ずいぶん長い間、身動きもできなかった。

二人分の鼓動と荒い吐息を聞きながら、それがゆっくりと収まってゆくのを待っている。
まだ火照って感じやすいままの互いの肌に、ゆるゆると指を這わせてみるとひどく気持ちが
よかった。

そのままきつく抱きしめる。
たくさん汗をかいているのに、それすら気にならない。


人間の欲望にはきりがないな、と海堂は霞がかかったような頭の隅で思った。
汗もたかぶった身体も欲しがる心も、自分のコントロールの下に置いておけた試しがない。
理性が勝った状態に戻ってみると、自分が今までさらしていた痴態に頭を抱えたくなった。

だが一番手におえないのは、今現在海堂の上に身体半分覆いかぶさっている相手だった。
絶頂は通り過ぎたのに、行為は止んだというのに、それからの仕草が一番甘い。
今も弛緩した身体を上半身だけ起こし、乾はまだぼんやりとしたままの海堂の目を覗き込んで
笑った。


眼鏡をかけていないから、遮るものがない。
好きだと言葉にされるより百倍は威力のありそうな目が海堂を見つめて。
そのまま乾はちゅ、ちゅ、と軽い音をたてながら、海堂の唇をついばんできた。

優しく何度もキスを繰り返しては、舌先で唇を舐め濡らされたり。
いつの間にやら指先も、首筋から耳元へと滑ってゆく。もっとタチの悪い左手は海堂の腰の
あたりをさまよっていた。


頭の中に、泣きそうなぐらいの感情が渦巻くのはこんな時だ。
はっきりした快感ならばセックスの最中の方がよほど強いというのに、海堂が本当に溺れそうに
なるのは、事後にこうして与えられる乾の愛撫だった。
降りそそぐ数え切れないキスや、むき出しの身体にそっと触れる指が伝えてくるものが多すぎて、
頭が飽和状態になってゆく。

「薫の髪、いい匂いがする…このまま眠っちゃいたい…」
「バカ、まだ昼にもなってないっすよ。今から寝てどうすんだ」

甘えたように海堂の首筋に鼻先を擦りつけた乾に、わざと呆れた声で答えてみたものの、謹直
な性格の海堂ですらこのまま抱きあって眠ってしまいたいほどだった。
乾を何度も受け入れたせいで、腰が重く熱を持っていて、だるい。

(…ったく、いくら久しぶりだからって無茶苦茶しやがって…)
心中ぼやいてみたものの、自分もその気でなかったら、午前中に乾の家に到着するやいなや
行為になだれ込むなどありえなかった。

海堂はその辺いつまでたっても潔癖で、太陽が上空にあるうちは 『そういう事』 をするもんじゃ
ないと考えているのを、乾もよく知っているのだから。


だが11月になって、テニス部の3年が引退の準備に入ってから、乾は引継ぎの雑務に追わ
れてずっと忙しかった。
二人きりになれたのも、海堂が泊りに来れたのも本当に久しぶりの事で。
部屋に入った途端に、きつく抱きしめてきた乾を拒めなかったのは、どうしようもない事のように
思われた。



春に海堂が青学の高等部に入学してからは、お互いまだ高1と高2という事で部に対する責任
がなく、気楽な日々が続いた。
二人ともレギュラーを獲ることだけ考えていれば、それでいい。
同じ敷地内とはいえ離れてしまっていた一年を思うと、また傍にいてテニスができるのが嬉し
くてたまらなくて、二人は今まで以上にお互いを慈しむようになっていた。


冬が来れば、もう付き合って3年になるのにな…と、海堂は思わず苦笑してしまう。
世の恋人たちというのは、長く付き合えば同じ相手に飽きたり、手抜きをするようになるという。
だが、少なくとも乾に関してはそういう兆候は見当たらなかった。
というより、相変わらず海堂以外には目もくれないというべきか。

