Scene 1.


「あ〜明日!バレンタインだにゃ」
部室で着替えていた海堂の背後で、大石を待っているらしい菊丸が嬉しそうな声をあげた。

多くの男子にとっては、むしろ恐怖の一日とも言えるバレンタインだが、人気者で年齢問わずファンの
多い菊丸にとってはチョコをたくさん貰える至福の日なのだろう。
その様子は本当に楽しみといった感じで、愛想のない海堂でも思わず微笑してしまいたくなるような
無邪気さだった。


「英二はファンが多いからなあ。きっと去年以上にいっぱい貰えるよ」
海堂と並んで着替えをしていた河村が、菊丸を振り向いておっとりと返事をした。

ここのところ家業の寿司屋の手伝いに忙しかった河村は、「ちょっと身体なまってる感じだなあ」と言い
今日は練習後も自主トレをする海堂に付き合っていたのだ。

海堂は自分のパワー不足を気にしていたので、彼が練習に付き合ってくれるのは大歓迎だった。
口に出してそう言えたらいいのに、と思ってみても、なかなか実行できずにいたのだが。

「え〜タカさんだって去年いっぱい貰ったじゃん!しかも俺みたいにファンでーすとか、菊ちゃんにも
あげるね〜とかじゃなくて、なんか本気っぽい人ばっかだったし!」
「え…そ、そんなことないよ」

照れくさそうに頭をかく河村を見て、海堂は男テニの面々は人気あるんだなと人ごとのように思う。
そういえば手塚などは、去年段ボール数箱にもなるほどのチョコが押し寄せたらしい。

(あの人も、いっぱい貰ってんだろうな)
特に嫉妬心が湧くわけでもなく、淡々とそう思った。
乾は派手さはないが、背は高いし顔はいいし、誰にでも親切だ。
その上、男テニのレギュラーなのだから、モテないはずがないのだ。


「しかし今年は乾が大変だよな〜」
何故か含みのある声で言う菊丸に、河村も苦笑しながら頷いた。
「あいつ自分の分はどうにでもするだろうけど、海堂のがね」

「……は?俺が何すか?」
急に自分に話題が振られたので、海堂は学ランのボタンを留めながら二人を振り向いた。
自分のことで乾が大変とは、いったい何なのだろう。

だがその問いかけに、菊丸の方がびっくりしたようなカオをした。
「あのさ、海堂。まさか明日自分にチョコが押し寄せるって事態について考えてないんじゃ…」
「俺なんかにそんなのあるわけないっすよ。何言ってんですか」

海堂のあっさりとした答に、菊丸はあちゃ〜と頭を抱えてしまい、河村はくすくすと笑い出す。
それから小さい子に対するようなもの柔らかな口調で言った。

「そういうふうに思ってるのは海堂らしいけどさ。明日、多分すごいと思うよ。海堂のファンって騒いだり
する子少ないから目立たないけど、たくさんいるし」
「薫ちゃん、自覚なさすぎ…」


(なに言ってんだ、この二人…)
菊丸も河村も、どうやら海堂がたくさんチョコを貰えると考えているようだ。
自分的には、母親がくれる以外に、乾がチョコを準備している可能性は否定できないと思うのだが。

(あの人なら、女子に混じって平気でチョコレート買いそうだ…)
付き合い始めて約2ヶ月。さすがの海堂も、乾の行動パターンは読めてきている。
自分は女子ではないのだからそこまでしなくていいのにと思うほどマメな乾が、イベント関係を黙って
やり過ごすとは思えなかった。

だが海堂には、女子の群れに踏み込んでチョコを買うことなど不可能だ。
乾もそれは分かっているだろうし、万一チョコを渡されたらホワイトデイにお返しをすればいいだろう。
海堂のバレンタインに対する懸念は、その程度であった。


「じゃあさ海堂、もしもだよ、明日海堂にチョコくれる子がいたらどうすんの?」
菊丸にいたずらっぽいカオで問いかけられ、海堂は困惑したように眉間にしわを寄せた。
差し出された好意に対し、少し前までの自分なら「興味ねえ」と一刀両断するか、もっとひどければ
睨んで追い払っていたかもしれない。

だが最近、海堂にも変化が起きていた。
乾と付き合い始めたことも原因のひとつだが、実は海堂はその頃に同じクラスの高梨美也に告白
されて断っていた。
よくある言い方をすれば、振ったわけだ。

自分は乾を好きだし、後悔しているわけではない。
だが、彼女が自分のいい所を見つけて好きになってくれた事は嬉しかったし、強く印象に残った。

だからもし今後同じような事があったら、断るにしてもありがとうぐらいは言いたい。
好きな人に「好きです」と言うのがどんなに勇気の要ることか、今はそれが分かるからだ。


「…もしも、そういうのがあったら」
「うんうん?」
「受け取るっすよ。付き合ったりできねえけど、礼は言いたいから」
「そ…そうなの?意外だにゃ、全部断るのかと思ってたよ…」
「海堂が一人一人お礼を言える程度の数だといいけどね…」

生真面目な海堂の態度には好感が持てたが、菊丸と河村は何となしに遠い目になってしまった。
中学に入って初めてのバレンタインのせいか、堂はえらく簡単に考えているようだが、イベント時の
女子のパワーは尋常ではない。

