「薫、乾くん見えたわよ」
海堂の母、穂摘が玄関口から彼を呼ぶのを、乾は満面の笑みを浮かべて見ていた。

新年明けて、5日である。
本当は初詣も兼ねてもっと早く海堂に会いたかった乾だが、海堂に予定を聞くと 『新年1・2日は
家族で、3・4日は親戚ん家で新年会なんすよ』 とあっさり断られ、肩を落としたものだった。

だが乾はすでに、海堂家が家族の行事を大切にする家だと察していた。
やっと両思いになれたばかりの海堂を困らせるなど、もっての他だ。
乾の気配りを察したのか、海堂も5日以降なら構わないとそう言ってくれていた。


かくして、海堂家の玄関に迎えに馳せ参じている乾だったが、今日は思わぬ収穫もあった。
(ほんと、いいもの見られたなあ)
いいものというのは、海堂の弟、葉末だった。

似ていると話には聞いていたが、葉末はまさにプチ海堂であった。
顔立ちも、キツめの黒い瞳も、綺麗な髪も、長い手足もそのままで、新年早々小学生の時の
海堂にお目にかかれたような気分だ。
ただし乾に自覚はなかったものの、はたから見れば不審者そのものだったのだが。


「しかし葉末くんと海堂、本当にそっくりですね。驚きました」
「乾くんは兄弟は?」
「あ、俺は一人っ子なんです。弟がいるのって羨ましいですね」

そう言って、まじまじと自分を見上げている葉末ににっこり笑ってみせる。
海堂の家族に気に入られるためなら何でもするが、努力の必要もなく穂摘も葉末も好きに
なれそうだと思った。
大切なあの子を育んでくれた家族なのだ。


「乾さんはすごく大きいんですね。僕どうしたらそれぐらい大きくなれますか」
「ん?いっぱい牛乳飲んでね、運動したら大きくなれる」
「僕、牛乳あまり好きじゃないんですけど…」
困ったような声を出す葉末の上に、乾はくすくすと笑いながら屈みこんだ。

「俺もね、あまり好きじゃなかったんだけど、中学入った時すごくチビで悔しくてね。我慢して
いっぱい飲んだ。やっぱり努力しないとね。お兄さんがそうだろう?」
海堂のことを口に出すと、葉末はにわかに嬉しそうに笑って頷いた。
「はい!兄さんはいつもがんばってて、かっこいいんです!」

(海堂が大好きなんだな、カワイイなあ)
抑えてもにやける口元をごまかすのに必死な乾であった。


その時、「先輩、待たせてすみません」と珍しく慌てた様子で、海堂が姿を見せた。
新年初顔合わせだ。
新年明けましておめでとうございます、ときちんと頭を下げる海堂に同じ挨拶を返しながら、
それだけで乾は幸せいっぱいになってしまった。

「兄さん、出かけちゃうんですね」
しゅんとした声の葉末の頭をぽんとひとつたたくと、海堂は「なるべく早く帰るから、宿題しとけよ」
と声をかける。

すると穂摘が突然、「乾くん、良かったら後で戻って来て。一緒に夕ご飯食べましょう」と提案した。
葉末の顔もぱっと輝く。
「そうしてください〜今日はお父さん遅いんです」

乾にとっては願ってもない話だったが、一応海堂の方を見て“いいの?”とお伺いをたてた。
海堂が苦笑しながら頷く。
家族がいるせいか、いつもよりずっと表情が柔らかい。

許可が出たことに安堵した乾は、とっておきの笑顔を浮かべ「じゃあ、遠慮なくごちそうになります。
海堂の弁当いつも豪華だから楽しみだな」と言ってのけた。
リップサービスが過ぎると思ったのか海堂は顔をしかめたが、穂摘はウキウキした様子で「じゃあ、
はりきって作るわね」と請け合った。

ともあれ乾の海堂家デビューは、上々の滑り出しと言えそうであった。



一応初詣という話だったので、二人は最寄りの神社に向かってぶらぶら歩いていた。
勿論、お互い初詣などとっくに済ませていたが、付き合って初めて迎える新年だ。
いっしょにお参りをしたいという気持ちは、両人ともに持っていたのだ。

今日珍しくスタートでもたついた海堂の横顔を見て、疲れてるのかなと乾はいぶかった。
昨日親戚の家から帰って来たのだし、翌日の約束はやめておくべきだっただろうか。


「お疲れさま、海堂。親戚の集まりなんて、ちょっと苦手そうだよな」
襟元に毛皮のついた黒いダウンジャケットを着た海堂は、乾の言葉に曖昧に頷いた。

「まあ、それもあるんすけど、呑まされるもんで…」
「……は?」
「祖父やら叔父やらが面白がって、酒を飲ますんですよ。しゃべらされるより飲んでた方がマシっ
すけど」

