『…つらいか?もうじき薬が効いてくるからな、ちょっとだけ辛抱してくれよ』
何度も何度も髪を撫でながら、低い声がそう言っていた。

信じられないぐらい喉が痛くて、なのに咳が止まらない。
ヒューヒューと喉を鳴らしながら、あまりの苦しさにアキラは泣きたくなった。

その上、悪寒がする。きっと熱が高いのだろう。

寒くて寒くて、苦しい。
何とか楽に眠れる方法はないかと体は模索するのだが、どこにも逃げられそうになかった。

『オッサン…寒い…さむい……』
子供のように訴える度に、源泉の大きな掌が労わりを込めて頬に触れる。
無理に声を出したせいで、また激しく咳き込んだ。
アキラの蒼い眼から溢れる涙も、よく知る指先がぬぐいとってくれる。

寒いのか暑いのかがだんだん曖昧になってきた。
首まですっぽり覆われていた布団をはねのけたが、我慢づよくまたくるみこまれる。
『アキラ…大丈夫だ、俺がいるだろう。なんにも怖くない…』
その言葉は苦痛を取り除くわけではないが、アキラの心に奇妙な満足感をもたらしてくれた。

熱に浮かされた頭の中で、考える。
この優しさは自分だけのものだと。確信したい。

いつも独り占めしているくせに、まだ欲しがる自分はあさましいのかもしれないけれど。
誰かを独占したいと思ったのなんか初めてで、加減がきかない。



深くて重い眠りから覚めて瞼をこじ開けた時、最初に見たのはやはり源泉の姿だった。
ベッドの傍に据えた椅子に座り、仕事の資料だろうか、本を読みふけっている。
だがその表情には疲れが滲んでいて、一晩中寝なかったのだと察しがついた。

差し込む日光の明るさに目を眇め、アキラは考えこむ。
多分、朝なのだろう。何時なのかは分からないが。
(どれぐらい寝てたんだ、俺…)

喉が痛いと気づいたのは昨日の朝のことだった。
だが自分の事には無頓着なアキラが放置しているうちに、あっという間に喉は腫れ、咳き込み
発熱した。
いらないと言い張ったのだが、源泉は近所の医者に往診を頼み、アキラに薬を飲ませてくれた。

やはり源泉の判断の方が正しかった、と内心で認める。
薬を飲んでいても、あれだけ苦しかったのだ。何も処置していなかったら、どうなっていたか。
まだ身体はだるいし、喉も痛かったが、高かった熱は収まっているような感じだった。


オッサン、と呼びかけた瞬間、割れてひしゃげた声に呆気にとられる。
自分の事だというのに、驚いたような顔をしていたのだろう。
本からアキラに視線を移した源泉は、口端だけを持ち上げて独特の笑い方をした。
「ひどい声だな。だが顔色は良くなったか」

ごく自然な仕草で頬に触れてきた両手は、いつもなら暖かいと感じるのに、ひんやりとしていた。
冷たいその手が気持ちよくて、アキラが目を細めると、そのまま額もくっつけられる。
キスの直前のような雰囲気に、どきりとした。


「……体温計…あるだろ」
「病気の子供は、こうやって熱をみてもらうもんなんだよ…まだちょっと熱あるな」

そう言って、改めて体温計を差し出してくるから呆れた。
軽く源泉を睨みながら、襟元を緩め、おとなしく体温計を挟み込む。
いい子だ、とでも言いたげにアキラの頭を撫でると、男はキッチンの方へと消えていった。



病気の子供は、などと一般論を言ったところで、アキラにそんな記憶があるとは源泉も思って
いないはずだ。
まだ火照った頬を枕につける。普通のではなく氷枕という物らしい。
どこでこれを調達したのか聞いたら、小さい子供がいる近所の奥さんに頼んで貸してもらったと
言っていた。
(子供がいる家には、こういうモンが必ずあるって事なのか)

源泉に息子がいた事なら知っていた。生きていればアキラと年が変わらなかったという事も。
普段のアキラは、それを過去の事実として受け止めていた。
だが昨夜からの源泉のてきぱきとした看病ぶりを見ていると、胸の奥が軋んで音をたてた。

(本当にいたんだな…家族)
あの男が一生を共にするつもりで選んだ女性。二人の間に生まれた子供。
その存在をやけにリアルに実感させられた。


嫉妬する気持ちがないとは言わない。だがそれとも微妙に違っているような気がした。
あえて言うのなら、それはいたたまれなさのようなものだった。

アキラに惜しみなく注がれる愛情も優しさも、本当は他の誰かのものだったのだと。
そう思い知るのは辛かった。ことに身体が疲弊している今は。

だから置いてけぼりにされた子供のように、源泉が出ていったドアをじいっと見つめる。
(……戻ってこい)
別にテレパシーを信じているわけでもなかったが、心の中でつよく念じた。