海堂のファンはおとなしめの子が多いが、そういうタイプでも当日は一年分の積極性を発揮する。
靴箱やロッカーやカバン、果てはどうやって侵入するのか部室にまでチョコを置きにやって来るのだ。
そんなバイタリティ溢れる女子の皆さんに海堂が礼を言って回れるとは、とうてい思えなかった。



と、その時、部室のドアが妙に耳障りな音をたてて開いた。

「あ、先輩。お疲れっす」
「…うん」

のそりと入って来た乾はもう学ランに着替えていたが、見るからに機嫌が悪そうな様子をしている。
いつも感情を読ませない乾からいやにはっきり伝わってくる低気圧に、部室に残っていた3人は何と
なしに顔を見合わせた。
彼からぴりぴりした雰囲気が感じられ、海堂は少し萎縮したような気分になる。

(科学の先生に呼び出しくらったって言ってたけど、どうしたんだろう)
実はそれ以前に、朝から乾の機嫌が悪かった事に海堂は気づいていた。
普段の乾は海堂に対して真綿でくるむように大事に接するし、優しすぎるほどなのだ。
見ていて分からないはずがない。
しかも、時間がたつにつれて不機嫌の度合いがますます高くなっていっている気がした。


「い…乾さ、明日バレンタインじゃん?」
この重苦しい雰囲気に性格的に耐えられなかったらしい菊丸が、またもその話題を振る。
ああそうだな、と乾は低い声で相槌を打った。

「海堂さ、明日チョコいっぱい貰えるよって言っても信じないんだよ。だけど貰えたらちゃんと受け取る
んだって!」
「……え」

筆記用具とノートをカバンにしまっていた乾は、驚いたように顔を上げ、海堂をまともに見た。
眼鏡のぶ厚いレンズに阻まれているのに、その視線がひどく冷ややかだと分かる。

「そうなの、海堂?」
「あの、先輩、俺は……」
「海堂も結構お手軽なとこあるんだな。付き合うわけでもないのに受け取るものは受け取るのか」

説明する間もなくいきなり浴びせられた言葉のキツさに、海堂はひるんだ顔をして息を飲んだ。
乾にこんな言い方をされたのは初めてで、頭の中がまっ白になる。
それでなくてもしゃべるのが下手なのに、どうしたらいいのか分からない。

「俺は誰のも受け取らないつもりだけどね。好きな人いるんだし、その人に失礼だと思うから」
「……っ!」


次々に投げつけられる言葉に俯いてしまった海堂を庇って、突如菊丸がすっと立ちはだかった。
いつも明るく笑ってばかりの彼が、ずっと背の高い乾を睨み上げる。
「なに言ってんだよ乾、ちゃんと聞けってば!海堂は…」
下の兄弟がいないから弟が欲しいといつも海堂に構ってくる菊丸は、今や憤然とした表情で乾と対決
しようとしていた。

「いいっすから、菊丸先輩」
「何言ってんの薫ちゃん!良くないよ、ひどい事言われたら怒んなきゃダメだろ!」
「…そうじゃなくて。俺がどうしようと俺の勝手だ。乾先輩にとやかく言われる筋合いねえし」

売り言葉に買い言葉というべきか、海堂まで思ってもいないような事を口にしてしまった。
何故いきなり乾にあんな事を言われなきゃならないのか、全然分からなくて。
悔しさが喉元までせり上がって泣きそうなのを堪えたら、自分の声には嫌な熱が籠もっていた。

だが、乾があまりに一方的で、人の話に聞く耳持たないのに腹が立った。
何か言い返さずにはいられなかった。

「関係ないって、言いたいんだ」
「……そうっす」
「俺のこと、何だと思ってるの、海堂」

乾の平坦な声から、いつもの優しさがかけらも感じられないことに、海堂はいたたまれなくなった。
歯を食いしばっていないと嗚咽がもれそうで、既にぼやけている視界で必死に自分の荷物とラケットを
探し、素早くそれらをかき集める。

「すんません、お先失礼します」
小さい声でそうつぶやくと、海堂は乾の横をすり抜け、小走りに部室から外へ飛び出していった。


「…っと、海堂!?もう帰るのか」
入れ替わりで入ってきた大石は、その場にそぐわない暢気さで、走り去る海堂の背中に 『気をつけて
帰れよ〜』 と声をかけた。

「待たせて悪かったな、英二…ってあれ?何かあったのか?」
部室の真ん中で俯いたまま動かない乾や気まずそうな顔の河村に、大石はようやくその場の空気が
おかしいと感づいた。
焦った顔で周囲を見回す。

だが菊丸はパートナーの問いに答えもしなかった。
乾に近づくと、怒りを込めて「この、バカ乾!!!」と叫び、乾の足に渾身の蹴りをどかっと入れた。
「え、英二!?どうしたんだ、いったい」

部内のムードメーカーな菊丸が珍しく本気で怒っている声に、訳の分からない大石はオロオロした。
河村もようやく我に返ったのか「そうだよ、乾。海堂の言うことちゃんと聞いてやらなきゃ。あんな言い方
乾らしくないよ」とたしなめるような口調で言う。

「海堂は!チョコくれる人がもしいたら、付き合えないけどちゃんとお礼が言いたいから受け取るって
言ってたんだよ!」
「……え、それなら何でちゃんと言…」
「乾が言わせなかったんじゃんか!よくあんなひどい事言えんな!」
「英二、どうしたんだ。乾と海堂、ケンカしたのか?」
「ケンカっていうかもう振られるから、乾なんか。薫ちゃん泣いてたじゃんか!」