なんでもないことのように言う海堂に、乾は目を丸くした。
大人が面白がって子供に酒を舐めさせるのはよくある話だが、どうもその程度ではないらしい。

「か…海堂、お酒つよいの?」
「まだ限界まで飲んだことないから分かんねえけど、多分。あんま酔わないんすよ、俺」
さすがに今朝は寝過ごしたけど、という海堂を見て、乾の脳裏に酒豪という言葉がグルグル回った。

「ちなみに何飲んでたの、ビール?」
おそるおそる聞くと「いや、日本酒と…あと焼酎」という男前な返事が返ってくる。
(そりゃ、ビールより日本酒の方が似合うけどな!)

乾とて、酒を飲んだことがないわけではない。
だが果たして大人になった時、海堂に付き合って飲めるほど自分が酒に強くなっているだろうかと、
遠い未来まで思いを馳せて憂いてしまった。
(アルコールについては、多分に体質の問題があるからな…)
気合と努力だけではどうにもならん…と頭を抱える乾を、海堂は不思議そうな顔で見上げていた。



年末に怒涛の展開で付き合うようになってから改めて知った事だが、乾は本当にマメな男だった。
電話はかけてくるし、一緒に帰るし、会えない日が続けば今日のようにデートを申し込んでくる。
クリスマスにはきっちりプレゼントを寄こした。
どこにも隙も見当たらない、見事な交際っぷりである。

(その上、しょっちゅう好きだとか言うしな…)
そう考えて、海堂は俯き、ちょっと赤面してしまった。

乾は海堂から告白されたことを一生の不覚だと考えているらしく、それを埋め合わせるかのように、
好きという言葉を惜しまない。
(考えてみりゃ、俺はあの日以来一回も言ってねえし)
海堂的にはそう頻繁に言う事ではないと思うが、乾といると自分があまりにも言葉が足りないような
気がしてくる。

(…どうしたら、伝わるんだろうな)
少し先を歩いていた乾の背中に、無意識に手を伸ばし、また引っこめた。

ふと、あの日以来、乾が自分に触れようとしないのに思い至る。
雪が降りしきる中で痛いぐらいつよく抱きしめられて、何度も好きだと言われたのが、現実だと思え
なくなってくる。
(なんでだろう。今さら俺が男だって気づいたわけでもねえだろうし…)

一人で考えていると、何だかグルグルしてきた。
その時、ふいに乾が振り返り、眼鏡の奥でひどく優しい目をする。
それを見てしまうと、さすがの海堂も乾の気持ちを疑う気にはならなかったのだが。



今頃お参りに来る人間などいない神社は、閑散としていた。
大きな木が葉ずれをたてるのを聞きながら、それでも二人は行儀よく時期外れの参拝を済ませた。

「…さてと、これからどうする海堂?俺ん家で昼ごはん作ってあげようか?」
神社を出てそろそろ昼メシ時だなと思った瞬間、乾にこう提案された海堂は、グッと言葉につまった。

「アンタが作るメシ……」
そう唸るようにつぶやいたまま、深い沈黙に陥る。
乾の作る汁のまずさは、この頃すでに青学テニス部に浸透しつつあったのだ。
もちろん海堂も例外ではなく、その犠牲者になっていた。

「俺、料理上手いから心配しなくていいよ…って、おーい海堂?」
「え!?」
「その不信感に満ちた目はどうなんだろう。俺が海堂にまずいもの食べさせるわけないじゃない」

(部活中にそのセリフを俺に言ってみろ…)
さわやかに笑う乾をうろんげな眼差しで見上げながら、海堂は切実に身の危険を感じていた。
汁だけであの破壊力なのだ。ランチなど食べて、果たして生きて帰れるのか。

(やめとけ、逃げろ、俺!!)
自分の本能が逃げることをガンガン推奨しているのを感じ、冬だというのに海堂は嫌な汗をかいた。

だが一方で、乾の家には行ってみたい気がした。
海堂はまだ乾家に足を踏み入れたことがなかったのだ。
それはそれでキケンだと思わないあたり、海堂も相当天然ではあったが。


ひとしきり心の中で葛藤を繰り返したあと、海堂はついに腹をくくった。
「じゃあ…お邪魔します。あ、でもちょっと寄りたいとこあるんでいっすか」
「どこへでもお供しますけど、どこ行くの?」
「レギュジャができてきたって電話あったんで、受け取りに」

実は、二人が付き合い始めた直後のランキング戦で、海堂はついにレギュラーを獲得していた。
12月ということで時期も中途半端だし試合もないが、大所帯の青学テニス部のほんの一握りに
食い込んだことは間違いない。

