「海堂、ここ、ここにしよう」
珍しくはしゃいだ声で、あんたが俺を呼ぶ。

あっぱれな、と言いたくなるような晴天の日曜日だった。
ストリートテニスのコートにほど近い大きな公園は噴水などもあり、今日は家族連れの姿も
たくさん目についた。
だが俺たちはそこから少し外れて、人気のない涼しい木陰へと分け入ってゆく。


関東大会も大詰めで、ここのところはお互い練習練習の日々だった。
他のことを考える余裕がなくなっていた、と言うべきなのか。

だから先輩が「今度の日曜、練習を兼ねて会って、その日は泊まってくれる?」と聞いてきた
時は、俺も断ったりしなかった。
絵に描いたようなシチュエーションが少々気恥ずかしくはあったが。
たまには好きな人と何も考えずに一緒にいたいって気持ちは、俺にだってあるのだ。
絶対、面と向かっては言ってやんねぇけど。


朝から軽くランニングをして、ストリートテニスのコートで1時間ぐらいラリーをして。
気がついたら、もう昼メシの時間になっていた。

うちの母親がランチを持たせてくれたと知った先輩は、突然ピクニック気分に突入したらしい。
「どこか気持ちいいところで食べよう」と言って、あちこち場所を物色しはじめた。
俺が母親に押し付けられたレジャーシートやランチボックスも、もちろん先輩が運んでいく。

(なんか、子供みてぇ…)
人並みをはるかに通り越した背の高さの先輩が、ウキウキした様子なのがちょっと可愛かった。
俺も口では 「どこでもいいっすよ、別に」 などと言っていたが、結局嫌がりもせずにその
背中に着いて回る。

やがて確保された場所は、日当たりも良く静かだった。
樹に囲まれているせいか、近くに人がたくさんいるようには思えない。


「穂摘さん、何作ってくれたの?」
「サンドイッチみたいっすよ。てか、なんであんた、うちの母親名前で呼ぶんすか」
「だってあんな若くてカワイイ人、おばさんなんて呼べないだろう」
「そういう事言って喜ばせるから、あんたのこと、お気に入りなんだよ」

あきれたように嘆息しながら、俺はランチボックスの蓋をばこん、と開けた。
中身を覗き込んだ途端、あまりの量の多さに軽く眩暈を覚える。
いくら食べ盛りの中学生男子二人とはいえ、作りすぎだろう、これは。
うちの母親にしてみれば、足りない方が一大事ということなのかもしれないが。
「うわ、いつもながらすごいな」 と覗きこんだ先輩も目をまるくした。

「具はなに?」
「…っと、卵とハム、スモークサーモンと野菜のマリネ、鶏の照り焼き、ツナとコーン…」
「これは?」
「あ、フルーツサンドっす。生クリームと果物」
「へえ、俺こんなの初めて。甘いのかな」
「そうでもないっすよ。生クリームそんなに甘くしてないと思うんで」
「お菓子みたいだね」

先輩のバッグの中に入っていた自作ドリンク(ていうか汁)を薦められたが、オレは真面目な
顔でそれを拒絶した。
自分では、半透明のプラスチックのコップにアイスティを注ぐ。
天気が良すぎて、暑いぐらいの陽気だ。


「いただきます」
二人で行儀良く手を合わせ、そう言った瞬間に、思わず目を見合わせて笑ってしまった。
付き合うようになって半年と少し。
だが一緒にいるうちに、自然とこの人も「いただきます」をするようになっていた。

本来、先輩は家族と食卓を囲むことがすごく少ない人だ。
こんな挨拶をしても、見てくれる人がいないのを俺はよく知っている。
だからこういうのを目の当たりにすると、複雑な気分になるのも本当だった。
先輩が、眼鏡の奥で嬉しそうに笑うから、流されてしまうのが常だったけれど。


「今日はこんなだけど、俺、海堂がお箸使ってご飯食べてるとこ見るの好きだな」
「なんすか、それ?」
口の中のものを飲み込みながら、一拍遅れて俺は返事をする。
先輩は器用なのか何なのか、絶妙なタイミングで食べるのとしゃべるのを交互にやっている。

「最初見たとき、あんまりきれいに食べるからびっくりした。それにちゃんと噛んで、ゆっくり
味わいながら食べるだろう?」
「当たり前だ」
「フツーの中学生なんて、ガツガツ食べるもんだよ。ほら、桃みたいに」

確かに桃城のは、食べるというよりも流し込むという方が正確かもしれない。
味とか分かって食ってんのかな、あいつ。
まああれはあれで、美味そうに食っているという気もするが。

「先輩も食べ方、キレイっすよ」
「ああでも、俺にとって食事は栄養補給ってだけで、あまり楽しむものじゃないからな」
先輩は笑っていたが、それはどこか投げやりな響きをはらんでいた。
その声に、胸がツキンとした。