その菊丸の宣言を聞いて、俯いたままの乾よりもむしろ大石の方が青ざめた。
「乾が…海堂に振られる……」
部内の愛と平和を何より尊ぶ中間管理職の大石にとって、青学3強の恋愛は常に悩みの種だった。

一年の時、不二と手塚がどういういきさつでか付き合い始めてから大石には心休まる時がなく、初詣の
際には『不二と手塚が続きますように』 とお願いするほどだったのだ。

ところが、なんと年末に乾と海堂までもが付き合い始め、大石のお賽銭は500円玉から千円札に切り
替わった。
もちろんその分、頼み事も上乗せされたわけだが。

「あんなに拝んだのに…まだ足りなかったか…」
唸るように呟き胃の辺りを手で押さえる大石を見て、怒っていた菊丸もさすがに心配そうな顔になる。

「お…大石、平気?胃薬飲む?」
「いや、大丈夫だ、ありがとう英二」

完全に精神にダメージを受けた大石の袖を引き、菊丸は河村にも帰ろうと声をかけた。
乾に見向きもせずに出て行く菊丸に引っぱられながら、大石は振り向きざまに「乾、ちゃんと謝れよ!
海堂だって話せば分かってくれるはずだー!」などと叫んでいる。
河村も気がかりそうに乾を見たが、結局何も言わないままドアを静かに閉めて出ていった。


一人になった途端、乾はとうとうその場にしゃがみこんでしまった。
頭が冷えると、自分がどんなにひどい言葉を彼に投げつけたのかが分かる。
なんにも悪くない彼が、驚いてひどく傷ついた顔をしていたことも。

(薫ちゃん、泣いてたじゃんか)
大事に大事に思う人を泣かせた。自分の苛立った感情のはけ口にしてしまった。
自責の念と、取り返しのつかないような不安に打ちのめされる。
どうしていいか分からずに乾はそのままずっと、そこから動くことができないでいた。




Scene 2.

「…でね、兄さん。ここんとこの計算がよく分からないんです」
答えがないのをいぶかしんだ葉末が見やると、兄は心ここにあらずといった顔でぼんやりしていた。

海堂は葉末にとって、とても優しい自慢の兄だ。
言葉数の多い人ではないが葉末のことを可愛がってくれて、いつも晩ごはんの後にはこうして宿題を
見てくれたりもする。
学校であったことなど葉末の話も色々聞いてくれるのに、こんなに上の空なのは珍しい。

(ていうか、悲しそうなお顔です、兄さん…)
いくら兄の口数が少なくても、葉末もだてに10年以上海堂の弟をやっているわけではなかった。
とても落ち込んでいる様子だ。難しい言葉で言うと自己嫌悪というやつだろうか。


しゃべるのが苦手なせいで誤解されがちだが、葉末の兄はとても繊細な人だった。
だから他人と上手くコミュニケーションを取れない時は、そんな自分をダメだとガッカリしている時が
あるのも知っていた。

(僕はそうは思いませんけどね。兄さんが優しい人なのは、ちょっと注意して見れば分かることです。
皆さん、ほんとに見る目がないんですね)


葉末にじいっと見つめられているのに気づいた海堂は、やっと我に返った。
部室での一件でぐちゃぐちゃの気持ちのまま家に帰って来て、その後は放心状態だったのだ。
あの時は憤りの方が激しかったのだが、一人になって考えてみれば、どうしてちゃんと自分の気持ち
を乾に説明できなかったのだろうと思う。

何が原因かは知らないが、乾が朝から機嫌が悪かった事は分かっていたはずだ。
あんな彼らしくない言葉も、普通の状態ではなかったからこそ出てしまったんだろう。
乾は、他人にあんな言葉をぶつける人ではないのだ。
それは付き合ってたった2ヶ月でも、絶対的な信頼として海堂の中にあった。

(先輩、きっと今になって辛い思いしてんだろうな…)
ちゃんと話をして苛立ちの理由を聞けばよかった。自分の気持ちも言えばよかった。
それなのに逃げてきてしまった自分が嫌でたまらない。


「…ごめんな、葉末。俺今日はちょっとぼんやりしてんな」
どうにも集中できない自分が申し訳なくてそう言うと、弟は考え深そうな視線を海堂に向けてきた。

「大丈夫ですか…兄さん、なんだか悲しそうです」
すとん、と心に入り込んできたその言葉に、海堂は目を見はった。
この弟には敵わないと思う。
まだ幼いのに、葉末はとても人の気持ちに聡い。
海堂が何も言わなくても、表情だけで色々な事を読み取られてしまうのが常だった。


ついに観念した海堂は、教えきれなかった算数の教科書をぱたんと閉じた。
座っていた椅子に背を預けて、深いため息をつく。
葉末は勉強机に付いた椅子をくるりと回し、海堂と向かい合うような形をとった。
兄が重い口を開くのを、しばし待つ。

「…あのな、葉末は友達とケンカして、思ってもないような事言っちまう時ってあるか?」
「それはありますよ。でも後でいやあな気分になるんです。言った時はスッキリしたって思うのに、後で
このへんがもやもやするんです」

そう言いながら弟が胃の辺りを押さえて見せる様子が可愛らしくて、海堂は微笑した。
自分は今までろくに友達もいなかったから、小さい子以上に仲直りの仕方を知らない。
好きな人が調子を崩している稀な日に、それを上手にあしらってやることもできなかった。
(ほんとに俺はいいとこなしだな。先輩も呆れてるかもしれねえな)