ぽかーんとした顔になった乾を見て、「先輩?」と海堂は乾の顔の前で軽く手を振ってみた。
途端に両手でがしっと肩を掴まれ、驚いて腰が引けてしまう。

「見たい!!」
「はあ?あんたレギュジャなんか毎日腐るほど見てるじゃないっすか」
「海堂が、着たとこを、最初に見たいんだ!!」

激しく主張する乾は真剣そのもので、うわ、この人マジだと海堂は頭痛を覚えた。
「物好きっすね、先輩も。誰が着たって一緒っすよ」
「何言ってるの。大事なことだろう」

重々しくたしなめられて、海堂は反論する気をもはやなくした。
乾がマニアックなのを今さら嘆いてみても、既に二人は付き合っているのだ。
お互いの欠点は、生あたたかい目で見なければならないのかもしれない…と海堂はようやく悟り
つつあった。




「海堂はそこに座って待ってて。マガジンラックにテニス雑誌とか入ってるし」
「…っす」

乾に言われて素直にソファに座ったものの、海堂には雑誌よりも興味を引くものがたくさんあった。
まずマンションという建物自体が珍しい。
(マンションって、こんな風になってんだな…)
同じ階層にすべての部屋があるというのが不思議だった。
しかも上下には全然他人が暮らしているのだ。
生まれた時から今の家に住んでいる海堂にとって、それは非常に奇妙に思えた。


食卓を挟んで向こう側のキッチンでは、乾が慣れた様子で料理をしている。
その手つきに迷いはなくて、味はどうだか知らないが全体的に様になっていた。

聞けば乾の両親はそれぞれに地位のある仕事に就いているらしく、三人揃って食事をすることなど
めったにないらしい。
幼い頃からそういう環境だったので、必然的に自分で料理をするようになったと、どこか苦い口調で
話してくれた事があった。

こまめに動き回り、包丁を使う乾を見ているうちに、トマトとオリーブオイルとにんにくというイタリア
料理特有の香りがし始める。
(あ、キャベツ。何に使うんだろう)


匂いに食欲中枢を煽られながらも、海堂はこの家に入った時の印象を思った。
乾の親が共働きなのも、兄弟がいないのも知っていたが、乾が自分で鍵を開けて中に招き入れて
くれた時、胸がツキンと痛くなったのだ。
人の気配が感じられない家。

海堂ももちろん自分の家の鍵ぐらい持っていたが、それを実際に使うことはほとんどなかった。
家に帰ると、まず必ずと言っていいほど母がいて、葉末もいる。
「お帰りなさい」と言ってもらえる。
そういうのを当たり前だと思っていた。

だが、乾は違う。
そういえば以前、体調が悪くてもさっさと医者に行き、親に面倒かけないようにしてるとも言っていた。

(メシも自分で作って、一人で食って、片付けんのか…)
寂しく、ないんだろうか。その問いは喉まで出かかっていたが、何となく言えなかった。
同情してると思われるのは、嫌だった。
でも、考えるほどに、ひどく胸が痛い。



乾は料理をしながら、背後の海堂の様子をずっと観察していた。
どうもよその家が珍しいらしく、雑誌にも手を伸ばさず、おとなしく周囲を見回して何か考えている。

(なんか、本当に猫みたいだな)
時々、その視線が自分の背中に集中しているのを感じて、少し緊張した。
(うーん、何を考えこんでるんだろう)

思った以上に簡単に、家に来てくれたということは、警戒心がない証拠かもしれない。
乾に不埒な真似をされるかもしれないとか、思いつきもしないのだろう。
それはそれで問題というか、今後の課題だなと思ったりもしたのだが。


しかし、とりあえず乾は幸せだった。
こんなに料理をするのが楽しいと思ったのは初めてだったのだ。
自分以外の誰かにご飯を作ってあげて、一緒に食べる。
しかもそれは好きな人なのだ。ウキウキしないわけがない。

すると突然海堂が、するりとソファから抜け出して、乾のすぐ後ろの食卓の椅子に座った。
その気配を感じて、乾は首だけ振り向くとくすりと笑って見せる。
「なに、お腹すいた?」
「いや…あんたが料理するとこ、見てたい」

その言葉に乾は、左手に握っていたパスタをあやうく握りつぶしそうになった。
(…か、可愛い。本人自覚ない分、凶悪だな……)
その思いを気取られないようにと苦労しながら、沸いた湯の中に輪を描くようにパスタを投入する。
気をつけないとアルデンテどころではなくなってしまう。


「なに考えてたの、海堂?」
しばらくパスタを茹でていた乾が、背中を向けたままで優しく聞いてやると、海堂はいつものように
ぽつりぽつりと言葉を選んで話し始めた。
乾は、彼のその不器用なしゃべり方がとても好きだった。