そこまで乾に大事にされる要素が自分のどこにあるのだろうと、今でもたまに海堂は考えること
がある。
だが、昔のようにそれを思い悩むようなことはしなかった。

(俺は俺にしかなれねぇもんな。自分を磨く努力するだけだ)
自分の方が乾に飽きるという可能性を全く考えない辺りが、いかにも海堂らしいのであるが。




相変わらず首筋に顔を埋め、じゃれついてくる乾の髪を軽くひっぱっていた海堂は、突然自分の
視界をとんでもない物が横切ってゆくのを認め、目を見開いた。

厳密に言うと、海堂は「それ」を自宅で見たことはなかった。
小さい頃、親戚の家で目撃した事があるにはあったがそれ以来初めてだったので、何か言う
よりも先に「それ」をまじまじと観察してしまった。
(意外と速く動くもんなんだな…アレ…)

一方、熱心に海堂にいたずらをしていた乾は、恋人が全く無反応になってしまったのにようやく
気づき、「…海堂?どうかしたのか」と問いかけた。

仰向けに横たわった海堂は、乾の肩越しにとある一点をじっと見つめていたが、やがてそれを
指差して言った。
「先輩……あれ……」

嫌な予感に捕らわれながら乾が振り向いたそこには、人類の99%が忌み嫌うであろう黒光りした
あの生き物が、サカサカと走ってゆくところだった。
乾は、次の瞬間、絶叫しながら海堂の身体にしがみついた。


それからは、甘い雰囲気などなかったかのような大騒動だった。
「例のあれ」を直視することさえ嫌がり、布団にくるまって現実逃避しようとする乾を、海堂は
ベッドから蹴り落し、「服着て、さっさと殺虫剤持って来い!」と怒鳴った。

汗をかいた後なのでシャワーを浴びたいのを我慢して海堂が服を着ると、そこへ殺虫剤を握り
しめた乾が登場した。
顔色は悪いし、心なしか缶を握る手が震えている。眼鏡は逆光だし、相当キモい。

「か、海堂…アレはいったいどこに……」
「あそこっすよ」

乾の勉強机は窓に向かって置いてある。
その窓のカーテンレールの上あたりに、「例のあれ」は現在活動を休止してたたずんでいた。


それでも海堂に殺虫剤を使わせようとしないあたりは立派かと思った瞬間、乾はその方面へ
向かって大量に殺虫剤を撒き散らしはじめた。
その量たるや、「例のあれ」より先に乾と海堂が死にそうなぐらいで、海堂は左手で口元を
押さえて庇いながら右手で乾の後頭部を殴った。

「なに考えてんすか、アンタ!?一缶全部撒くつもりか!?」
「何を言うんだ、海堂。アレはちょっとやそっとじゃ息の根を止める事はできないんだぞ」
「なんで殺す必要があんだよ…どけ!」

「例のあれ」が殺虫剤の攻撃でさすがに動きが鈍ったのを確認すると、海堂は箱からティッシュ
を3・4枚抜き取った。
そしてティッシュであの生き物を掴み取り、ガラッと窓を開け、外へぽいっと捨ててしまう。
その間、わずか5秒。
海堂の一連の行動を、乾は声にならないような叫びをあげながら見ていた。




(怒ってる、怒ってる…)
昼食後のお茶を差し出すと、海堂は「どうもっす」と返したが、表情は憮然としたままだった。
彼をよく知らない人が見たら、それだけで腰が引けてしまうような迫力である。

どうしてこんな事になってしまったのか、と乾は内心頭をかかえていた。
今日は本当に久しぶりのお泊りの日で、二人はどこかへ行く予定も立てていなかった。
ただ一緒に過ごしていちゃいちゃしたいという乾の希望に、海堂も同意してくれたということだ。

しかも家に来た途端、乾が求めても海堂は拒まなかった。
こんな幸せな日は、一年を通してもそう何度もないとほくそえんでいたのに、あの黒光りする
生き物が全てを台無しにしてくれた。


海堂を怒らせたのは、「例のあれ」を彼がティッシュで掴んで捨てた後、乾が何度も何度も手を
洗わせたせいだった。
「別に触ってねえだろ」と主張する彼の手を、無理やり洗面台に突っこんでジャブジャブ洗った
のがまずかったらしい。

