「さすがに今日は暑かったな」
「そっすね、でも俺は暑い方がしゃんとするっすけど」
「海堂らしいけど、要所要所での水分補給をおこたらないようにね」
「…っす」

太陽は傾いていたが、まだじりじりと暑い土曜日の夕方だった。



今日は珍しいことに部活が休みだった。
だから俺は、昨夜電話した時に、たまにはゆっくり休養した方がいいよと海堂に薦めたのだ。
だが雨で室内トレーニングのみだったのが物足りないらしく、彼は休日も練習する気満々だった。

『休んでる暇なんかないっすよ。関東も大詰めだってのに』
『海堂おまえね。大変な時期だからこそ休息は必要なんだよ。それにたまには二人でどこかに…』
『あ、先輩 用事とかあるんすか。気ぃ遣わなくても、俺いつもの川原で自主トレするから、いっすよ』
『え、いやあの、海堂!?』

相変わらず電話が嫌いな恋人は、あっさりそう言い、じゃあおやすみなさいと電話を切ってしまった。
甘い雰囲気も何もあったもんじゃない。
後には、ツーツーと虚しく鳴る子機を握り締めて、がっくりとベッドの上にうずくまる俺が残った。
付き合っている二人とは思えない色気のなさである。

(ひどいよ海堂…久しぶりにデートしようって言おうとしてたのに!!)


しかし、一人で自主トレをやらすのは問題だ。
昔ほど無茶はしなくなったが、海堂は俺が組んだメニューより多めにやりたがる傾向があるのだ。

熱心なのはいいことだが、俺は海堂の詳細なデータに基づいてメニューを組んでいる。
それ以上はオーバーワークだし、おかしな筋肉の付き方をしたらどうするのだ。
細身だけどしなやかで美しい海堂の体型を守るのは、恋人である俺の義務のはずだ。

一応それを見越して、メニューはやや控え目に組んでいるが、心配だった。
(ていうか、もちろん一緒に練習するんだけどな)

はっきり言って、俺は海堂と一緒に過ごせればどこで何をしようと構わなかった。
デートの申し込みも、まあ口実にすぎない。
川原だろうと公園だろうと、恋する人間にとっては大した変わりはないとも言えた。


そして結局、俺は翌日の昼前には合流して、一日せっせと練習にせいを出してしまったのだった。
暑いし、疲れたけれど、二人きりの時の海堂は、部活中とは違う表情も見せてくれる。
そんな瞬間を、俺は何より貴重に思っていた。




日が長くなっているせいだろうか。
もう結構遅い時刻なのだが、ようやく太陽が傾きだしたような気がした。

夕方に海堂と肩を並べて歩くのは、俺の好きなことのひとつだ。
季節は全然違うが、猫を拾って途方に暮れていた海堂を見つけたあの日を思い出す。

あいまいな形をしていた俺の恋は、あの日からちゃんと動きはじめた。
だけどまさか、グルリと一年ほど時間を回した今、彼が自分のこんな近くに居てくれるなんて思っ
てもみなかったんだ。

彼と自分が両思いだ、という事実。
愛しいという気持ちで海堂に触れても、それを受け入れてもらえる。
ちょっと照れたり怒ったりするかもしれないけど、抱きしめても許される。

俺はこっそり口元に笑みを浮かべた。
並んで歩いてる海堂に知れたら 「だらしねーカオすんな」 と絶対言われそうだ。
でも、こういうささやかな時間が幸せなんだから仕方がないだろう?と思う。



ラケットバッグを肩に担ぎ、茜色に染まる川べりの道を歩く俺たちは、口数が少なかった。
ただ二人でいることを楽しむように、歩いていた。
と、その時、逆光で見えにくいが、向こうからやってくる誰かが俺たちに手を振っているのに気づく。

「……越前?」
「あ、ほんとだ」

近づいてくる小さな人影。
だが、いつも飄々とした態度が売り物の越前は、珍しくうんざりという顔をしていた。
というのも、この暑いのに腕に長い毛足の猫(しかも少々太め)を抱いていたのだ。
夕方特有の西日に照らされて、彼は完全にグロッキーといった風情で俺たちの前に立った。