「ケンカしたんですか……乾さんと?」
「…え、なんで…」
「兄さんがこんなに気に病む人って考えたら、そうかなと思って」

兄が肯定したも同然の顔で俯く。葉末の心中は乾に対する怒りでグツグツ煮えたぎりはじめた。

葉末が乾に初めて会ったのは、正月5日の事であった。
朝のうちに乾が兄を迎えに来て、その日は夕飯を共にした。
その間、葉末はにこやかに接しながら、乾を隅から隅まで観察していたのだ。

兄とこの無駄に背の大きな眼鏡がただならぬ仲になりつつあることなど、葉末はとっくに気づいていた。
大切な兄が、いつの頃からか『乾先輩』の事をしょっちゅう口にするようになっていたからだ。
その感情がだんだん先輩後輩というよりも恋心に近づいてきたことには、自分だけでなく聡い母も
気づいていただろうと思う。

できれば邪魔をして破局に持ち込みたいのは山々だったが、結局葉末はそれができなかった。
乾は信じられないぐらい兄を大切にしていたし、何より兄が乾を本当に好きなのだと感じたからだ。
ものすごく認めたくないが、しぶしぶだったのだ。


「俺も葉末みたいに思ってることをきちんと言えたり、素直になれたらよかったのにな。顔はそっくりでも
俺は全然ダメだな」

いつもオーラのように兄を取り巻いている覇気がすっかりなりをひそめているのを見て、葉末は心中頭を
抱えた。
(兄さん、僕は単に世渡りが上手いだけです!!)

3つも年上の兄だが、こんなに純真で大丈夫なのだろうか。心配でたまらない。
もちろん葉末はこれまで同様に兄を守るつもりだったが、その役目を少しばかり乾に分けてやってもいい
と思うようになっていたのだ。

(なのに、失望させないでいただきたいですね、乾さん)
それは人間同士だから、たまにはケンカもするだろう。だが、重要なのはその後のフォローだ。
今日中に乾が何も行動を起こさないなら、兄には気の毒だがあの眼鏡には見込みがないと思った。


「宿題は明日提出じゃないんで今日はもう休んでください。気分が変われば仲直りもできますよ」
「…ああ、そうだな」
兄が優しそうに目を細めて、頭を撫でてくれるのを見上げながら、葉末は胸が痛くなった。

「でももし…先輩から電話あったら、今日はもう俺寝たって言ってくれるか」
「兄さん」
「今日はなんかな。自分が嫌で、うまく話せない気がするから…」
「分かりました、そうします。おやすみなさい、兄さん」
「おやすみ、葉末」


兄が静かに部屋を出て行き広い自室に一人きりになると、葉末は眉を寄せて考え込んでしまった。
(誰かを好きになるって、大変そうですねえ)

それでも乾が登場してからここ半年ほどの兄の変化は、家族でなくても分かるほど顕著だった。
表情も口数も豊かになって、以前よりももっと素敵な人になったと葉末は思う。
だから、本当は助けてあげたいのだ。

とりあえず何か飲もうと部屋を出て一階のキッチンへ降りかけたその時、電話が鳴った。
葉末は母より先に電話を取るために、転げ落ちるような速さでリビングへと猛ダッシュした。




Scene 3.

人生に厄日というものがあるとすれば、乾にとって今日はまさしくその日だった。

何をやっても、呪われているかのように上手くいかない。
いや、よく考えてみれば、そのひとつひとつは大した出来事ではなかった。
だがそれが重なった時の不愉快さは、もはや筆舌に尽くしがたいものだった。


まずそれは、朝食の時1枚しか残っていなかったパンを真っ黒に焦がしたことから始まった。
結局サラダしか食べられなかったし、一日の始まりにいきなりケチがついたような気がした。

乾は、朝練の時に海堂の顔を見るだけで幸せが充電される結構な体質だったが、今朝は彼に不機嫌
そうな顔を見せないようにするのが精一杯だった。


2時間目。数学の時間、昨夜きちんとやってあった宿題のノートを家に置き忘れた事に気づいた。
しかも今日に限って、何故かクラス全員がちゃんと宿題をやってきていた。
日ごろ品行方正な乾は家に忘れたと言えば見逃してもらえるはずが、何故か教師にイヤミを言われた。
向こうも同様に虫の居所が悪かったのかもしれない。

5時間目。今日の体育は野球だった。
2−0で勝っている9回裏。ツーアウト、ランナー2・3塁の場面。
あと一人抑えれば勝ち、という所で、打球がショートを守っていた乾を強襲し、乾はそこでありえない
ようなエラーをやった。
涙のサヨナラ負けだった。
だが、クラスの連中は乾の調子の悪さを知っているからか、むしろ気の毒そうな顔をしてくれた。


もうこのあたりで、乾のイライラは頂点に達しようとしていた。
それでも部活後に海堂の自主トレに付き合って心を癒そうと思っていたら、今度は科学の教師から呼び
出しを食らった。

乾はいつも科学室にミキサーを持ち込んで、乾汁の開発にいそしんでいる。
今まで科学の教師はそれを笑って黙認してくれていたのだが、いきなり使用禁止だというのだ。

理由を聞かせてくれと迫っても、一向にはっきりしない。
乾から見れば、思いつきで突然そんな事を言い出したとしか思えなかった。
話し合いは平行線をたどり、決裂した。その頃には、頭の芯がズキズキと重く痛んでいた。