だってあれはバイキンだらけなんだよ、と説明する乾を、海堂はぎろりと睨みあげた。
「じゃあそのバイキンだらけの生き物が生息してるアンタの部屋は何なんだよ」
「う…それはつまりだな…」

言葉に詰まった乾に向かって、海堂は高らかに宣言した。
午後からあの部屋の大掃除をしろ。でないと、自分は二度とアンタの部屋には泊まらない、と。



「…なぁ、海堂。せっかく二人きりなんだ、機嫌なおしてくれよ。掃除は明日にでもするからさ」
近所でおいしいと評判の羽二重餅をお茶受けに差し出し、乾は必死で海堂を懐柔しようとした。
彼は案外こういう甘い物も好きなのだ。
だが、乾が期待したほどの効果はあがらなかった。

「一匹いるとこには百匹いるとか言うっすよね、あれ…」
綺麗な所作で香りのいい日本茶をすすりながら、あっさりとした口調で恐ろしいことを言い返して
くる。

こうなってしまったら、海堂は頑固だ。
せっかく一日いちゃいちゃするつもりの計画が端から壊れてゆく音がして、乾はしょげた大型犬
のような目つきで彼を見つめた。


「…まあ、先輩があの部屋をいじられるの嫌いなの、知ってるっすけど」
「んん、まあな。俺なりにどこに何があるか決まってるし。でもそれより今日は、海堂と一日ゆっくり
できると思ってたからさ…」

それは俺も同じだっての、と海堂はため息まじりになった。
でなければ今日泊まるというのに、午前中からいそいそと来たりなんかしない。

だがここで乾を甘やかしたら、あの部屋の腐敗ぶりは際限がなくなるような予感がした。
いくら海堂が「例のあれ」を怖いと思わないからといって、あれがいる部屋で寝てもいいというわけ
ではないのだ。


「どうせ今日は予定もねぇし、掃除してたって一緒にいるんだろ。それにもう11月も末なんだ。
早目の大掃除しとけよ」

先ほどまでの怒った口調ではなく、乾を説得するように言いながら、海堂はお茶受けの羽二重餅
を口に入れた。
さすがに乾は自分とダテに3年も付き合っていない。控え目な甘さと食感が絶品である。
美味いっすね、これと付け加えると、乾の表情がぱあっと明るくなった。

「うん、じゃあな海堂。掃除はしてもいいけど、その…部屋から何が出てきてもあんまり怒らない
って約束してくれないか」

その乾の言葉に海堂は形のいい眉をひそめた。いったいあの腐敗した部屋からこれ以上何が
出てくるというのか。

「別にエロ本の4冊や5冊見つかっても、怒ったりしねえよ」
自分の想像のつく範囲で思い浮かんだ品物を述べてみると、乾は心外そうな顔つきになった。
「失礼な。俺は海堂以外の人や物をオカズにしたりしないぞ」
「そ…そうっすか……
嬉しくねぇ…


もうこの時点で海堂は、乾が見られたくない物が何なのかを追及する気が萎えた。
掃除の最中にこれはヤバいと感じた物は、自分の精神衛生の為に見ないでおこうと心に誓う。
かくして二人は昼食の片付けの後、掃除機と雑巾とバケツを携えて、乾の腐敗した部屋へと
突入を図った。




「…この白い雑巾はカラ拭き用、こっちの汁色のは水拭き用っスから。間違えないでくださいよ」
「ああ、分かった。すごいな海堂。あっという間に雑巾を作ってしまうとは」
「別にザクザクっと適当に縫っただけっすよ。小学生でもできるだろ」

雑巾はあるのかと聞かれ「そういう物は見たことないな」と答えると、海堂は要らなくなった古い
タオルを2枚要求した。
そのタオルをふたつに切り、常に彼が携帯しているソーイングセットを取り出すと、短時間のうちに
さっさと雑巾を4枚縫ってしまったのだ。

その姿を見て、さすがは穂摘さんに仕込まれているだけあるな、と乾は妙な感心の仕方をした。
乾も知識だけなら豊富だが、それらは実生活では大して役立ちそうにもない。
その点、海堂はどんなサバイバルな場面でも生き残っていけそうな感じがした。