「あんたって、ホントに何でもできるんだなと思って。…俺とは大違いだ」
キッチンタイマーがカチカチと音をたてるのを邪魔に思いながら、乾は片手で菜箸を動かし、意識
だけは海堂に集中する。

「そう?褒めてもらえるのは光栄だけど、俺は今まで自分の事があまり好きじゃなかったよ」
「……え?」
「親にも学校でもそつなく振舞って、毎日平穏って言えば聞こえはいいけど退屈で。つまんない奴
だった前は」
「前は、っすか…?」
茹で上がったパスタをざるにあげると、ざっざっと水を切り、メインの料理の仕上げにかかる。

「不眠症になった時にさ、不二に言われた。“乾がこんなダメ面白い人間になると思わなかった”
って。あの時は分かってなかったけど、褒められたもんだなあって」

『それ褒めてんのか?』 というように眉を寄せた海堂を見て、乾は思わず笑ってしまった。
「海堂を好きになったおかげで、俺は人間らしくなったんじゃないかな。焦ったり必死だったりで
カッコよくないけど俺も今の俺が好きだよ」


海堂は無言で、言われたことをじっと考えてみた。
その様子はまるで、定位置に丸まったおとなしい黒猫のようだった。

言われてみれば、知り合った頃に比べ、乾は表情が豊かになっただろうか。
あの分厚い眼鏡に阻まれて他人には分かりにくいだろうが、自分には色々な顔を見せてくれる。

(そういや、情けない面とか、泣きそうなとことかも結構見てるか…)
でも海堂はそれが嬉しかったし、乾本人も海堂を好きになってからの変化だと言ってくれる。
(俺でも、この人に何かしてあげられてんのかな)
そうならいいなと思った。自分はたくさんたくさん乾に貰ってばかりいるのだから。


ぼんやりとそんな事を考えていた隙を狙われたのだろうか。
食器棚から皿を取り出した乾が、何かのついでのように無造作に海堂の頭上に屈みこんだ。

「好きになってくれて、ありがとう」
「……っ!」
とびきり甘い声が爆弾みたいに降ってくる。
首をすくめた海堂を見ると、乾は満足そうにくすくす笑って料理を盛り付け始めた。



「簡単なもので悪いけど、どうぞ」
満面の笑みを浮かべた乾にそう言われ、謙遜しすぎると却ってイヤミだろと海堂は心中突っこんだ。

カトラリーとお箸がきれいにセッティングされた食卓に乗っているのは、ガラスの器に盛られた白っ
ぽいサラダとトマト味でベーコンと野菜を煮込んだラタトゥユ、そしてメインはツナとキャベツのパスタ
だった。
ちゃんとパンも添えてある。
(ちゃんとした店のランチみたいじゃねえか…)
少なくとも、見た目は。そう付け加えるのも忘れなかったが。


「……いただきます」
手を合わせると海堂はまず箸を取って、サラダの味見にかかった。
さすがにここまで来ると匂いで分かるので、倒れるほどまずいかもという心配は消えていたのだが。

口に入れて、ゆっくり噛んで、飲み込んで。
少し考えた後、海堂は「…めちゃくちゃ美味いんすけど、どうなってんすか」と複雑な顔で言った。
「イヤ、海堂。そんな不本意そうに、めちゃくちゃ美味いとか言われてもね…」
海堂が箸を付けるのを見守っていた乾は、さすがに苦笑気味だ。

「これ大根…すよね?あと貝柱と…」
平たいパスタ状に切った薄い大根に、貝柱とグリーンの葉が混じっている。
しゃきしゃきしていて美味い。

「うん、カンタンなんだよ。大根塩もみしてちょっと洗って、缶詰の貝柱入れて、マヨネーズと缶詰の
汁で和えてるんだ。黒こしょう振るのと、クレソンを最後に入れるのがコツ」

そう説明されると、確かにそんなに手間はかからないのかもしれない。
だが料理好きの母を持つ海堂は、料理の出来栄えの良さには色々な要素があるのを知っていた。
素材の切り方とか、彩り。器や盛り付け方も大切だ。

(いろいろ考えて作ってくれてるんだな)
そう思うと、余計美味しいような気がした。
野菜もたくさん使われていて、煮込みにはトマト・玉葱・ピーマン・なす・ズッキーニなどが入っている。
ツナとベーコンを使っている以外は、全体的にかなりヘルシーなメニューだった。