「ち〜す。先輩たち自主トレっすか。暑いのに物好きっすね」
「越前こそ、暑いのに毛皮抱いちゃって、どうしたんだ」
「毛皮…いやこれうちの猫なんすけど、ここ2〜3日帰ってこなくて、さすがに心配になって探してた
んすよ。この周辺遊び回ってたみたいで」

俺は猫の種類などよく知らなかったが、越前の猫はヒマラヤンというらしい。
字で表現すると 「ほあらあ」 としか言いようのない、妙な鳴き声を発した。
俺的には猫というと日本猫のイメージが強くて、どうも長毛種のは見慣れない感じだ。
だが、隣の海堂はうずうずした様子で猫を見ている。

(動物、大好きだもんな。触りたいって言えばいいのに)
海堂家は敷地面積も広く、いかにも大型犬とか飼っていそうなのだが、海堂の弟がアレルギーで
動物の毛がダメなのだ。
彼はすごく動物が好きだったから、家で飼えないというのは少々物悲しい感じだった。


越前も海堂の様子に気がついたのか、笑いながら言った。

「海堂先輩、猫好きなんでしょ。抱いてみます?」
「いいのか?」
「勿論っすよ。今ちょっと暑苦しいけど、ふわふわでカワイイっすよ」

俺の観察したところ、むしろ越前はこの重くて暑くるしい猫を一時でも人に押し付けたい気持ちが
強そうだったが、海堂は嬉々として手を差し出した。
その表情は、部活中のキリキリした感じと違って、とても可愛い。
猫も越前の腕の中が相当暑かったらしく、別の人間に抱いてもらうのを歓迎しているようにさえ
見えたのだが。



「やだ、モモ!動いたら落ちちゃうよ!今行くからじっとして!!」

その瞬間、足元の川原から女の子の叫び声が聞こえて、俺たちはぎょっとして固まった。
夕方とはいえまだ充分に明るい。見下ろせば、一目で状況を把握することができた。

仔犬が一匹、何をどうしたのか、水かさの増した川の橋脚のでっぱりに乗っかって、キャンキャン
鳴いている。
飼い主らしい女の子は小学校3〜4年ぐらいに見えた。
勇敢にも靴と靴下を脱いで、仔犬を助けるために流れの速い川に入ろうとしている。

「やべえ、先輩、荷物頼んます!」
「あ、海堂先輩!?」
「行ってらっしゃーい」

押し付け損ねた猫を手にぶらーんと持ったままの越前が、呼び止めるのにも構わずに、海堂は
一目散に土手を滑り降り、女の子の所に走って行った。
川に入りかけていた彼女を止めて、何か言っている。

「“俺が助けてやる。危ねえからそこにいろ”ってとこかな?」
俺は楽しそうにくすくすと笑うと、二人分の荷物をまとめ、土手の縁に腰を下ろした。
「かっこいいなあ、海堂」

俺ののろけ炸裂のセリフに越前は呆れ顔をしたが、待つしかないと悟ったのだろうか、俺の横に
黙って座り猫を膝へと乗せる。
シューズを脱ぎ捨て川原に放ると、ざばざば水の中に入ってゆく海堂の姿。
それを、俺たちは並んで、眩しそうに目を細めながら見ていた。


「あの人、いつもこうなんすか」
「ああ、いつもこうだよ」

最初に個人として認識した頃から、海堂は小さい者や弱い者にはぶっきらぼうだけど優しかった。
それはあの子にとって当たり前の事なのだ。
だから別に礼を言われたいとも思っていないし、感謝されると却ってひどく困惑する。

「意外と危なっかしいっすね」
「まあね。ほんとに危ない時は俺が手を貸すからいいんだけど」

俺も正直なところ、最初は結構ハラハラすることも多かった。
海堂は自分が怪我をするんじゃないかとか、そういうことにひどく無頓着だったからだ。
だが一緒にいるうちに、だんだん分かってきたのだ。
海堂は自分で考えて動いているから、何でもかんでも手助けする必要はないのだと。