途端にトレイに何かをのせた源泉が姿を現したのに心底驚く。
男と目が合った瞬間、はずみでアキラはまたコンコンと咳き込んでしまった。
焼けるように痛む喉を手で押さえ、身体を丸める。

「おいおい、大丈夫か」
慌ててトレイを置くと、源泉は涙目になって咳をするアキラの背中をさすってくれた。


アキラが落ち着いたのを見て取ると、源泉は唐突に「食うか?」と尋ねてきた。
机に乗せられたトレイを見ると、ガラスの器の中に何やら白っぽい塊が入っているのが分かる。

「何だ…あれ」
「何ってお前さん、桃缶食ったことないのか」
「モモカン……?」
「あー桃缶てのはだな、要するに桃のカンヅメだ」
缶詰は分かる。だが桃というのが分からなかった。多分、果物なのではないかと思うのだが。

戦争続きで食料事情が悪かった為、アキラの世代はソリドという固形簡易食を当然のように
摂取して育った。
国情が安定してきた今も嗜好品は高価だし、果物など庶民が気軽に口にできるものではない。
缶詰とはいえ、高いのではないだろうか。いったいどこで手に入れてきたのだろう。
まずアキラの頭をよぎったのは、そういう所帯じみた疑問だった。


だが源泉は妙に得意げな顔をしてアキラを起き上がらせると、ガラスの器と小さなフォークを
手渡してくる。
早く食ってみな、と言わんばかりの様子に、アキラは仕方なくフォークをその塊へと差し込んだ。

(甘そうだな…これシロップだろ…)
桃が浸かっている透明な液体を、不審げに見つめる。
何となく砂糖の味が連想されて口に入れるのが躊躇われたが、食べないわけにもいかない。
だが、よく冷えたその果物は、アキラの予想を裏切って思いがけず心地よい甘さだった。
噛むと果汁が溢れて、腫れてしまった喉をひんやりと潤してくれる。

「……うまい、これ」
びっくりして源泉を見上げると、そうだろそうだろという顔で笑うから、少しだけ悔しくなった。

「お前、お子様味覚だからな。好きだろうと思った」
「うるさい。喉渇いてたんだから、しょうがないだろ」
「ホントはな、生の桃はもっと美味い。いつか食わせてやるからな」
「ふうん…」

元来、食べる事に興味の薄いアキラだったが、桃缶の味は気に入った。
あっという間に器の中身をカラにするのを、源泉が楽しげな顔で見守っている。
それが、少し気恥ずかしくて。
だが自分の事を思ってくれているのだと分かるから、じんわりと胸が熱くなった。


「昔…子供にもコレ食わせてやったことあるのか」
「うん?なんだ、やぶからぼうに」
「いや。アンタ、看病の仕方が手慣れてたから、なんとなく」

その言葉に源泉は軽く目を見はったが、やがて視線を光の射しこむ窓へとゆっくりと逸らした。
言葉にならないような思いが、そこには浮かんでいた。
なにかを懐かしみ、なにかを後悔するような横顔。
それは出会った頃、朽ちた教会で祈りを捧げていた源泉の姿をアキラに思い起こさせた。

「……ごめん。オッサン、俺…」
馬鹿な事を聞いてしまった。
後悔が押し寄せてきて、考えるよりも先にアキラの口からは謝罪の言葉が飛び出していた。
割れてしゃがれた声。
まるでその声のように、自分をひどく醜いと思った。

(悲しませたいわけじゃないのに。なんで、俺は)
それでも知りたいと思ってしまったのだ。
喉の奥がつかえるような感覚に、ああ、泣きそうだと他人事のようにそう思う。

この優しさが、見たこともない誰かに、溢れるほど注がれていた。
そのことを、同じぐらいの強さで知りたくないと思いながら…自分は。


「なーに謝ってんだ、お前は」
急に夢から覚めたような顔で、源泉がまっすぐに見つめた。今ここにいるアキラを見ていた。
大きな掌が、くしゃりと髪を撫でてゆく。
「…なんて顔してる」

そのまま顎の下で手を組む仕草に、はっと気づかされた。
ヘビースモーカーもいいところな源泉が、昨夜から一本も煙草を吸っていなかった事に。
煙草の匂いが男の身体に染み付いているせいで、失念していた。
その気遣いに触れてしまうと、じわりとまた意識のどこがが緩んでいく。

