてみたのだが、恋人には何やらえらくウケが悪かった。

気の強そうな黒い瞳でこちらを見据えた海堂は、ちょっと考えて「ティーロワイヤルがいいっす」と
注文してきた。
わざと手間のかかる物を言って困らせたかったらしい。乾の反応をじいっと伺っている。


だがもちろん乾は困ったりなどしなかった。
今日彼がしてくれたいろんな事を思うと、それはワガママにも満たない、ささやかすぎるオーダー
だった。

「かしこまりました。じゃあ、書斎のブランデーくすねてくるな」
15歳になってまだ一日の乾貞治は、ご機嫌な口調でそう請け合った。
そうして大好きな人の願いを叶えるべく、鼻歌を歌いながら父親の部屋へと消えていったのだった。