(海堂って、裁縫してても掃除しててもカッコイイよな…)
思わず頬を緩めた乾の背中に、「先輩、キリキリ働かねぇと夜中になるぞ」と檄が飛ばされる。


二人は床に散乱した本やビデオやその他諸々を、一旦部屋の外へ出すことにした。
とにかく物がなくならないと掃除機をかけることすらできない。
本棚にぎっしり詰まった本やノート類も、海堂が棚を拭きたいと言うので次々に運び出す。

(そういえば、こんなに本格的に掃除をしたことなかったか)
バケツリレーの方式で、海堂から受け取った物を廊下に並べて置きながら、乾はひとりごちた。

大量の古いノート類は、自分が昔から手書きを好んだ事を示している。
(ていうか、メモを取ってる自分がカッコイイと思ったのが始まりだったような…)
つまらない子供の見栄が今の自分の原点だと気づかされ、乾は苦笑せずにはいられなかった。



一方、海堂は部屋の片隅から、立方体のおもちゃを物珍しそうな顔で拾い上げた。
これは最近ニュースで見たことがあった。
流行したのはとても昔だが、またブームが来たとかで売り出しているらしい。

「なに、海堂ルービックキューブが珍しいのか。見たの初めて?」
「っす。こないだテレビでやってたっすけど」
「ああ、また流行ってるらしいな。それは俺の父親のだから年代物だよ」

そう言いながら、乾は六面とも色が揃っていたキューブをぐるぐる回してメチャクチャな状態に
してしまった。

海堂が何故か不服そうな顔をしたので、笑いながらキューブを彼の手のひらに乗せてやる。
「あのさ、これぐちゃぐちゃにしないと遊べないんだよ?」
「そんなん知ってる…けどちゃんと戻せるのかよ?」
「まあちょっとコツがいるけどね。掃除終わったら、挑戦してみれば」

その言葉に海堂は掃除中だというのを思い出したようで、名残惜しそうにキューブを見つめると、
積み上げた本のてっぺんにそっと戻した。
とてもやりたそうな様子だ。
誰も使わないし、これは後で彼にあげようと乾は思った。



ようやく本棚がカラになったので、乾が一番上の部分を水拭き雑巾で拭こうとしたところ、海堂が
「うわっ、アンタなにやってんすか!?」と制する声が響いた。
だが時すでに遅し。
溜まりに溜まった埃は乾の一撃でもうもうと舞い飛び、二人は同時にげほげほと咳き込む。

「あのなあ、そういう溜まった埃は先に掃除機で吸い取っておくんすよ」
「ああ、なるほど。海堂って賢いな」
「アンタの方が頭いいくせに、なんでそれぐらい思いつかねえんだよ…」


今日は叱られてばかりいるが、にもかかわらず乾はご機嫌だった。
海堂と二人がかりで本棚をきれいに拭いていると、まるで新婚さんみたいな気分になれた。
乾も海堂も体育会系なので、休日でも体を動かしている方が性に合っているというのもある。
なにかを二人で一緒にしている方が、ずっと楽しい。

(最初は大掃除なんかと思ったけど、これはこれで悪くないな)
思わず乾が口元を緩めると、「アンタなにニヤニヤしてんすか!」と海堂につっこまれてしまった。



中身がなくなってすっかり軽くなった本棚を壁から動かしてみると、またもや埃がたった。
それが収まるまで顔を背けていた海堂は、本棚と壁の間に何かが挟まっているのに気がついた。

「……先輩、これお金っすよ。かなり古いんじゃねえのか…」
元は白かったらしい色あせた封筒には封がしておらず、中身を開けた海堂は困惑した表情で
乾を見上げた。

押し付けられた封筒の中身を見て、乾も少々驚いてしまった。
「うわー海堂、これ旧札だよ。聖徳太子の一万円札。俺も見たの初めてだ…」
封筒の中身は旧札の一万円が5枚。折り癖はついていないし、ご丁寧に通し番号であった。