「海堂はさ、自分一人で立ってることが基本の人なんだよね」

水に入ったまではいいが、昨日の雨で増水していて、どうやら見た目よりも流れが速いらしい。
足元をとられないように苦戦しながら進む海堂の姿を、俺はじっと目で追っていた。
例えば、今足を踏み外して彼が流されてしまったらとか、そういう不安はいつでも付きまとう。
だが、彼が彼であることを侵すような真似は、俺にさえ許されていない。

「干渉したくてもできないことも多いよ。この前の六角中戦…越前は現場見なかったんだっけ?」
「ああ俺、海堂先輩に言われてアップしに行ってましたからね。帰ってきたら、試合に勝ったのは
いいけどあの人 血まみれだし、びっくりした」

シングルス3で六角中の一年生部長と当たった海堂は、コードボールを拾おうとしてポールに額を
ぶつけ文字どおり血まみれになってしまった。
だが彼は、手当てもさせずにバンダナで血止めをしただけで試合を続行した。

あの時青学はすでに2勝していて。
さらに、後には越前も俺も控えていた。棄権しても誰も文句を言わなかっただろう。
だが海堂はやめる気などさらさらなかったし、その気迫に押され周囲も止められなかった。

「正直俺は、海堂の首ねっこつかんででも止めたかったけど。気分的にはもう100枚ぐらいタオル
を投げ入れてたね」
「ボクシングじゃないんだから、それ棄権になんないっすよ…」


片側から照りつける太陽と、プールの帰り道みたいな気だるい懐かしい空気。
それがほんの一瞬だけ、俺と越前の間にいつもあるガードを緩めていたのかもしれない。
俺はひどくおだやかな声でこう言った。
「でも好きだろ?海堂の、そういうとこ」

唐突に核心に迫られたというのに越前も動揺もせず、海堂を目で追いながらあっさりと答える。
「そっすね。好きですよ」

(俺たちは、同じ人を見て、同じように焦がれてる)
(でもあの子は、永遠に、誰のものにもならない)


「自分でもヘンだと思うけど、奪いたいとか付き合いたいとか別にないんすよ。なのに何か、ただ…
惹かれる」

膝の上の猫を機械的に撫でていた右手、それを越前はすっと伸ばした。
その先には、橋脚の仔犬にやっと到達して、大事そうに腕に抱き取った海堂の姿があった。

手を伸ばせば触れられる気がするのに。
追いかければ追いつくはずなのに。
恋人である俺にも決して侵せない部分を、あの子は抱えている。

それが綺麗で、綺麗で。尊くて。
触れたら台無しになると知っていながら、焦がれてやまないのだ。

「胸のここんとこに灼きついて、消えない」
「……うん」


あの試合の直前に。
青空を見上げ、目を閉じて、深呼吸をする彼の姿が、瞼の裏に今もよみがえる。

ひまわりみたいだ、と思った。
一人凛として立ち、どこか高い場所をただ見上げる、花。

誇らしさ、愛しさ、焦り、そして独占欲。
俺の正の感情も、負の感情も、きみという人が源で、
その混沌は、やがてはまた、きみへと還るものなのだろうか。

それとも
永遠に手に入らない誇り高い花に、焦がれて焦がれて
この心は静かに狂ってゆくのだろうか。


「俺、乾先輩は幸せなんだと思ってた」
「うん?」
「や…幸せだけど、寂しいんすかね。あの人、誰かのものになんかならないっしょ」
「うん…みんな別々の人間だからね。その上、海堂は依存するって事を知らない人だから…」



『アンタ、わがまま言うの、ホント下手くそだな』
いつだったか俺の部屋で、海堂に呆れ顔でそう言われたことがあった。
帰り支度をする彼を引き止めたくて、でもできなくて、じっと見ていたせいだった。

彼がいると、人の気配の薄い俺の部屋は、それだけで息を吹き返したみたいに明るかった。
まして身体を重ねた後は、どうしても離したくなくて。
もう10分でもいいから、一緒にいてくれないかなと考えていたのが、バレたみたいだった。

