「着替えてくるから、座って待ってて、海堂」
「…っす」

2月14日、バレンタインデイ当日。
乾先輩にチョコを渡すから帰りに家に寄ってくれと言われていた俺は、何故学校で渡さないのかと
不審に思いながらも、結局放課後ここに来てしまっていた。

昨夜の盛り上がった気分が尾をひいていて、先輩の頼みを断るような気になれなかったのだ。
気恥ずかしいような嬉しいような思いが胸にあって、今日は俺も先輩と一緒にいたかった。
そんなのは柄でもないと知っていたけど。

「なんだかな…俺も」
勝手知ったる他人の家となった先輩ん家のリビングに、俺はラケットバッグと一緒に、大きな紙袋を
ふたつどさりと置いた。


信じがたい事だが、この紙袋の中身は今日俺が貰ったチョコレートだった。
しかもそのほとんどは、靴箱やら机の中やら俺のカバンやら、果ては部室のロッカー代わりの木棚
にまで黙って置かれていたものだ。

(これじゃ、礼が言えねえじゃねーか…)
俺は何となくだが、チョコというのは面と向かって本人に渡すもんなのかと思っていた。
無記名の物はさすがにないが、一人一人を捜し当てるなどという芸当は、俺にはとうてい不可能だ。


俺が部室で途方に暮れていると、乾先輩がホワイトデイにお返し配るの手伝ってあげるよと笑った。
「穂摘さん、お返し用意してくれるだろう?当日の昼休みか放課後に取りに来るよう召集かければ
いいから」
「召集…ってアンタ、委員会やるんじゃないんすよ」

それを聞いていた菊丸先輩が、「あ〜乾、その時海堂のファンの子、チェックするつもりだろ〜!?」
と嬉しそうに混ぜっかえした。
昨日俺を庇ってくれた菊丸先輩は一時乾先輩と険悪ムードだったのだが、今日は両名まるで何事も
なかったかのように上機嫌だ。
特に、大量のチョコを獲得した菊丸先輩はにこにこしっぱなしだった。

「そんな事をしなくても、差出人の予測はついてるよ。俺のデータは完璧だからね」
眼鏡を得意げに光らせながらそんな事を断言する乾先輩を見て、俺は正直眩暈を覚えた。

(このチョコくれた奴全部見当つくって、この人どんなデータ取ってんだよ…)
だがその言葉を裏付けるかのように、貰ったチョコは乾先輩が用意してきた紙袋にきっちり収まった。
朝練の後、先輩にこの紙袋をチョコ用にと渡された時はバカじゃねえのかと思ったものだったが、今と
なってはありがたいとしか言いようがない。
入れ物がなければ、俺はあのチョコを抱えて歩くはめになったかもしれないのだ。

先輩は、宣言通りひとつも受け取らなかったようだ。
この人がひとつも貰えないはずはないのだが、本人はチョコレートの香りでむせ返る部室で、いたって
身軽な様子でいる。
だがそれは先輩が決めたことだから、俺は口出ししないでおこうと思った。
この人は、俺なんかよりずっと上手に、好意をよせてくれた人にありがとうと言えるのだろうから。




リビングのソファに座っていた俺は、キッチンに見慣れない物が置いてあるのに気がついた。
気になって近づいてみると小型の炊飯器みたいな形の物で、家でも見たことあるのを思い出す。
確かこれは…

「アイスクリームメーカー…?」
「よく知ってるね、海堂の家にもあるの?」

ちょうど自室から出てきた先輩の声に振り向いた俺は、今度は先輩の格好に目を丸くしてしまった。
何とコメントしていいか、とっさに判断に迷う。

「……何なんすか、そのコスプレは…」
「ん?海堂専用のパティシエ兼ギャルソンてとこかな。似合わない?」
「いや、似合うっすけど、アンタ…」

先輩はシンプルだが質の良さそうな白シャツと黒のパンツ、それにカフェの店員みたいな黒いギャルソン
エプロンを腰にきりっと着けていた。
上背があるし足も長いから似合わないわけがないのだが、おそらく俺にバレンタインのチョコを食わせる
ためだけにこの格好をしているのだと思うと、何ともいえない気分だ。