「これは…ヘソクリのつもりで隠しておいたのを、忘れたって事っすかね…?」
「うーん、分からんがやったのは母親だと思うんだ。あの人、仕事はできるくせに、実生活は
色々抜けてるしな」
「これ、今でも使えるんすか」
「ああ、銀行に持って行ったら現行のお札に替えてくれるはずだ…これは、何割か俺たちが貰える
ように交渉しないといけないな」


乾がお札を見ながら悪どい発言をしているのに肩をすくめ、海堂はもっと奥の方に挟まっていた
画用紙のような物へと手を延ばした。
これも元は水色だったようだが、すっかり色あせている。
ふたつ折りになっていて、表紙部分に 『きりんぐみ いぬいさだはる』 と平仮名で書かれていた。

(きりん組??なんだこれ…)
画用紙を開いてみると、左側には小さな小さな手形が押してあって、乾の名前と生年月日が記
されていた。
右側にはピンクや水色のスモックを着た幼稚園児が15人ぐらい写った写真が貼ってある。
写真の下には 『おおきくなったら、ひこうきのうんてんしゅになりたい』 と堂々と書かれてあった。

さすがの海堂も、おかしいやら可愛いやらで、笑わずにいられなかった。
本棚と壁の狭間で、彼が忍び笑いをしているのに気づいた乾は、持っていた画用紙を奪い取った。

「海堂なに笑って…うわ、こんなのまだあったのか。なんでこんな所に」
「かわいいじゃねえか。幼稚園でこういう誕生日の行事があったんすか」
「ああ…その月生まれの子をお祝いしてくれるんだ。だから写真に写ってるのはみんな6月生まれ
なんだよ」


もう恥ずかしいからカンベンしてと頼む乾から、もう一度画用紙を取り上げた海堂は、小さな手形に
そっと手を重ねてみた。
知り合った頃から、乾の大きい手が羨ましいとずっと思っていた。指も器用そうに長くて。

…いつも自分を愛しんでくれる手。
それが元々はこんなにも小さなものだったというのが不思議な気がした。

「あんたも子供の頃は、普通サイズだったんだな」
恋人が浮かべた深くて優しい微笑みに、乾は思わず見とれた。
小さな手形に触れてゆく彼の手に、鼓動が不規則に跳ねるのを感じる。
乾が本当に彼に慈しまれていると感じるのは、こういう瞬間だった。

自分の子供時代を思い返してみても、寂しくなるのが常だった。
だから写真も思い出の品も好きじゃなかったし、意味などないと考えてきた。
だが海堂は、そんな乾の過去ごと大切にしてくれる。
(…だからもう俺は、自分をどうでもいい物みたいには扱えないんだよ)


「…大事にしまっとけよ。これもあんたの一部だろ」
男前な口調でそう言って画用紙を返してきた海堂を、めちゃくちゃに抱きしめたい衝動にかられる。

(ホント、俺はきみには勝てないらしい)
乾をどんなに煽っているのかに気づきもしない海堂は、本棚の裏に掃除機をかけはじめた。
彼のきれいなうなじから必死で目を逸らしながら、乾は脳内でしばし円周率を唱え続けるしかなか
った。



それからも時々休憩を挟みながら、乾と海堂の苦闘は続いた。
窓や家具を拭いたり、カーテンやシーツを外して洗濯したり、布団を干したりと忙しい。
部屋の中を11月のひんやりした風が通っていって、よどんだ空気を一掃してくれる。

もう既にこの部屋からは、海堂のデータノートやビデオ、二人の思い出の品などがたんまり発掘
されていた。
これぐらいは海堂も予測していたのだが、「薫」とマジックで大書きされた箱から何百枚という
自分の写真が出てきた時には、さすがに顔がひきつった。

海堂が中学一年の時からの乾のコレクションらしい。勿論ほとんど隠し撮り仕様だ。
中には遠足や野外学習やプールなど、同じ学年でないと入手不可能な代物まであった。

怒らないと約束していたが、乾は海堂に殴られた。
もっとも普段なら一発殴るぐらいでは済まずに、家に帰ってしまっていただろうから、穏便な対応
と言えないこともなかったわけなのだが。