ランチボックスの中身の減り方で、俺は先輩がサーモンのサンドイッチを一番好きだと分かる。
最後の一個をさりげなく先輩の皿に乗せてやると、あれ?という顔をして俺を見た。

ホント、この人は自分の事に疎い。
栄養補給とか言うのなら、味なんか何だっていいはずだろ。
でもやっぱり、好きなもんも嫌いなもんもあるんだ。
俺にいつだってあんなに美味いもんを食わせてくれるアンタが、二人一緒にいる時に、そんな
寂しいことを言わないでほしい。


「今、俺一緒に食べてますけど、楽しくないっすか?」
俺がちょっと怒ったような口調になったのを感じたのか、先輩は焦り顔になった。

「そういう意味じゃない。楽しいよ。海堂といる時は、いつだってたのしい」
ムキになって力説する乾先輩は、学校で見るのとも、部活で見るのとも違っている。
だから、そんなことわざわざ言わせなくても分かってるんだけど。

あんたは俺にとって先輩で、テニスを教えてくれる先生で、ひとつの目標でもある。
でもそれ以上に、人が溢れているこの世界で俺がたった一人特別に思う人だ。

あんたが俺を見てくれてるのと同じか、それよりもっとたくさん俺はあんたを見てるのに。
いつだって自分ばっかり好きみたいな顔している。
それが俺には、時々歯がゆく思えてならない。



そのまま俺達は、微妙な雰囲気で昼メシを終えた。
別にケンカをしたわけでもないが、さっき俺がちょっと怒ったせいか先輩はしょげてしまっている。
まるで、尻尾をたらした大型犬のような風情だ。
中学生とはいえ184センチもある男が肩を落として昼メシの後片付けをしている様は、かなり
痛々しいものがあった。

しかし、しつこいようだがケンカしたわけではない。
なのに 「もういいから」 と言うのも何か変だ。どう対処していいか分からず、ため息がもれる。
レジャーシートを畳みながら、俺は背後の先輩を見やった。
このままでは休日も台無しの予感がした。


その時、ふと足元に視線がとまる。
季節がいいせいで、名前も知らない小さい花がいっぱい咲いていた。
中には男の俺でも見知った植物もあった。
白い丸い花を咲かせている、クローバーの群れ。

「……あ」
白いスジの入った三つ葉がいっぱい茂っている中に、四つ葉がひとつ混ざっているのに気づき、
俺は慌ててそこにかがみこむ。
すげぇ、こんなの自分で見つけたの、初めてだ。
かわいそうかなと思ったが、俺は衝動的にそれを摘み取っていた。

「乾先輩」
自分のバッグを覗き込んでいる、しゅんとした大きな背中へと呼びかける。
問答無用の勢いで四つ葉を差し出した俺を、先輩はびっくりしたような顔で見上げた。

「そこで見つけた。あんたにやる」
なかなか手を伸ばそうとしない先輩に焦れて、つよい口調で俺は言葉を紡ぐ。
「昔うちの母親が教えてくれた。これ持ってると幸せになるんだって」
「海堂…」

他人から見れば、この人はたいがい何でも揃っている人間なのだろう。
頭いいし、顔もまあまあ、背も高いしテニスも強い。
性格はちょっとヘンだと思うが、面倒見もいいし、優しい人だ。

だけど、他の奴らよりもあんたに近づいてみて、初めて俺は知ったんだ。
あんたに何かがひどく欠けているんだと。

今すぐには無理でも、俺はいつかそれを埋めてやりたかった。
もっとずっと時間がかかっても、傍にいて、少しずつ。
先輩が自分を大事に思えるように。寂しい思いが減るように。
ただあんたに与えられるだけじゃなく、俺はあんたを、守りたかったんだ。


「……海堂」
「うわ!?」
突然四つ葉を持った右の手首を握り込まれ、そのまま引っぱられた。
俺はバランスを崩し、しゃがんでいた先輩の傍に膝を着いてしまう。

「っぶねえな、イキナリ何すんだよ!」
毒づいた俺はその瞬間、間近で先輩がすげー優しい目をして俺を見ているのに気がついた。
心臓が、どくん、と音をたてる。

そのまま先輩はクローバーを握った俺の手を引き寄せると、無言で唇を押しあてた。
なにかの儀式のようだと、そう思った。

(……う、わ)
今さらだけど、こういう接触は本当に久しぶりで。この人の手も唇もひどく熱く感じられて。
本当なら怒って振り払ってもいいはずなのに、俺はどうにもならないぐらい赤くなって俯いて
しまっていた。
ガラでもないのは分かっちゃいるが。