空腹も手伝ってぱくぱくと、でもきれいな所作で食べ続ける海堂を見て、乾は目を細めた。
それから自分も向かいに座って、「いただきます」と手を合わせる。

「こんな美味いもん作れるくせに、あの汁は何なんすか」
「ん?ご飯の味、心配してた?」
「いやまあ…少し」
「まああの野菜汁はペナルティの意味もあるからな。少しばかりまずく仕上がっててもしょうがないよ」
「少しばかりだ!?あんたの味覚、局地的にぜってーおかしいぞ」


口に物が入っている時は喋ってはいけないので、海堂は食べながら話すのに苦戦している。
乾は、海堂のそういうきちんと躾けられている所もとても好きだ。
母の穂摘はふんわりした感じの人だったが、多分礼儀には厳しいのだろうなと思う。
それを当たり前に育っているので、海堂の礼儀正しさや人に親切にする様子には不自然さがない。

(人の嫌がることをしないって、考えてみればすごい事だよな)

彼が当たり前にやっている事を見て、乾自身も襟を正すことがある。
海堂が学校でお弁当を食べる時も、きちんと手を合わせて「いただきます」「ごちそうさまでした」と
言うのを初めて見た時はびっくりした。

だがあれは本来、作ってくれた人に対する感謝の言葉だ。
場所が学校だろうがどこだろうが関係ない。
自分が作ったものを、自分で食べていた時には気づかなかった。
ご飯を作ってくれた人に一言もなしに食べるのは、本当に無作法なことなのだ。

だから乾は習慣づけるために、最近は一人の時でもちゃんと手を合わせるようにしている。
その時だけやっていたら、つけ焼刃なんだときっと海堂に分かってしまう。そんなのは恥ずかしい。


「海堂はずいぶん色々しゃべってくれるようになったよね。あの猫を拾った時なんか、まだ警戒心
強くてほんのちょっとしか話さなかったのに」

乾がフォークとスプーンで器用にパスタを巻きつけるのを感心して見ていた海堂は、視線を乾へと
戻した。そして、振られた話題について考えてみる。

「それは先輩が、いつも待ってくれるからだ」
「待つって?」
「俺が言いたいこと言えるようになるまで、あんたいつも待ってくれるだろ。だから慌ててしゃべら
なくていいんだって分かった」

この人のそういう思いやりが、最初からとても好きだったように思う。
自分は不器用だし、顔や目つきでとっつきにくさに拍車をかけていると知っていたから、誤解されても
仕方ないともう諦めていたのに。
乾が、嫌な顔もせずに自分の言葉を待ってくれているのを知って、どんなに嬉しかったかしれない。


(そうだな、俺は先輩が何でもできる人だから好きになったわけじゃねぇんだ)

乾とて、最初から何でもできたわけではないだろう。
彼が知識や強さを手に入れるためにどれくらい努力しているか、今の海堂は知っていた。

だから、何も返せないと卑屈になるのはよそうと思う。
自分は努力をするのなら得意だ。この人と同じように努力すればいいのだろう。
そうすれば、いつか乾の役に立てることもあるような気がした。
わだかまっていた気持ちが少し晴れて、海堂は冷めないうちにとランチへ再び意識を戻した。


「俺はあの頃、海堂がちょっとでも多くしゃべってくれると嬉しくてさ。どういう話題だと乗ってきてくれ
るのか統計を取って…」

美味しいランチをゆっくり味わって食べていた海堂は、調子に乗った乾が喜々として言い出した
内容に気づいて、ぎょっとした。
思わず、フォークを動かす手を止めてしまう。

「待て!アンタそんなくだらねー事までデータ取ってんのか!?」
「くだらないとは心外な。こっちは好きな人と親密度を上げようと必死だったのに」

わざとらしい泣きまねをしてみせる乾を睨みながら、海堂は気恥ずかしくて死にそうになった。
自分なんかと話すのに、何故そこまで手順を踏むのか。
ていうか、何が理由で乾にそこまで執着されるのか、どうにも理解できない。いまだに。

(ああ、分かんねぇ、この人俺のどこがそんなにいいんだ)
精神的にかなりヨロメキながら、海堂はとにかくそのデータを捨てろと乾に迫った。


「え〜!?」
「え〜じゃねえ!ノートに書いてんなら捨てろ。パソコンなら抹消しとけよ」
「俺の大事なスイートメモリーをゴミ箱に捨てろと…」
「ノートだな。後で没収するから」
「ひどいよ海堂〜俺が個人で楽しむだけだから見逃して」
「とか言いながら、先輩、あの写真横流ししたっすよね」
「うっ…あれは高梨と不二に脅迫されて、仕方なかったんだ……」


猫を拾った時の海堂の写真は、高梨家だけではなく自称・写真好きの不二にまで横流しされていた。
その事をあてこすってやると、さすがの乾もしょんぼりとうなだれてしまう。
人の感情に聡い乾が、海堂の嫌がる事を分からないはずがない。
なのに、何故あの写真や観察日記もどきのようなデータに執着するのだろう。