乾の作った夕飯をきれいに平らげ満腹になってしまうと、もうこのままゴロゴロしたい欲求にかられ
たが、二人は8時頃から作業を再開させた。
なにしろ海堂は中途半端な事が大きらいなのだ。
「また明日にしよう」と持ちかけて、彼が頷くなどという都合のいい夢は乾もみなかった。


乾はまず、海堂がアイロンを当ててくれたカーテンを吊るしにかかった。
さすがの海堂もアイロンは使い慣れていなかったらしく、必死で格闘している様子が可愛くて、見て
いて辛抱たまらなかったのだが、なんとか我慢した。

勉強机に乗ってカーテンを掛け終わると、乾は高い場所から海堂を見下ろした。
彼はドア横の箪笥を拭いている。もうあとはあの箪笥の裏を掃除すればおしまいだろう。

「海堂、その箪笥は中身出してないから、一緒に動かそうか」
「っす。ここに掃除機あてたら、だいたい終りっすね」
「また何か出てくるかな」
「宝探しじゃあるまいし、いくらなんでも、もう出ねえだろ」

せえの、という掛け声と共に重い箪笥を持ち上げ、場所をずらした。
そこには埃の塊がフワフワとたくさん溜まっているだけで、もうさすがにお札は出てこないようだ。


「よしじゃあ、掃除機かけるから海堂どいてくれるか」
乾が掃除機のノズルを狭い所用の細長い物に取り替えていたその時、海堂が軽く息を飲むのが
聞こえた。

「……ちょっと待て、先輩…今なんか光って…」
そう呟くがはやいか、海堂はフワフワした埃の塊に手を突っ込んだ。
しゃがんで背を丸めているので、海堂が拾った物が何なのかが乾には分からない。
「どうした?画鋲か何か落ちてたのか……海堂?」

狭い隙間から身を起こして振り向いた海堂は、なんとも言えないような複雑な顔つきをしていた。
そして握りこぶしを乾に突き出す。反射的に乾も手のひらを差し出した。

乾の大きな手のひらの上にコロンと落ちてきたのは、細いプラチナの指輪だった。
中央に一粒大きなダイヤが輝き、左右に流れるように小さな同じ石がいくつか飾られている。

正直なところ、乾はこの指輪を見たのは初めてだった。
だがこのオーソドックスなダイヤの指輪が何を意味するのかぐらい、考えなくても分かる。
「おいおい…エンゲージリングなのか、これは…」
さすがの乾も頭痛がしてきた。両親の愛の証を掃除機で吸い取りかけていただけになおさらだ。


「お母さんは、これ失くしたって言ってたんすか?」
「いや、そういう話は聞いたことがないな…おそらく失くした事にも気づいてないんじゃないかと…」

突然、乾は猛烈に恥ずかしくなってきた。
いくら母親が実生活においてアバウトそのものでも、婚約指輪を失くした事にすら気づかないのは
あんまりだ。
(海堂、どう思ってるんだろう。呆れてるよな、絶対)

だが海堂は背の低い箪笥を指でなぞるようにしながら、静かな口調でこう言った。
「この部屋…最初っからアンタの子供部屋だったんじゃないっすか?」
「…え?ああ、そうだよ。赤ん坊の時にはベビーベッドも置いてたらしいし」
「お母さんはきっとアンタに怪我をさせたらいけないと思って、指輪を外して置いたんすよ、ここに」

彼の指が箪笥の焦茶色の表面をトントンと叩くのを、乾は食い入るような眼差しで見つめた。
確かにこの指輪がかすったら、赤ん坊の柔らかい肌を擦りむかせてしまうかもしれない。
だから彼女は自分に触れる前に、この指輪を外したのだろうか?
そしてこれは何かの拍子に箪笥から滑り落ちて、長い間誰の目にもふれなかったのだろうか。

それはただの憶測にすぎなくて、事実はもっと殺伐としているのかもしれなかった。
だが、乾はその海堂の想像を、信じて受け入れたいと思った。
自分がそんな風に母親に大切にされていたと思うと、幸せな幸せな気持ちになれたからだ。