そして乾はたまりたまった苛立ちを、何の罪もない海堂にぶつけてしまった。
チョコレートを受け取る受け取らないなど、個人の自由だ。
何もその相手と付き合うわけでなし、自分が口出しする事ではなかったのだ。
まして律儀な海堂が、好意を示してくれた相手に礼を言いたがることぐらい、ちょっと考えれば分かる
はずのことだったのに。

(全部やつあたりだ。ひどいことを言って傷つけてしまった)

ベッドに背を預け、床にぺたんと座った乾は、帰宅してからもはや1万回ぐらい自分を罵っていた。
部屋に暖房を入れることも夕飯を食べることも思いつかず、物音のない部屋でうずくまる。
どうしたら許してもらえるのか、分からなかった。


『…うわ、何なんすか、この部屋。本で基地ができてるんすけど』
『どこに何があるかは、ちゃんと分かってるよ?』
『先輩、なんで壁にラクガキが…ってこれ俺のデータじゃねえか!?』
『ああ、忘れないうちにメモしとこうと思ってね』
『メモはメモ用紙にしろ。何考えてんだ、アンタは…』

しんとした部屋に、海堂の声が今も生き生きと響いている気がする。
一度気を許した相手には意外と開けっぴろげな表情を見せる彼がいてくれると、こんな部屋でも明るい
楽しい場所のように思えた。


初めてキスした日から、乾は怖がらせないように海堂の反応を見ながら少しずつキスを深くして、彼に
触れるのも許されるようになっていった。

だが、そういう行為が続いた3度目だっただろうか。
彼が潤んだ目で乾を睨みつけ、『アンタも脱げ!』と怒鳴ったのは。
どうやら自分だけが一方的に気持ちよくされて達かされることに、我慢ならなくなっていたらしい。

自分が言ったことの意味が、本当には分かっていなかったのだろう。
実際に乾が服を脱いで肌を合わせると、途端にひるんだような顔をしていた。


本当は怖かったんだろうと思う。
今まではいじられるぐらいで済んでいた行為が、双方脱いで触れ合ってしまえば、最後までしなくても
一気にセックスの真似事という雰囲気になる。
だがそれでも海堂が自分を信じてくれているのを、ただつよく感じていた。
『…アンタは俺を傷つけたりしないだろ』

彼は知っていたのだろうか。本当に怖がっていたのは乾の方だと。
誰も触れたことのない無垢な身体を、初めて抱きしめるのが自分だと思うと、情熱と畏怖で気が狂いそう
だった。

『…好きだよ。怖いことしないから、俺のことだけ考えてて…』
『この状況でっ…どーやったら、他のこと考えられんだよっ…』

せいいっぱいの虚勢を張って怖くないふりをする彼が愛しくて、掠れた声で何度も好きだと囁いた。
誰かを抱くのは初めてじゃなかった。
なのにひどく温度差のある互いの身体に驚き、だがやがてそれが同じ温度に溶けることに深い幸せを
感じていた…


(ダメだ、海堂をなくすなんて絶対考えられない)
生々しいほどに彼の記憶が残る部屋で、乾はようやくそんな簡単な答にたどりつく。

振られるというのは、あの子に対する全ての権利を失う事を意味していた。
髪に触れ、声を聞いて、笑い顔を間近で見つめ、文句を言われながらキスをする。
そんなささやかな接触を、片思いをしていた頃の自分はどんなに渇望していたことだろう。
それを失うかもしれないのに、部屋でただ自己嫌悪にふけっている己は愚かとしか言いようがなかった。

(振られるのを、黙って待っててどうするつもりだ)
(謝って、許してもらえなくても謝って、泣いてすがったってかまわない)
(俺のプライドなんて、どれほどのもんだ)



心が決まれば、急に本来の乾らしさが戻ってきた。
ふと時計を見れば10時をとっくに回っている。
海堂家に電話するには遅い時間であったが、乾は迷わず電話の子機を取り上げ、とっくに暗記している
海堂の自宅のナンバーを押した。

「あ、もしもし、テニス部の乾と申しますが…薫くんは…」
『あっ、ハイ僕です〜!すみません、自分の部屋で取りますから、少々お待ちくださいね』
「…え?葉末くん??あ、ちょっと…」

決死の覚悟でかけた電話は、葉末の明るい声でいきなり腰を折られてしまった。
訳が分からず呆然とする乾の耳に、お待たせメロディがリロリロと鳴り響いている。
(葉末くん…だったよな、今の。俺を誰かと間違えたのか?)
頭の中が疑問符でいっぱいになった頃に、ようやく音楽がぷつりと途切れた。


『こんばんは。お待たせいたしました、乾さん』
「葉末くん?こんばんは、どうしたの、あの海堂…いる、かな…?」

ここにきて早くも、何となく乾の語尾は怪しくなっていた。
相手が小学4年生と分かっていても、電話の向こうから聞こえる葉末の声は厳格そのものだった。

『兄はもう休みました』
「え…ああ、そうか。もうとっくに10時回ってるもんな。海堂寝るの早いから…」
『…と、乾さんから電話があったら言うように頼まれました』
「うっ…」

以前会った時はただ海堂にそっくりで可愛らしかったはずの葉末の辛辣さに、もはや乾は完全に位負け
していた。
(な、何か不二属性のにおいがする…)
乾もバカではないので、葉末が大事な兄の為にかなり怒っていることは伺い知れた。