「俺はお前が思ってるほどいい父親じゃなかった。いつだって仕事優先で…ボウズが病気の
時も嫁さんに任せとけばいいって思ってたしな…」

だから看病したことも桃缶を食わせてやったこともなかったな、と源泉は穏やかな口調で
告げて笑う。
だがその声音には、そうしてやればよかったという思いが滲んでいた。
一度だけでもいいから。

時間は決して巻き戻せない。
取り返しのつかない何かを、一人一人が抱え込んでいる。
この心根の優しい男が、自分で言うほど家族を蔑ろにしていたとは、アキラには思えなかった。

(でも、本当はそうだったのかもしれない)
自分自身の過去を思い返し、アキラは傷をなぞったような疼痛を覚える。

失うことを知らなかった過去の源泉は、平穏な日常が続いていくと信じていたはずだ。
明日もあさっても、その先もずっと。
愛する人は傍にいるのだと、当たり前に思って生きていた。
それが、この上もなく残酷に踏みにじられる日が来るとも知らずに。



「お前はどうしてたんだ?一人で暮らしてたんだろう、風邪ひいた時とか」
俯いて考え込んでしまったアキラの気を引き立てるように、源泉がそう尋ねてきた。
だが、大変難しいことを聞かれたように、アキラは余計に眉を寄せた。

「オッサン…俺、風邪ひいたの、これが初めてなんだ」
「あぁ?そりゃまたお前さん、健康だったんだな」
「びっくりした。こんなに苦しいと思わなかった」

ぼそぼそと喋るアキラを見て、源泉は面白そうに笑い、汗で湿った前髪をかき上げてくれた。
そして、『話がしたいんなら、せめて横になってろ』 と告げる。

アキラは素直に頷くと、氷でゴロゴロした感触の枕にもう一度頭を乗せた。
そのまましばらく考えを纏めるように目を伏せていたが、やがて眼差しを持ち上げた。
そこには、自分の言葉を待ってくれている源泉の姿があった。
それに促されるように、もう一度、掠れた声で話しはじめる。

「孤児院にいた頃…ケイスケがよく風邪をひいて寝込んでたんだ…」
子供の頃の幼馴染の姿が、ぼんやりとアキラの瞼の裏に浮かんだ。
白い部屋の寒々としたベッドに横たわったケイスケ。
もともと気管支が弱かったらしく、冬になるとすぐ喉をやられては熱を出していた。

だが大人数で集団生活をする孤児院では、たかが風邪でも流行ると大事だ。
だからケイスケはいつも救護室に収容されていた。いわば隔離だった。

「俺には…分からなくて。どれぐらい苦しいかとか…」
「ああ」
「だけどある日病室を覗きに行ったんだ。別に理由なんかなかった…ただ気が向いただけで」
「けど喜んだだろ、ケイスケのやつ」

源泉の言葉にコクリと頷いた。ケイスケは、確かに本当に嬉しそうな顔をしていた。
『アキラ…アキラ。来てくれたんだ。こっち入ってきなよ』
誰もいないし、退屈で寂しかったとか色々言っていたような気がする。
だが勢いこんで喋っては激しく咳き込むケイスケが辛そうで、どうにも見ていられなかった。
だからアキラは結局何も言葉をかけることもせずに、早々にそこを立ち去ってしまったのだ。


「なにか言ってやればよかった」
「……」
「俺だけこうして看病してもらって、優しくされて…そんな資格ないんだ、本当は」
「アキラ」
宥めるように、源泉の大きな手が投げ出されたアキラの手を捕らえた。
そのまま指を絡めて、お互いにつよくつよく握りこむ。

自分がどんなに幼くて傲慢だったのかを、今さらのように思い知ってゆく。
後悔ばかりが、降り積もる。
だが、時を巻き戻せたとしても、自分はケイスケに何も言えないとアキラには分かっていた。
痛みも苦しさも、そして失う恐怖も。
あの頃の自分は、何ひとつ知らなかった。知ろうとも思わなかったのだ。


握った手をそのままに、源泉が空いた方の手でアキラの頬をゆっくりと撫でていた。
ささくれ立ってしまった心を慰めるように、静かに。
言葉を探しあぐねるようだった男は、さまよっていた手を、やがてぴたりと止めた。

「なあ、アキラ。俺も、時々考えることがあるんだ…」
声に促されて、ぼんやりと見上げた。
寝不足の顔をして煙草を銜えていない男は、アキラに妙に見慣れない印象を与えてきた。
「家族を幸せにできなかった俺に、アキラを幸せにする資格なんかあるのか、ってな」
「オッサン…?」