『…あんまり言ったことねえんだろ、なんか、分かる』
彼はいつも、考えるよりむしろ感じ取るタイプの人だ。
自分に向けられる好意には鈍感なくせに、時々こんな風に妙に聡いところを見せる。

だけどわがままを言っても、ずっと一緒に居てもらえるわけじゃないし、困らせたくなかった。
俺は諦めることには慣れていたから。

『あのさ、俺、あんたが我慢してるとこ見るの嫌いだから』
『海堂…?』
『そりゃ言われたことを何でも叶えてやれるわけじゃないっすけど、あんたはもっとわがままを口に
出して言ってもいいんだよ』

何のために俺がいるんすか、と怒ったような口調で彼は言った。
他人に依存する事など考えもしないくせに、俺に向かっては両腕を広げてくる。

まるで俺を抱きしめる為に、自分は存在しているのだとでも言うように。
そのきみの愛情に、俺はいつも泣きたくなる。


今までまともに考えようとしなかったけれど、俺は本当は寂しい子供で。
親に愛されてないとは思わなかったが、面倒をかけないようにいつも気をつけていた。

こんなのは、きっと不幸とは呼ばない。
世の中にはもっと不幸な人間はいるだろうし、俺は不自由な思いをしたことなんかないから。

だがダブルスを組んでいたパートナーが俺に何も告げずに去ってから、俺は親とも友達ともさらり
と付き合ってきた。
深入りをせず、だが誰とも円満に。
自分はこういう人間なんだと、いつのまにか思い込んでいたのに。


ある日、きみが現れて、俺の世界は熱を取り戻した。
鮮やかでつよい感情をぶつけてくるきみに、心を奪われた。
本当に好きになった人が俺を特別なんだと言ってくれた時は、心臓が止まるかと思った。

きみと一緒にいた部屋に一人になると、俺はとても寂しいと感じるようになった。
それは今までみたいじゃない、とても幸福な孤独なんだと思う。

『もうちょっとだけ、ここにいて』
『いいっすよ』
『それから…ご飯の後片付け、しないで帰ってほしいんだけど』
『は?なんでだよ』
『海堂が帰った後、部屋もキレイに片付いてると、何か最初から誰もいなかったみたいで寂しいんだ』
『……そういうことは、早く言え、バカ』


俺ね、ずっと愛されたかったよ。
子供がそうしてもらえるように、分かりやすい言葉と態度で愛して欲しかった。

本当は、きみにそれを求めるのは、間違っているのかもしれない。
でも、きみがわがまま言えって言うからさ。
俺はずっと飲み込み続けてきた 『寂しい』 という言葉を、やっと口に出せるようになったんだ。



「でも、いいんだよ。俺はそういう人を好きになったんだし、覚悟はしてる」
「なんか余裕っすね、乾先輩。一応俺、宣戦布告したんすけど」

隣で苦笑いをした越前の帽子をかぶっていない髪が、夕方の光を弾いた。
海堂とよく似た、艶のある黒い髪。
この二人は印象も猫っぽいし、どこか似た雰囲気があることに俺はふと気がついた。
余裕なんかあるはずもない。越前に目を奪われないヤツなんかいないと思うから。

「いや俺は、世間は海堂を好きなヤツでいっぱいだという緊張感を常に持って生きてるから。越前の
ことは当然マークしてるけど?」
眼鏡を光らせながら重々しい口調で威嚇すると、越前はうすら寒そうな笑いを浮かべた。

「そ…そっすか…」
「そういえば、このあいだ海堂と試合した六角中の葵くんな…」
「乾先輩、まさか何かしたんじゃ…」
「いや不二に人を呪うのって難しいのか?って聞いてみたんだが。失敗した時のリスクが大きいから
いっそのこと直接やれって言われてな…」
「な…なにを…」

答えずに邪悪な笑みをもらした俺を見て、越前が暑いからではない嫌な汗をかき始める。
その時、海堂が川原へようやく上がろうとしているのが見えた。

「救出成功したみたいだな」
俺は二人分の荷物を担ぎ、越前はまたも猫を抱き上げた。
だんだんと視界が悪くなってきた土手を、俺たちは海堂を迎えるためゆっくりと降りていった。