(アイスクリームメーカーも買ったな、この人…)
マニアックにも程があるだろう。
俺も先輩が女子に混じってチョコを買う姿ぐらいは想像していたが、手作り、しかもその場で作って食わ
せようとするとは。



「ここに座って待ってて、海堂。すぐできるからね」
そう言って俺を食卓の椅子に座らせると、先輩は冷凍庫から容器をふたつ取り出し、冷蔵庫から果物も
いくつか出してくる。
それを見ながら、俺がフルーツ好きなのを何で知ってんのかなとぼんやり思った。
器用に動く先輩の大きな手が、フルーツナイフでマンゴーを剥きはじめる。

(…大事にされてんな、俺は)
胸が痛むほど、そう感じた。これ以上大事にされるのなんか不可能だってぐらいだ。

昨日も原因はともかく、真夜中に凍りつくような寒さの中を会いにきてくれた。
俺は、落ち込んで部屋に閉じこもってただけなのに。
(俺も大事にしたいな、この人を)

いつまでも口下手を理由にして、甘えてばかりいられないと思う。
先輩が、言葉や態度や笑った顔で俺に伝えてくれるものの、何分の一でもいい。
俺もあげられたら、どんなにいいだろう。


「…乾先輩は」
「うん?」
「俺にしてほしい事って、何かないんすか?」

男前なギャルソンは(今はパティシエなのだろうか)容器に入ったアイスクリームの溶け具合を確かめ
ながらちょっと驚いた顔で振り向いた。
「どうしたんだ、急に?」
「…や、俺、先輩に色々してもらってばっかりだから、俺にできる事ってないのかなと思ったんすよ」

答を求めるようにじいっと見つめると、先輩は予想外に照れくさそうな困った顔をした。
その反応が意外で、俺もどう続けたらいいのか分からなくなる。

「…あのね、海堂、それ反対だから」
「え…?」

背中を向けて作業を再開し、珍しく俺の目を見ないままで乾先輩は話し続けた。
この時、彼が本当に照れていて、どんな顔をすればいいか分からなかったんだと気づくのは、もっと後に
なってからだったけれど。

「海堂は俺のことを特別な人だって言ってくれただろう?…俺が、そう言ってくれる人をどんなに欲しかっ
たか分かる?」
「先輩」

今日も人の気配がない家。使い込んでいるはずなのに妙に生活感のないキッチン。
一人で自分の事を何でもできてしまう人。
だけど、当たり前だ。寂しくないはずがない。一人が好きな奴なんかいない。

俺は今までこの人に、寂しくないのかと聞くことができなかった。
同情してると思われるのが嫌だったからだ。
この人が不自然に目を逸らしている孤独と直面させるのが怖かったせいもある。

だが俺がこの人を本当に知りたいのなら、大切に思うのなら。
してあげられることがちゃんとあった。同情でも共感でもなく。
(……愛してほしがってる。この人は、俺に)


「俺は、海堂に貰ったものをいつまでも返しきれないんじゃないかって心配なぐらいなんだけど」
とりあえずこれ食べて、と俺の前にコトンと置かれたのは、ガラスの器にまるで花のように盛り付けられた
フルーツと2種類のアイスクリームだった。

「綺麗っすね」
「そりゃそうだよ、俺の好きって気持ちなんだから」

眼鏡の奥で先輩の瞳が暖かく笑うのを見てから、俺はいただきますと言ってフォークを手にした。
アイスクリームは、苦めのチョコレートとコーヒーの味がした。
俺があまり甘いものを好まないという配慮だろう。これならもっとたくさんでも食べられそうだ。

「すげー美味いっす。ありがとうございます、先輩」
「いや、海堂が喜んでくれれば、俺はそれで嬉しいよ」
「……カラメルの味のアイスって、作れるっすか?」
「え?」
「俺、あれ好きなんすよ。来年…バレンタインの時に作ってくれますか」
「海堂…」

先の事を約束するのが嫌いな俺が俯きながらぼそりとそう言った途端、先輩は突然食卓をぐるっと回って
こっちへ来た。
座っている俺の上に身を屈め、覗き込んできた瞳は甘い色をしていた。