『乾さん』
「は、ハイ、何かな」
『うちの兄をあんなに悲しませておいて、電話一本で済ませようとはいい度胸なさってますね』
「いやあの…決してそのようなつもりは…」
『こんな時間まで何をなさってたんですか。行動が遅すぎやしませんか』
「……海より深く反省してました」

いつのまにか乾は、自室の床に正座をして葉末の説教を拝聴していた。
身長180センチに届く乾が電話の子機を握りしめながら正座する姿はかなり笑えたが、本人は死活問題
なので真剣そのものだった。


「海堂、葉末くんに話したの?俺にひどい事言われたって」
『兄は、そんなことをべらべらしゃべる人ではありません』
「…ああ、そう、そうだよね、ごめん」

本当にそうだった。
海堂は以前コート内で荒井たちと乱闘騒ぎを起こした時にも、相手が悪いとか、こんな事を言われた
などと一切口にしなかった。
自分に厳しくて、心のつよい人なのだ。
そんなことは誰より知っているつもりでいたのに。情けない気持ちでいっぱいになる。

『でも言わなくても分かります。僕は兄さんの弟だし、兄さんが大好きですから』
「うん、分かるよ。今日は本当に俺が悪かったんだ。許してもらえるまでずっと謝るから、それだけ伝え
ておきたかったんだよ」


その乾の声はとても真摯なもので、葉末は内心ほっとしていた。
今日中に電話もかかってこなかったら、兄がどれほど傷つくだろうと気を揉んでいたのだ。
だが色々と推察するに、どうも乾は少々いい気になっていたのではないかとも感じられた。

『乾さん、これからも兄さんと付き合い続けたいなら、覚えておいていただきたいのですが』
「え、付き合うって、あの葉末くん…」

重々しく告げてくる葉末の『付き合う』がどういう意味なのか、一瞬判断に苦しんだ。
だがその時、どかっと巨大な釘が乾の甘さに突き刺さった。

『僕がこの世で一番嫌いなのは、僕の兄をないがしろにされることなんですよ』

それを聞いた乾は、ただでさえ大きな身体をなるべく小さく縮める無駄な努力をしてしまった。
怖い、怖すぎる。海堂と付き合っていくためには、この子を無視しては絶対に通れない。
人生において敵にまわしてはならない人間が三人いると言うが、葉末はどうやら二人目らしかった。
もちろん、一人目は不二に決まっている。


「海堂に許してもらえるなら何でもするよ。どうしたらいいかな」
そう懸命に訴える乾は、小学生に物を頼んでいるとは思えない必死さだった。
だから葉末は 『今回は大目に見てあげましょうか』 と思ったが、一応は乾を試してみたくなった。

『…じゃあとりあえず来ていただけますか。今すぐにです』

2月の夜、もう10時半近い。しかも今夜は凍りつくような寒さだった。
葉末でも外に出るのは絶対ご免こうむりたい。
だけど無茶は承知で、少し乾が困るような事を言ってみたかったのだ。嫌がるだろうとは思っていた。

だが、勢いこんだ声で乾が次々と問いかけてくるのに、葉末は呆気にとられた。
「会わせてくれるの?本当に?今行けばいいのかな?」
『え、あの、乾さん』
「15分…いや急げば10分で行ける。頼む、ちょっとでいいから今日中に海堂に会わせて、葉末くん」


(分かってましたけど…この人、本当に兄さんのことが好きなんですね…)
ちょっと悔しいけれど、ホッとするような暖かい気持ちが葉末の胸に満ちてきた。
今日は行き違いがあったけれど、どうやらこの人に兄を託しても大丈夫らしい。
兄の幸福が常に最優先の葉末は、顔が見えないのを幸い、乾に悟られぬようこっそり微笑した。

『…分かりました。今日は特別ですからね。兄さんは繊細な人なんですから、今後は取り扱いに注意
なさってください』

苦笑まじりの葉末の声に、乾は自分が第一関門を突破したことを知った。
海堂が自室に籠もってしまった今、葉末の力を借りるより方法はない。何とかあの子に会いたい。

「うん、約束する。ありがとう、葉末くん」
葉末が指示を飛ばすのを顎に電話を挟んで聞きながら、早くも乾はコートに袖を通しはじめた。




Scene 4.

もう11時を過ぎてしまっていた。寝るのが早い海堂はいつもならとっくに夢の中にいる。
だが、今日は気持ちが沈んでどうにも眠れなかった。
ソファに沈みこみ、テレビの音を消してニュース番組の画面をぼんやりと見つめている。


どこかの国の内乱の映像が流れていて、自分は随分と平和な国に住んでいるのだと知れた。
比べれば、自分の悩みなど卑小なものだとは思う。
だが、それでも好きな人とのいさかいは心のあらゆる部分を暗くした。

ほんの少し前まで、自分はこんな想いを知らなかった。
それでも辛いからといって、以前の何も知らない自分に戻りたいとは思えないのだ。

(先輩…どうしてっかな…)
まとまらない頭にそんな思いが浮かんでは消える。海堂は前髪をくしゃっとかきあげた。
その瞬間、乾が自分の髪を指でそっとのけて、額にキスを落とすのが好きな事まで思い出してしまう。

(ああもう、俺はなんでこんなにあの人を好きなんだよ…)

口に出して好きだと言ったことなど、告白の日から一度もなかった。
だけどきっと自分の方が乾を好きだろうと知っている。
乾が欲しいものなら、本当は何だってやりたいのだ。
怖くないと言えば嘘になるが、この身体だって乾が欲しがるなら与えると海堂はとっくに決めていた。