なんやかんやで、海堂は結局、腹のあたりまで水に浸かってしまっていた。
夏でよかったと、内心ほっとする。

川の速い流れに耐えて、しかも帰りは犬を抱いていたせいか、海堂にしては珍しくかなり体力を消耗
したようだ。
肩で息をしながら、それでも最後の数歩をざばざばっと大股に進み、ようやく水からあがった。

「モモ〜!!」
女の子が泣きそうな声で犬の名を呼び、海堂の元に駆け寄っていった。

彼の腕に大事に抱えられた犬は、長時間水際にいたせいか怖かったのか、ぶるぶる震えていたが
とりあえず命に別状はなさそうだった。
海堂は自分のバッグからタオルを取り出すと仔犬をくるんでやり、女の子にそっと差し出した。

「冷えきってるからな、早く連れて帰ってやれ」
「ありがとう、ありがとう、お兄ちゃん…」
タオルごと犬を抱きしめ、しゃくりあげながら礼を言う彼女を見おろす海堂の瞳が和らぐ。
それを、俺も越前もしばし黙って見つめていた。

越前が俺を軽くつついて、小声でささやく。
「海堂先輩がモテるって、なんか納得…」
「…だろ、あれじゃ王子様だよ」
今日は小さい子だからよかったものの、俺の気苦労はこれだから絶えないのだ。


しかし、俺たちのひそひそ話など耳に入らぬ様子で、海堂はふいにしゃがみ、女の子と目線の高さ
を近くした。
その時になってやっと俺は、海堂がひどくつらそうな顔をしているのに気がついた。
どこかがすごく痛むような表情で、女の子を見つめる。

「そいつの足…事故かなんかか?」
掠れ声が紡いだ言葉に、俺も越前も驚いて改めて仔犬を観察し、言葉に詰まってしまった。
仔犬の右足首から先は、ちぎれてしまってなかった。

「…うん。モモはね、あたしが見つけたとき、車にひかれていっぱい血を出してたの。お母さんと病院
に連れてったら元気になったけど、足はなおらなかったの」

ひでえことしやがる…と低くつぶやいて、海堂は彼女が抱いている犬を指先でそっと撫でた。
その声があまりに痛そうだったからか、女の子は海堂を慰めるように声をあげた。

「でもちゃんと歩けるし、早くないけど走ったりもできるんだよ。もっと大きくなったら、なんかつけると
いいって先生がいってた!」

「ああ…義足みたいなもんすかね」
猫を抱いた越前が、そう補足する。
動物を飼っているだけあって、そういうのも見たことがあるようだ。

「こいつ一本だけ足が短くなってるから補助みたいな感じ。何でできてる物か知らないっすけど」
「なるほどな。まだ体が小さいから、成長してからってわけか」



「…海堂」
俺はしょんぼりした様子の彼の黒いタンクトップの背中をぽんと叩いた。
はっきり言ってびしょ濡れだ。いくら夏とはいえ、いつまでも放置しておけない。

「あのさ、俺はその犬ラッキーだと思うけど?」
気を引きたてるような声で言うと、海堂はのろのろと顔を上げて俺を見た。
どうしてこんな悲しい事があるのだろうと、訴えるような目をしていた。
だが彼がどんなに嘆いてみても、この世は理不尽な事に満ちている。

それでも人の一生の幸と不幸の数は、最終的には均等なんだと聞いたことがあった。
この仔犬だってそうなんじゃないかと、俺は思うのだ。

「その犬は足を失くしたけど、この子に拾ってもらえたし、いずれ義足も付けられる。今日も海堂に
助けてもらえただろう?」
「……先輩」

見上げてきた海堂の目が潤んでいて、俺はちょっとだけ罪悪感を覚えた。
あ、なんか感動してる。いや、ごめんな、海堂。
本当は俺は、おまえが悲しまなければ他はどうでもいいんだけど。