言われた事の意味を悟った瞬間。
急に恐怖感のようなものがせり上がってきて、アキラはやみくもに首を振った。
そんなことない、そんなことはないと言いたかった。
資格なんかいらない。アンタさえいれば、それでいいんだと。
だが胸の必死さに反して喉は詰まり、言葉になってはくれなかった。

だがそんなアキラの思いすら汲み取ったように、源泉は指先で愛しそうに触れてくる。
瞼に、頬に、耳朶に…最後に震えている唇を何度もなぞった。

緊張のあまりヒューヒューと鳴るアキラの喉が、落ち着いた呼吸を取り戻すまで待ち続け。
長い沈黙の後に、男は照れくさそうな顔で、ゆっくりと言葉の続きを紡いだ。

「だがな、幸せにしたいんだ。大していい暮らしができるわけでもないが…お前を」
「……源泉…」
「笑って、怒って、いろんなことを話して、一緒にメシを食って」
「…ああ」
「お前には、当たり前みたいな顔でワガママを言ってほしいんだ、アキラ」


その朴訥な言葉を聞いた瞬間、くしゃりとアキラの表情が歪んだ。
まるで押し出されるような激しさで、蒼い瞳から涙が溢れ、こぼれる。
心のどこかとても敏感な場所に触れられ。
あとからあとから溢れてくるものが、新しい珠を結び、雫となって伝いおちていった。

よく似た後悔を抱えた自分たちは、だが、過去を贖うことはかなわず。
それでも、今、離したくないと思う人がいた。

そのむき出しの感情が、美しいものではなかったとしても。エゴと呼ばれても。
自分と源泉の二人には、ただそれだけが本当のことだった。


「オッサ…源泉、もとみ……」
「ああ、こら、泣くな。また咳が出るだろうが」
「泣いてなんか…ない…」
「お前さん、この状態でまだそんな主張をするかね…」
起き上がろうとしたアキラを腕にすっぽり抱きこみながら、源泉は困惑したような声を出した。

固く抱きしめあううちに、体温が溶けてゆく。
お互いの髪をまさぐり、背中を撫でて、頬を寄せあった。
ざらり、といつもより伸びた源泉の無精ひげに顔をしかめたが、それすら愛しく思えて困った。

だからアキラは泣き続けた。
身に馴染んだ煙草の匂いに包まれたままで。
祈るように男の背中を抱き、気の済むまで、愛しているんだと心に刻みながら、ただ涙を零した。



「治ったら、イイコトいっぱいしような?」
抱きしめていたアキラの身体をゆっくりとベッドへ横たえながら、源泉はにやりと笑ってそんな
事を言った。
真っ赤に泣きはらした目元と頬にひとつずつ、キスのおまけもついてくる。

ようやく我に返ったアキラは、いつもよりもさらに無愛想な態度で、「風邪、伝染るだろ」と言い
ながら源泉の顔をグイグイ押しのけた。
しかしこの男の腕の中であれほど泣きじゃくった後では、冷たくしても全く説得力がない。
あまりの気恥ずかしさに、どこかへ消えてしまいたいような気分にさせられた。


「治ったら…やることあるから、付き合えよ」
「やること?構わんが、何だ」
「氷枕、買いに行く。どこに売ってるか知らないけどな…どこなんだよ、オッサン」
「薬局じゃないのか?でも、お前治ったらもう要らんだろうが」
「アンタが風邪ひくことだってあるだろ」

拗ねた口調でそう言ってやると、源泉は呆気にとられたような顔をしたが、やがて横を向いて
遠慮なく笑い出した。

「なんだよ」
「いや…オイチャンが風邪ひいたら、アキラが看病してくれるのか。そっかそっか…」
「できないと思ってんだろ」
「そんな事はない。このまま伝染ってもいいぐらいだ」


妙な浮かれ方をする男にため息をつくと、アキラは「アンタも少し寝ろよ」とそう告げた。
タフではあるが、源泉もいい年だ。さすがに徹夜はこたえるだろう。
泣いたせいか、自分も疲れてしまった。
言っている傍から、もう眠気がさしてきている。

「ああ、じゃあアキラが眠ったの見届けたらな。オイチャンも一眠りするか」
そう言った源泉にコクリとひとつ頷いてみせてから、アキラはゆっくりと目を閉じた。


視界を閉ざしても、自分を見守る人の気配がしている。
それを感じていたい気もしたが、眠りのとばりが次第に降りてきた。
髪を撫でられたのに気づき、ほんのわずか、笑う。

とろり、とした安寧。
それに身を任せる1秒前に、アキラは
この男と、死ぬまで一緒にいたい。そんな事を本気で思った。