(先輩に欲しいって言われなくなるのが、一番怖い)

結局電話はかかってこなかったようだ。
葉末に居留守まで使わせようとしたくせに、来ない電話に落ち込んで。
本当に自分は身勝手で、どうしようもない。

海堂はソファに膝を立て、疲れきったように顔を伏せた。
今ひとつだって自分のいい所が思いつかない。



その時、軽いノックの音がして、「兄さん…」とパジャマ姿の葉末が入って来たのに驚いてしまった。
「葉末?おまえもう11時過ぎてんぞ。どうした、眠れねぇのか」

だが葉末は兄の問いには答えずにぺたぺたと窓際まで歩み寄り、カーテンを開けて外を見やった。
「…ああ、来ましたね」
小さく呟くと葉末は振り返り、にっこり笑って海堂を手招きする。

いぶかしげな顔で弟に近づいた海堂は、葉末が指差す方向を見てびっくりして固まってしまった。
家の門扉のところに人影があった。薄暗いけれど、誰かなんてシルエットだけでもすぐ分かる。
外の寒さがこたえるらしく、肩をすぼめるようにして立っている乾の姿。


「乾先輩…」
海堂が呆然としている間に、葉末はクローゼットから兄のダッフルコートをひっぱり出した。
マフラーと手袋も持ってきて、海堂の手に次々と押し付ける。
「兄さん、早くこれ着てください!えーっと服はまあスエットだからいいし、靴下は履いてますね?」

異様にてきぱきした弟に逆らえず、されるがままにコートに腕を通しながら、海堂は混乱した口調で
葉末に問いかけた。

「葉末、おまえが先輩呼んでくれたのか?」
「いえ、乾さん電話をかけてこられましたよ。どうしても兄さんに会いたいって頼み込まれたんです」

楽しそうにくすくす笑う弟を見て、だがこれを仕組んだのは葉末の方だろうと海堂は察した。
いつから用意していたのか、葉末は階下から海堂のスニーカーも持って来ていたのだ。


「兄さん、僕の部屋のベランダの木をつたって降りられますよね?」
「葉末」
「悲しい気持ちで眠ったりするのは、よくないです。仲直りしてきてください」

弟の澄んだ黒い瞳を見ていると、素直になれずに部屋に閉じこもった自分がバカみたいに思えた。
ちゃんと話をして、お互いの気持ちを聞かないと、何も解決するはずがなかったのに。

「葉末、ありがとうな」
スニーカーを持ち、手袋はポケットに突っこんだ。
この手袋はクリスマスに乾に貰った物だ。木をつたって降りる時に傷めてしまいたくなかった。

「何度も出入りするとお母さんたちに気づかれますから、僕今日は兄さんのお布団で寝ますね。
兄さんは戻ったらそのまま僕のベッドで寝てください」
「…分かった。おやすみ、葉末」
「おやすみなさい、兄さん」


海堂が音を立てないように部屋を出てゆく姿を笑顔で見送ると、葉末はひとつ大きなあくびをした。
明日も学校のある小学生には、起きているのが辛い時刻だ。
だが自分が兄の役に立てたらしいと思うと、葉末はいたって満足だった。

部屋には暖房が入っていたが、パジャマ姿では夜はやはり寒い。
和室を仕切ってある襖を開けると、敷いてある兄の大きな布団へと大急ぎでもぐりこんだ。

(バレンタインに仲直りというのも、いい思い出になるかもしれないですね)
「くたびれました…」と呟いた葉末は、兄の枕に頬をつけた。
目を閉じると、やがて健やかな眠りへと吸い込まれていった。




Scene 5.

海堂家の前でであまりの寒さに身を縮めていた乾は、駆け寄ってくる足音に気づいて顔を上げた。
「乾先輩!」
時間を気にしてか大きな声ではなかったが、海堂は呼びながら手を伸ばし、乾の着ていたコートの
袖を掴んでくる。

その手に自分が贈った手袋がはめられているのを見て、乾は胸が痛くなった。
今すぐここで抱きしめてしまいたいような、愛しさがつのる。
だがこんな所で、彼をどうこうするわけにもいかない。

「海堂、頼むから一緒に来て」
必死な声で乾にそう言われて、海堂は黙って頷いた。何も聞かないし、何も言わない。
少し先を歩く乾の背中をただ見つめながら、凍りつきそうな空気の中、後をついていった。


こんな時間に自分が外にいるだけでも不思議だった。
そして会いたかった人と一緒にいることは、もっと不思議に思えた。

時々、乾が確かめるように振り返るから、歩調を速めて離れないようにして歩いた。
(なんでだろう。先輩がいるだけで、俺もう安心してる)
(海堂の顔を見ただけなのに、もう大丈夫みたいな気がするな)
似たようなことをお互い考えているとは知らず、二人は海堂家のすぐ近くにある公園に入った。


小さな滑り台とブランコぐらいしかないその公園のベンチに、乾は海堂を座らせて「寒いだろ?
ごめんな」と囁いた。
ふるふると首を振ると、海堂は無言で自分の右側の席をぽんと叩き、乾に座るように促す。