こういう時、本当に自分は身勝手だなと思う。
俺の情、というものは総て一人の人に向いていて、他に分ける余地がない。


「そっすよ。川に流されてたら、こんなちっこい犬、絶対助からないだろうし」
だが猫を飼ってる越前が身につまされたのか、いやに熱心に同意してくれた。
そのせいか、海堂は少しだけ気が晴れたようだった。

(優しいんだから、本当に)
面と向かってそんな事を言われたら、むきになって否定するんだろうけど。
こんな事がある度に、いちいちまともに傷ついている。
真正直すぎて、目を離せない。もちろん離すつもりなどないのだが。


「バイバーイ!お兄ちゃん、ありがとう!!」
もう薄暗い河原を遠くまで駆けていった女の子が、こっちをふり向いて手を振った。
大きななりをした男3人は手を振り返しながら、なんとなく気恥ずかしくて苦笑いを浮かべる。




「海堂とりあえず、身体拭いて着替えて!」
「いっすよ別に、夏だし」

無頓着に振舞う彼に焦れて、俺は自分のタオルを取り出すと、ほとんど力づくで拭きはじめた。
嫌がってじたばたもがく海堂を、越前が面白そうに眺めている。

「こんな事にしょっちゅう巻き込まれてるって、ある種の才能じゃないっすか、海堂先輩」
「うるせえよ」
「ほら、じっとして海堂!」
「ちょ…先輩、いいって!」

俺はタオルで丁寧に、海堂の髪を拭ってやった。
腹まで水に浸かったということは結局、水しぶきなんかもあびて、頭もびしょ濡れなのだ。

越前の手前恥ずかしいのか、海堂は機嫌の悪い猫みたいにやたら暴れて手がつけられない。
だが、俺は俺で楽しいから絶対やめてやらなかった。

「うわ…ラブラブ?」
わざとらしく眉をひそめた越前にそう言われ、海堂は憤死しそうな顔をした。
好きな相手の嫌がることをわざわざ言うあたり、越前もかなりタチが悪かった。



土手をよじ登った俺たちは、ようやく最初に出くわした川べりの歩道へと戻ってきた。
越前の猫はこのアクシデントに退屈しきってしまったらしい。なああ〜と鳴いて目を閉じている。
いつのまにかあちこちで、明かりついているのが分かる時間だ。

「腹へったっすね。先輩たち、何か食ってきません?」
育ち盛りの中学生男子らしいセリフを、越前が口にした。

こいつは物怖じしないから、レギュラー陣の誰とも結構仲良くしているが、俺と海堂を誘うというのは
珍しい。
(はっきり言って、異色の組み合わせだな)
海堂は絶対分かってないと思うが、陳腐な言い方をすれば三角関係だ。

「俺は海堂の家で、今から晩ご飯をごちそうになるんだが…」
俺は大人気なく、自分の優越を越前に誇示してやった。
だがそれがまずかったらしい。
奴もダテに王子と呼ばれてはいないということを、俺は思い知らされるハメになった。

「えーいいな〜」
すぐさま越前は、自分の 『小さくてかわいい』 という特性を最大限に発揮した。
海堂を上目づかいにじーっと見上げる。

敵ながらあっぱれな作戦であった。
海堂は越前のおねだり目線にあっけなく屈した。
所詮、海堂は根っからのお兄ちゃん体質だ。年下のわがままには弱かった。

「……おまえも来りゃいいだろーが」
「えっ、ほんとっすか。やった」
「越前、それ凄い技だな。データを取らせてくれないか」
「でも、海堂先輩よりちっこくならないと、使えないっすよ…」
「アホか…」



薄闇の中を、海堂が一人先に立ってずんずん歩いていく。
俺と越前は顔を見合わせると、海堂の所まで走っていき、彼を挟むようにして三人並んだ。

いつもなら牽制するんだが。
越前は俺のれっきとした恋敵なんだから、塩を送るほど甘くはないのだけれど。
今日は海堂が悲しい気分をひきずっているから、特別に許してやろうと思う。