“しょーがねー人だな” と思いながら、海堂はランチをきれいに食べ終わり、「ごちそうさまでした、
すげぇ美味かったっす」と頭を下げた。
そしてさらに少し考えて、言葉を付け加える。

「もうそんなの必要ないだろ」
「え…?」
「思い出なんか後生大事にしなくても、俺はここにいるんだし」
「……海堂」

そんな事を言うのは照れくさかったが、それは海堂の本心だった。
自分だって思い出を大事に思わないわけじゃない。
だけど乾と過ごした今日一日の方が、ずっと嬉しいのだ。
できれば明日も、その先も一緒にいたいなと思う。


「アンタだって、本人が目の前にいるのに俺の写真の方がいいわけじゃねーだろ」
怒ったようなぶっきらぼうな言い方をして、海堂はぷいと横を向いてしまった。

だが、しばし目をみはっていた乾の方は、嬉しくてだんだん口元の緩みが止まらなくなってくる。
途中でもう格好つけるのすら放棄して、えへへと相好を崩した。

「だらしねーカオ」
「幸せなもんで、ごめんね」

臆面もなく言ってのけると、乾もまた「ごちそうさまでした」と小さくつぶやき、手を合わせた。
きれいな所作だ。
それを見ながら何となしに、指が長いんだなと海堂は思った。
途端にその指に触れられた時の感触が思い出されて、頬が熱くなってしまう。

「……海堂?どうかした?」
「なんでもねぇ!片付け、俺も手伝うっす」
無性に乾の顔を見るのが恥ずかしく、海堂は慌てて食卓の食器を同じ種類ごとに重ねはじめた。




「さてと。本日のメインイベントだな」
二人で後片付けをして新婚気分を満喫した乾は、ソファの上に置いた紙袋を見やり、海堂を促した。

「しょーがねーな。まさか全部着ろとか言わないっすよね。ジャージだけだぞ」
紙袋の中から透明のビニールに入ったレギュジャ一式を取り出しながら、海堂は気恥ずかしいのか
ぶつぶつ文句を言いっぱなしだ。

「ほんとはそうして欲しいとこだけど、まあ我慢する」
我慢だと…と唸りながら、海堂はビニールをぱりぱりいわせて真新しいジャージを引っ張り出した。

白地に赤と群青。背中と胸元にSEIGAKUの文字。
乾は、自分が初めてこれを手に入れた時の事を思い出した。
いつも冷静な自分が、それでもどんなに嬉しかったか、誇らしかったかを。
それをもう海堂も手に入れて、自分と同じ場所へ駆け上がって来ている。

(ほんとに俺もうかうかしてられないな)
好きな人の前で、いつも強い自分でありたかった。
彼がどんなに努力をする人か知っているからなおさら、彼に追いかけてもらえる自分でいたい。


ソファに座った乾の前で、立ち上がった海堂は黒のニットの上から無造作にジャージに袖を通した。
この半年ほどで海堂は急激に背が伸びていて、もう170センチに届いている。

長い手足と細身だが均整の取れた身体つき、それに彼特有の強い双眸。
それとレギュジャの相乗効果に、乾は目を見はらずにいられなかった。
彼がこれを着たところを想像したことなど何度もあったのに。
目の前のそれは、鮮烈な、としか言いようがなかった。


「……乾先輩?」
何も言わない乾に困惑した海堂が声をかけた瞬間、たまりかねたように、乾は海堂をジャージごと
抱きしめていた。

久しぶりの抱擁。
あの雪の日は緊張を感じるどころではなかったのだが、今は静かな部屋の中に二人きりだ。
自分の心臓の音は耳につくし、相手の鼓動は直に伝わってくる。

「……嬉しい」
自分の耳元に落ちる乾の熱っぽい囁き声に、軽く首をすくめながら、海堂は身動きもとれなかった。

「自分がレギュラー取った時よりも、もっと嬉しい。これを着てる海堂、毎日見られるんだな」
さっき意識した長い指が、海堂の髪と耳元を優しく撫でてゆく。

だが海堂は、それを怖いとは思わなかった。
それよりも、一方的に抱きしめられて行き場のない自分の手が気になった。
おずおずとだが、両腕を乾の背中に回し、ぎゅっと抱き返す。
乾がはっと息をのんだのが感じられたが、ただ気持ちがよくて目を閉じた。


「……海堂、あのさ」
「なんすか」

頭のてっぺんから、困り果てたような声が落ちてきて、海堂は乾の腕の中で上目使いに見上げた。
なんだか本当に乾が困った顔をするので、回した腕をほどくと、乾も海堂の身体をそっと解放した。
奇妙な沈黙が流れる。