「そう…かな。そうだったら、いいな…」
「俺はそう思いますけどね。でないと大事な指輪、こんなとこで外さねえだろ」

ためらいながらもそれを望む乾に、海堂はぶっきらぼうな程の強さでそう決め付けてやった。
乾はあまり親の愛情をあてにしていない。
忙しすぎる両親が、彼に分かりやすい形での態度や言葉を与えてやることが少なかったせいだ。

だから自分が彼の掌に、乗せられる限りのものを乗せてやりたかった。
目に見えても見えなくてもいい。きれいに光る物も、そうではない物も全部。
あふれて、こぼれ落ちてしまうぐらいに。

長い間、埃にまみれていたというのに、乾が袖口で軽くこすってやると透明な石は美しく輝いた。
「海堂、ぜったいうちの母親からボーナス出るよ」
『永遠の愛』 を意味する石を鑑賞しながら、二人はどちらからともなく目を見合わせて笑った。




深い眠りから浮かび上がり、瞼を持ち上げると、パソコンに向かっている乾の姿が目に入った。
カタカタと断続的に聞こえてくる小さな音。
机の上に乗った時計の文字盤に目をやれば、もう夜中の3時を過ぎていた。

海堂は、自分がいつ眠ってしまったのか思い出せなかった。
大掃除を終えて、埃だらけなのに辟易して、風呂に入って頭から爪先まで洗いたおした。
ようやく人心地がつく頃には、寝るのが早い海堂にとっての就寝時間を過ぎてしまっていて。

だが海堂は、昼間に見つけたルービックキューブがやってみたくてたまらなかった。
『それは海堂にあげるから、家に持って帰っていいよ』 と乾は笑ったが、海堂は乾のベッドの
上に陣取って、立方体のおもちゃと格闘するのに夢中になっていった。


普段、海堂がいる時に乾はパソコンをいじったりしなかったが、さすがに一人で手持ち無沙汰
だったのだろう。
「じゃあ俺もちょっとデータ整理しててもいいかな」と断りを入れてきたから、頷いたのだけは
覚えている。

パソコンのキイを叩く音をBGMに、キューブをいじり続けていたが、いつの間にか寝入ってしま
ったらしい。
海堂の身体は、今日干したばかりの布団と毛布でしっかりとくるみ込まれていた。


「……先輩、まだ寝ないんすか…」
そう言った自分の声の方がよっぽど眠そうだ。つい笑ってしまう。

乾は動かしていた手をピタリと止めると、海堂の枕元までやってきて膝をつき、顔を覗き込んだ。
「俺は休日はこれぐらいの時間まで起きてるの当たり前だから平気だよ。海堂は疲れただろう。
気にしないで眠るといい」

さらさらとした感触を楽しむように、乾の指が髪を撫でてゆく。
彼の声も手も、みんな気持ちよくてたまらない。


「…今日、楽しかったな。いろんな物が出てきて……」
「そうっすね…金はともかく、あんたのあの手形と指輪は見つかってよかった…」
「海堂はあんまり、ああいう思い出の品物にはこだわらないと思ってたよ」

それはその通りだ、と海堂は上手く回らない頭の中で考えた。
思い出は、ちゃんと自分の中に存在するのに。
どうしてみんな証拠を残すことに懸命になるのかが、以前は理解できなかったものだ。

「…物に頼ったりするの嫌だった。そんなのは弱い気がしてた…」
「……うん」
「けど、俺もいっつも強くはいられなくて…そういう時は、あんたに貰ったもんを見たりもする…」
「俺が、海堂にあげたもの…?」
「写真とか、作ってもらった練習メニューとか…プレゼント…手紙もくれただろ…」
「それは、海堂の力になることができたのかな」