「あのさ、海堂。そんなに動物が好きなら、将来獣医さんになるといいんじゃないか」

なんだか妙にほのぼのとした気分のまま、俺が口にしたその言葉は、ほんの思いつきだった。
憂い顔の海堂の気をひきたててやりたくて、言ってみただけだった。

だがある意味、俺は彼の生真面目さや律儀さを失念していたのかもしれない。
海堂が、ぱっと俺の顔を見た。
まさかこんな戯言で未来が確定していくなんて、誰が思うだろう。


「…獣医……」
「あ、それいいっすね。海堂先輩が獣医になったら、うちのカルピンただで診てもらえるし」
越前も調子のいいことを言って、笑った。
後に、海堂も越前も口を揃えて、『あの時、乾先輩が獣医になればいいって言った』と主張するように
なるのだが。

「でも俺、理数系あんま得意じゃねえし…」
「まだ中学生だし、何が得意かなんて確定してないだろう。それに海堂は目標があると努力する人
だしな」


気をひきたてるように俺がそう言ってやると、海堂は黙って空を見上げた。
くせのない黒髪が、さらりと流れる。

(…そうやって、いつも高いところばかり見て)
俺が彼を一番遠く感じるのは、こういう瞬間だった。
置いて行かれそうで、胸がちりっと灼ける。怖くなる。

だがそれは、俺にとってあまりにも綺麗で大切に思う瞬間でもあった。
だから、きっとこの先も止めることはできないと分かっていた。
彼が彼であるために。必要だから。

「そうしたら、今日の犬みたいなヤツ、助けてやれるんすかね……」
「…うん。多分ね」

静かに相槌をうつ俺を、海堂を挟んだ向こう側で越前が目を細めながら見ていた。
自分はこんな風にはなれないと、思っているのが何となく知れた。

だがおかしなもので、逆に俺は、越前みたいな恋もあるんだろうと思った。
結局、誰もが自分なりの愛し方しかできないものなんだろう。
(世界中探しても、同じ想いなんか、どこにもない)



以前の俺には、自信が全然なかった。
また誰かに置いていかれるんじゃないかと不安で、人と深く関わることを嫌った。

だが、あの日海堂が言ってくれた事を、最近はいつも思い出す。
『俺がどっかに行く時は、あんたも一緒に連れていく。イヤだって言っても連れて行く』

口約束なんて、誰にでもできるものだと思う。
俺が信じることができたのは、言葉ではなく、海堂薫その人だった。
彼が言った事を本当にするために努力する人だと知っていたから、俺はやっと心安らかになれた
んだと思う。

だから俺も、その時が来たら、迷わずにきみと行く。
泣く事も怒る事もわがままを言うことも知らなかった俺は、もういなくなってしまった。

何も言わずに諦めるのはもういやだから。
俺は、何を捨てることになったとしても、彼を諦めることはないだろう。




「確かに、白衣というのはなかなかポイントが高い…」
「俺、テニスで食えなくなったら、海堂先輩とこでバイトさせてほしいっす」

妙な趣味嗜好を口にする俺と、齢13歳にして自分が落ちぶれた時の就職先を求める越前に、
夢から現実へ送り返されたような顔で、海堂は拳を握りしめた。
「キサマら、そろいもそろって…!」
ぶるぶる震えながら、こんなバカ共に付き合ってらんねぇと呟き、またどんどん歩調を速めて行っ
てしまう。


(好きだよ)
その背中を見つめながら、俺は心の中でだけそうつぶやいた。
(行きたい場所に、行けばいいんだ、きみは)

どんなに迷って焦ってみても、俺はきみが好きで
きみが誰のものにもならない人だというのも知っていた。
だがもう、それで構わなかった。俺の心はとっくに決まってしまっていたから。



自分でも呆れるような幸せそうな笑みを浮かべ、俺は越前よりも一足早く、また彼に追いついた。
横目でちらっと俺を見た海堂が、おかしそうにほんの少し、笑う。
それを見て、俺はもう他に何もいらないと思った。


なあ、海堂。覚えていてほしい。

俺はきみのものだ。 なにもかも、ひとつのこらず。