「その、怖くないの、俺に触れられたりするの」
「…?全然怖くないっす」

思ったとおりを答えたのだが、乾ははあ、と嘆息するとソファに座りこんでしまった。
「先輩?」
訳が分からなかったが、少し隙間を空けて、海堂も乾の傍に座ってみる。

眼鏡の奥で乾の瞳は、迷うような色に翳った。
それからやがて、言い方を選ぶようにゆっくりとした口調で言った。
「あのさ…俺は海堂が好きなんだから、あんまり無防備にしてると我慢きかなくなって、海堂のこと
押し倒しちゃうかもしれないよ」

至近距離にあった黒い瞳が見開かれたのを見て、乾はかすかに後悔した。
海堂は経験もないし、まだ子供なのだ。こんなことを言えば、怖がらせるだけだろうに。

だが、「冗談だよ」と笑って誤魔化そうとした乾よりも先に、海堂が声をあげた。
「ああ…なんだ。アンタそれであの日から俺に触れようとしなかったんすか」
「え…」


確かに、付き合うようになった日から、乾は海堂になるべく触れないように気をつけていた。
自分の心はいつの間にやら海堂だらけで、その中にはやはり彼に対する欲も存在した。
触れたいし、抱きしめたい。キスもしたい。
だが欲に流されて、彼を傷つけたり怖がらせたりしたくなかったのだ。

海堂は敏感な子だから、触ったらきっと気づかれてしまう。
だけど彼は、そんな自分の配慮を却っておかしく感じていたのだろうか。


「何でだろうって思ってた。あんたの気持ちが変わったとは思えなかったし、俺が男だって今さら
気づいたわけでもないだろうし」
「海堂、それって…」
「俺が怖がるかもって、思ってたんすか」

ジャージをはおったままの姿で、海堂はつよい視線を乾に向けていた。
それはちょうど、彼が乾に好きだと言ってくれた時とよく似ていた。
自分がしている事に、ちゃんと覚悟と責任を負っている人の目。

「…正直あんたが俺にどんなことまで望んでるのか分かんねぇけど、あんたは俺を傷つけたりは
しない。だから怖くないっす」
それにほんとに嫌だったらアンタ殴ってでも逃げるしな、と小さく笑って海堂は付け足した。
その無邪気な信頼が、子供っぽいようにも大人びているようにも思えて、乾の肩から力が抜ける。


「…難しいなあ」
「なにがっすか」

思えば乾も、まともな意味では恋愛をしたことがあるとは言えなかった。
後くされなく遊ぶぐらいの関係の人間ならかつていたが、そんなものは今なんの役にも立たない。
この綺麗な目をした大切な人の前では、嘘もはったりも効かない気がした。
自分もまた初心者なのだと痛感する。

「…うん。好きを続けていくのって難しいんだなと思って。海堂も俺もこんな近くにいるのに、考え
すぎてグルグルしてるだろ」

だが上手く立ち回ろうとしても、こればかりは無理なのだろう。
両思いになってハッピーエンド、なんて、おとぎ話の中だけだ。現実はその先も続く。
失敗して学んで、経験値を上げていくしかないのだ。

(海堂とならそれも楽しいかと思うあたり、俺もかなり末期だよ)
座っても目の高さが違うので、少し見上げる海堂の黒い瞳に、乾はようやく屈託なく笑ってみせる。



すると今度は海堂が、考え深そうにゆっくりと話しはじめた。
「それとは、ちょっと違うかもしれないっすけど…」
「……うん?」
「俺ずっと考えてた。付き合うってどういう事なんだろうって」

乾は付き合う前から海堂によく構ってくれたし、大事にしてくれていた。
だから告白して付き合うことになった時に、何が変わったのかよく分からなかった。

「今までの部活で顔を合わせる先輩とどう違うのかって。そりゃ今までよりずっとたくさん一緒に
いるけど何も変わらなくていいのかって思った」


意識すると耳が痛いぐらいの静けさがこの家にはあった。広くて、そして空虚だった。
海堂は、生真面目な顔で自分の話を聞いてくれている乾を見上げる。
まだ、本当にこの人のことを何も知らない。
この人が、海堂の事をよく知らないように。

だけど、知りたいと願っている。完全には無理でも、近づきたいとつよく望んでいる。
その気持ちは、手探りの中で力になるような気がした。


「だけど違った。もうとっくに変わってた」
「え?」
「多分特別ってことなんだ」

滑らかではない自分の言葉がちゃんと伝わるように、海堂はレンズごしの乾の目をまっすぐに見る。
この人の目が、どんなに優しく自分を見てくれるか知っていた。
困った顔も、情けない顔も、めちゃくちゃに笑った顔も。
今は、それだけだって構わない。