海堂は緩慢に頷いた。女々しいことを言ってしまったような気もしていた。
だが眼鏡の奥で、乾の目が和むのが分かる。

大丈夫だ。乾は自分の言いたい事を分かってくれている。
目の前にいるこの人だけが、自分にこんな安心をもたらしてくれるのが不思議に思えた。



また急激に眠気がおそってきた。もうあまり長くしゃべってはいられないようだ。
だが眠ってしまう前に、乾に言っておかねばならないことがあった。

「先輩…あんた、ちゃんと掃除するクセつけろよ…」
「うん、分かった。でも海堂と掃除するの楽しかったからな、またやりたいよ」
「それはいいっすけど…こんなに徹底的にやらなくてもすむぐらいにしとけ…」
「そうだな、休日丸つぶれはまずいよな」

「あんたがちゃんと…掃除ができるようにならねえと…」
「ならないと?」
「…いっしょに住んで…やら、ねえ…ぞ……」


最後の言葉と同時に、海堂はすうっと寝息をたてて健やかな眠りへと突入してしまった。

乾はポカンとした顔のまま、彼の寝顔をいつまでも穴が開きそうなぐらい見つめていた。
言われた事が脳に浸透するまで時間がかかる感じで。

それから、おもむろに床の上にごろんと転がる。
長い手足を丸めてみたが、ジタバタ暴れたい衝動にかられた。
頬は焼けそうに熱いし、こんな静かな部屋なのに自分の心臓の音が聞こえそうなほどだった。
(や、やられた…)


何故この子は、乾が考えて迷って悩んだ末にしか言えないことを、するりと口にできるのだろう。
いやそれ以前に、なんだって自分はいつでも彼に告白の先を越されてしまうのか。

嬉しさと興奮と少しの情けなさがごちゃまぜになって、とにかく笑うか泣くかしたかった。
だが彼の眠りを妨げることはできないから、大きな感情を無理やり押し込めると、胸がはち切れ
そうになる。
こんな状態で、眠れるわけもない。


どれぐらいの時間、床に転がっていたのだろう。
乾はようやく身を起こすと、机の上に置かれていた指輪へと手を伸ばした。
「借りるよ」と口の中で小さく呟くと、投げ出された海堂の手を取って薬指に嵌めてやる。
残念ながら右手だったし、細いリングは第一関節ぐらいまでしか通らなかったが、乾は満足
そうな表情になった。

これは誰にも知られることなく取り交わされる、密やかな約束。
(俺だけ知っていればいい。きみにもないしょのままでいい)


海堂の手を握りしめ、ベッドに背を預けて座りこむと、乾はまだ明けそうもないカーテンの向こう
の空を思った。

3年前の今ごろ、自分はまだ彼に片思いをしていた。
どうしたら彼に振り向いてもらえるのかと、そればかりを思い、よくこうして眠れない夜を過ごした。

どうして自分の恋は叶ったのだろうと、今でも不思議に思うことがある。
だけど彼は自分を選んでくれた。そしてその暖かさは、こうして絶え間なく傍にある。


ああ、すごく幸せだな、と乾は思った。
子供のように手を組んで、神様に感謝を捧げたいぐらいだ。


目を覚ましたら彼は、自分の言った事をきっと覚えていないだろう。
だけど約束は、彼の中に、自分の中に、それぞれに存在するものだ。
いつかもう少し時が過ぎれば、それを二人で持ち寄って、形にすることができるかもしれない。

『できるかも、じゃなくてやるんだろ』 と彼ならば言いそうだった。

彼は夢を見るだけで満足するような人じゃない。努力して、努力して、いつかはそれを手に入れる。
その輝きに目を奪われた。
そういう人を、好きになった。それは乾にとって何よりも誇らしいことだった。


最近ずいぶん大人びた顔つきになったと思っていたが、目を閉じ眠る海堂には幼さが残っていた。
乾がずっと起きていたと知られたら、きっと叱られることだろう。
だが彼に焦がれて苦しむのではなく、こうして安らかな気持ちで朝を待つのは格別な気分だった。

指輪の嵌った手を握り、その暖かさを感じながら、乾は飽きることなくカーテンの向こうが白んで
ゆくのを見つめ続けていた。


永遠なんて多分この世のどこにもない。それでも、
自分の望みをたぐりよせ、決して離すことのないように。

(きみは俺にとって、祝福のようなひとだ)

乾は敬虔な気持ちを心に映し、近づいてくる朝にただ深い祈りをささげた。