(人に見られたらどうすんだ、おい!?)
俺の中の常識的な部分が激しく異議を申し立てる。
だが、この人は平気なんだろうなと思ったら、何だか脱力してしまった。


しんと静まりかえった空間に、先輩のもっと静かな声が響くのを聞く。
「あのさ、海堂、知ってる?」
「え?」
「クローバーの三つ葉は、愛情と誠実と勇気を意味してるんだって」

芝生の上にもはや座りこんでいる俺の手を握りしめたまま、彼はゆっくりと語る。
(愛情と、誠実と、勇気)

相変わらずこの人、訳のわかんねえ事までよく知ってるなと思いながらも、俺は言われた事を
心の中で繰り返してみる。
(なんか、そのみっつで完璧じゃねえか)
何が足りないというのだろう。幸せになるために。
ありふれた三つ葉と俺の手の中の四つ葉は、何が違っているというのか。


「じゃあ四つ目は何なんすかね。何を足したら“幸せ”になるんすか」
「分からない?海堂がくれたのに」

空いた方の先輩の手が、今はバンダナを巻いてないむき出しの俺の髪をさらりと梳いた。
その指の感触が心地よくて目を細めているうちに、自然な調子で引き寄せられる。
いつのまにか、俺は先輩の腕の中に抱きこまれてしまっていた。

「ちょ…先輩」
「じっとして」
四つ葉を握った俺の右手をさけてのその抱擁は、ゆるやかなものだった。
拘束されているとは感じない。
なのに胸が痛むほど優しくて甘くかったから、俺はどこにも逃げられなかった。

「海堂がいないと、愛情も誠実も勇気も何のイミもないだろう」
「せ…んぱい」
「海堂に愛してもらえないと、俺はきっと枯れちゃうよ」

そんな脅迫じみた台詞を、甘い甘い声で言わないでほしい。
だけど、俺には分かっていたのだ。
冗談めかしてみても、それは苦しいぐらいあんたの本音だったことが。
(愛してもらえないと、枯れてしまう)


「馬鹿だな、あんた」
「ひどいな、本気で言ってるのに」
頬をおしつけている先輩の胸から直接響く声。
音って振動なんだな、となんだか妙なことを実感させられた。

「だから馬鹿だって言ってんだよ。俺があんたを置いてどこに行くんだ」
「……海堂?」
抱きしめてくる腕に力が籠もるのを感じて、俺はかすかに笑った。

「俺がどっかに行く時は、あんたも一緒に連れて行く。イヤだって言っても連れて行く」

先輩の肩ごしにある、木々の隙間の細い青空を見つめていた。
頼りない、だが壊れそうに美しい青だった。
俺は長いあいだそれをただ目に映し、抱かれていた。身じろぎもしなかった。

なあ、先輩。 俺達はまだほんとうに子供で。
いつだってささいな事で不安になったり、泣きたくなったりする。
でも、恋をするって、きっと一方的なことじゃねぇんだよ。

あんたが俺を抱きしめてくれて、その広い背中に俺も片方の腕を回し、抱きしめる。
幸せって、多分そういうことなんじゃないかと思うんだよ。




それから数分後。
先輩はどうにもニヤけた面で、俺がやった四つ葉を分厚いデータノートに丁寧に挟みこんだ。
押し花ならぬ押し葉にするつもりらしい。

「乾燥したらパウチしてもらってこないとね」
「はあ?」
「ちゃんと保存しとかないと」

妙な乙女思考を発揮する先輩を見て、やっぱこの人ヘンだと改めて思う俺だった。
しかし先輩の生ぬるい思考はまだ続く。
「今度四つ葉探してみようかな。俺も海堂にあげたいし」
「やめとけ。暇人か、アンタ…」

ついていけねぇ、と諦めモードのため息をつきながら、俺はオレンジのバンダナをさっと結んだ。
それでなくても午後のメニューが滞ってしまっている。
いくら先輩がこれをデートだと主張しても、俺は決まったメニューは絶対こなすつもりだ。
いつまでもこの人のうわ言に付き合ってはいられない。


そのまま荷物とラケットを担ぎ、俺は人の声のする方向へとさっさと歩きだした。
「待って、待って海堂」
背後から情けない声がする。
先輩は慌てて追っかけてきて、横に並んだ。
その懸命な様子に、先輩もかわいいとこあるけどなとこっそり俺は考えたのだが。

(…なんだかな)
(好きなんだよな、結局のとこ)

笑ってしまうぐらい単純なことだった。
俺は器用じゃないから、未来なんて先読みして歩けないけど。
ただ、あんたと一緒にいたいんだ。


日曜日の家族連れの喧騒がこちらまで押し寄せてくる。

ざわざわしたたくさんの声は、当たり前のように俺たちを迎え入れてくれた。
それを不思議と心地よく感じながら、俺たちは笑い、肩を並べて歩み出していった。