「あんたは、人がいっぱいいるこの世界で、たった一人俺の特別な人なんだ」

青学の誇りである群青をまとった彼の告げた言葉は、乾の胸をいっぱいに満たした。
昔から、諦めるのが得意だった。一人でいるのにも慣れたふりをして。
でも本当は、誰かの一番になってみたかった。
そうしたら、自分もその人に何だってしてあげるのにって思っていた。
そんなのは、ただの子供っぽい夢だと、諦めていたのに。


お返しに何か言いたくても、胸がいっぱいで言葉が出てきそうになかった。
ただ目の前の人が好きで、好きで。それを伝えたくて。
とまどいも躊躇もなかった。

乾は、無言で海堂の頬に触れると、少しだけ仰向かせて、唇を重ねた。
海堂も抗わなかった。まるで以前からの約束ごとのように、目を閉じた。

初めての互いの唇を確かめるように、優しく何度も触れてついばむ。温もりを与えあう。
愛しい人の吐息が唇に触れるのを感じて、乾は微笑んだ。

(あ……分かる)
(…好きだって、言ってくれてる)


ずいぶん長い間、触れるだけのキスを繰り返して。

最後に悪戯心をおこした乾に唇をぺろっと舐められた海堂は、そこでびっくりして目を開けた。
まだ息がかかるほど間近に、余裕綽々の乾の笑顔があって、非常にムカつく。
今ごろ頬がかあっと熱くなって、海堂はむやみやたらと手を振り回し、乾の腕の中から脱出した。

恋人が突然、機嫌を損ねた猫みたいに逃げ出したのを、乾は不本意そうな目つきで追った。
愛の告白→キスときて、突然バリッと手をひっかかれたのにも似た理不尽さである。

「海堂〜?なに怒ってんの」
「あんたが手慣れてんのが、なんかムカつく!」
必要以上に距離を取ると、海堂はジャージを脱いできれいに畳み、再びビニール袋の中に収めた。

「あぁ、ジャージも脱いじゃって」
「当たり前だ。なんでいつまでもアンタなんか喜ばせとかなきゃなんねーんだ」
「さっき俺のこと、世界で一番好きだとか言ったくせに」
「大嘘ついてんじゃねえ!!」

叫び声と共に、乾の顔面に正確にクッションが飛んで来た。
それを軽々片手で受け止め、ぽいっと放り投げ、乾は眉間に皺を寄せたままで海堂に近づいてくる。
それを見て、海堂はさすがにやりすぎたかと首をすくめた。
だが予想に反して乾は、海堂と同じようにぺたんと床に座りこんだ。


「あのさ、俺も余裕なんかないから。ちゃんと人を好きになったの初めてだし」
「…先輩?」
「だから多分いろいろ間違えるし、海堂を怒らせたり不安にさせたりもするけど。でも、努力するから」

二人しかいないのに、乾は海堂の耳元に唇を寄せて、小さい声で囁いた。
「俺と一緒にいてほしい」

(うわ、何言いだしてんだ、この人は!)
それじゃあプロポーズだろ、と赤面する海堂は、自分がさっき乾に言った事も似たりよったりだとは
気づいていなかった。
でも、同じ事を思うのだから、この気持ちはタチが悪い。



(全部まだ、始まったばっかりなんだ…)
誰かを好きになることも。触れるのも、傍にいたいと願うのも。

きっといい事ばかりじゃないんだろうとも思う。
乾がさっき言ったみたいに、好きを続けていくのは難しいのだろうから。
だがもう選んでしまった。目の前のこの人を。


「俺、守れない約束すんの嫌いだから」
「…うん、知ってる」
「でもあんたと一緒にいられるように、俺も努力する。それでいいっすか?」
「充分だよ。ありがとう、海堂」

仲良くしようね、とまるで初めて会った子供同士みたいなセリフを、大真面目に乾は言ってのけた。
大きなナリをした彼のその様子に、海堂はおかしくてたまらなくなる。

「アンタ、でっかい犬みたいだな。あの盲導犬とかになる、賢そうなヤツ…」
「レトリバー?そうかな、どのへんが?」



お茶淹れるけど何がいい?と乾に聞かれ、二人は何ごともなかったかのようにキッチンへと戻った。
だが海堂は、いつもと同じようで確かに変わっている空気を感じとっていた。

まだ、船出をしただけにすぎない二人だけれど。
多分一度にどうこうできることじゃないらしい。
だから今は、こんなんでいい。
楽観的かもしれないが、お互いが努力してるうちは、自分達は大丈夫な気がしていた。

ここから、二人にとって波乱に満ちた一年が始まる。