「勿論だよ、約束する」と、低い声が囁く。
それから指先が俺の前髪をかきわけて、額に優しいキスが落ちてきた。

この人の声も、指先も、キスも気持ちがいい。
それは俺に触れてくる先輩の優しさが、どれにも同じように籠もっているからなんだろう。

昨日公園でしたキスみたいじゃなかったが、こういうのもお互いの気持ちがよく分かる気がして、俺は安心
しながら目を伏せた。



食べ終わった器を流しに置くと、先輩がアイスクリームの入った容器を持ってごそごそ何かやっていた。

「まだたくさんあるんすね、アンタ食わないんすか?」
「いや、俺は試作段階で死ぬほど食べたから。これドライアイス入れるから持って帰ってくれるか?葉末
くんに食べさせてあげて」
「葉末に?」
「あんまり甘くないから、好きかどうか分からないけどね。守護天使さまの活躍がなかったら、俺振られて
たかもしれないし。感謝してるって伝えて」
「守護天使、っすか」

勝手に付けられた可愛い名称を、葉末が聞いたら何て言うだろうとおかしくなってしまう。


「俺もちょっとだけ食べるかな」
「そっすか、じゃあ…」

食器棚から器を出そうとした途端、突然手を先輩につかまれて俺は驚いて目を見張った。
だが先輩は何とそのまま、俺の手をだいぶ柔らかくなったアイスクリームの中に無理やり突っ込ませる。

「冷てぇ!ていうか汚ねぇだろ。何すんだ、アンタいったい!?」
「海堂ちゃんと手を洗ってたから、大丈夫だって」

のんびりとピントのずれた事を言いながら、俺の手にチョコアイスを掬わせると、あろうことかこの男は
俺の手から直に食い始めた。
食う、というより舐められている。

端正な顔をして、俺の指先や手のひらに舌を這わせる乾先輩が、恥ずかしくて直視できない。
だけど目を逸らせば、今度は指を舐められる感触とか、舌や唇の熱さをもろに感じた。
わざとやってんのかと思うような音まではっきり聞こえてきて、俺は心臓が爆発しそうになった。

「せ…んぱい、やめ……」
時々キスするみたいに唇で吸われるから、その度にぞくっと背中に甘い震えが走った。

力が抜けて床にへたりこみそうな俺の腰を、いつのまにか先輩が支えるように抱いている。
その確信犯的な仕草に、こいつ最初からこれがやりたかったんじゃねえのかと回らない頭で思った。


だが溶けて流れたアイスを追いかけてきた先輩の唇が、手首の血管の浮いている場所に吸いついた瞬間
「…あ、」とどうにもならないような声が漏れてしまって、俺は真っ赤になった。

羞恥で頬が焼けるぐらい熱くて、こんな行為を許している自分は本気でいかれてると思う。
先輩はフツーの顔で平然と人の手や指を舐め回していて、それがエロいやらムカつくやらで、もうどうして
いいのか分からない。



ようやく行為が止まったのを感じた俺は、潤んだ目で憎たらしい男を睨みつけてやった。
どうにもならないギリギリの地点まで、無理やりに連れて来られた気分だ。

先輩が顔を寄せ、誘惑するように密やかに笑った。
「…ベッド、行く?」


本当は昨夜から、俺だってこの人に触れたくて。
お互いにそう思いながら、今日一日を過ごしてたのも分かっていた。

だから、この展開は俺も期待していたことで。
先輩のタチの悪いやり方を責めることなどできないのだろう。

(俺も、あんたが欲しい)


「チョーシ、のってんじゃねーぞ」
言ってる言葉とうらはらに、俺は先輩の襟元を掴んで自分から噛みつくみたいなキスをした。

汚れてる方の手でやったから、シャツはクリーニング行きだろう。
だからもうそんなのは気にせずに、好きなだけ相手に触れながら、俺たちは昨夜に負けないぐらい
口づけを深くした。


バレンタインの神様は、どうやら先輩と俺に味方してくれたらしかった。