こんな都会でも、冬の澄んだ空気の中では星がまたたいて見えていた。
それをしばらく見上げた後、乾は海堂に向き直り、ベンチに手を着くような姿勢で頭を下げた。

「ごめん、海堂。俺ひどい事言った。甘えてるかもしれないけど、許してほしい」
「乾先輩…」

長身の乾の頭のてっぺんが見えるのは、本当に珍しい。
だがいつまでも頭を上げない乾に困惑しながら、これって何か違うんじゃねえかと海堂は思った。
ただ謝られて自分が許して終わりでは、何も分からない。
乾の心も、自分の心も、見えてこない。

「先輩、あの…手を…」
「え?」
「手ぇ繋いでも…いっすか…?」
「海堂?」

唐突な海堂の言葉の意味を測りかねて、乾は彼の顔をのぞきこんだ。
公園の薄暗い明かりに照らし出された黒い瞳が、必死で何かを言おうとしている。

「勿論いいよ…でも、どうしたの?どうして?」
その優しく問いかける声に、海堂は心の底からほっとした。
いつもの乾だ。海堂の言いたいことを、我慢づよく聞いて理解してくれようとするひとだ。

「…なんか、触ってた方が、上手く伝わる気がする…」
だからつっかえながらも懸命に喋ると、乾はちょっと目をみはってから、くしゃっと笑ってみせた。
とても嬉しそうな顔で左手を差し出してくる。


海堂は急いで右手の手袋を外したが、その時乾が手袋をしていないのに気がついた。
「先輩、そっちの手貸せよ」
そう言うと海堂は、脱いだ手袋を乾の右手にはめてやった。
指が長くて手の大きい乾にはサイズが小さかったが、ないよりマシだと思ったのだ。

一方、手袋を分けてもらった乾はといえば、不謹慎にも顔がにやけて仕方なかった。
(…どうなんだろう、これ。幸せだなあ)
自分は海堂に許してもらうべく謝って謝りたおすために来たのだが、今や手袋の片方をはめて
もらい、空いた手は彼と繋いでいるのだから、嬉しくて困る。

「冷てぇ手っすね。アンタ体温低いからな…」
「いやあの海堂…その発言はちょっとHくさいんだけど…」
海堂の天然発言に少々赤面した乾が言うと、海堂は意味を悟ったのか、耳まで真っ赤になった。

服を脱いで初めて素肌で触れ合った日に、乾の体温は低めで自分の体温が高めなのだと知った。
触れ合う肌の温度差に、びっくりしたものだ。
それを何も考えずに口に出した自分が恥ずかしくて、海堂は死にそうになってしまった。
俯いていても、乾がくすくす笑っているのが分かる。

「笑うな!ムカつく」
「ごめんごめん、すごく可愛いから」

こいつ、殴ってやりてぇと思ったが、海堂の右手はしっかり乾に握りこまれていた。
氷みたいに冷たかった乾の手は、さっきまで手袋に包まれていた海堂の手の熱で、じわじわと
温まってゆく。

(あ、ほんとだな。何か伝わってくる気がする)
何も説明せずにただ謝ろうとしたさっきの自分が、また先走っていたのだと乾は気づいた。
だけどこうして彼に触れると、心まで触れ合っている気がする。
ちゃんと話して分かってほしいと思った。きっと、彼も自分に言いたいことがあるのだ。



そして乾は今日あったことを、最初からひとつずつ海堂に話して聞かせた。
こんな冴えた空気の中にいると、余計にどれも大した事じゃなかった気がして少し恥ずかしかった。

だが、海堂に格好つけたり誤魔化しても意味がないと思えた。
彼と触れ合っている今は、なおさら本当のことしか言えない。隠さずに自分をさらけ出すしかない。


「……だからあの時、もう俺本当にイライラが最高潮で…海堂に八つ当たりしたんだ。海堂がチョコ
くれる人にお礼言いたがるなんて、ちょっと考えたら分かることなのに…聞こうともしないで…」

自嘲気味の声で乾が話してゆくのを聞きながら、だが海堂の気持ちはゆっくり解けていった。
理由が分かっていれば大丈夫だ。あの時は、乾のことが怖いと思った。
なんで、尖った言葉を投げつけられるのかが、分からなかった。

でも、教えてもらえた。
自分にだってツイてなくて、何をやっても裏目に出たりする日はある。
人一倍大人びて見える乾にもそんな日があるんだと知って、却って安心したような気持ちになった。


「…本当にすまなかった。ひどい事を言ったし、すぐ許してくれなんて言わない。でも海堂…」

薄明かりに照らされながら見える眼鏡の奥の乾の瞳は、辛くて切ない色をしていた。
繋いだ手にぎゅっと力が込められ、『嫌わないでほしいんだ』 と小さな声がつぶやく。
その掠れた響きに、海堂は胸が痛くてたまらなかった。
ささいな心のすれ違いが、こんなにも自分たちにお互いを見失わせる。誰より大事に思うのに。


「…俺があれくらいでアンタを嫌うわけないだろ」
少しつよい口調で言ってみたものの、海堂の中にも何か割り切れていないものがあった。

(この人、前はもっと俺に、今みたいに色々話してくれてた)
乾は周囲には表情が読みにくい人間だと思われている。いや、読ませないのか。
だが海堂には、これまでいろいろな顔を見せてくれてきた。
笑ったり、しょげたり、怒った顔や叱る顔、まれに弱音を吐いてくれることだってあったのに。

……なのに、いつからだろう。
乾が、笑った顔しか見せてくれなくなったのは。


「俺は俺が嫌だったんだ。先輩が調子悪い時ぐらい上手に受けとめてやりたかったのに、ケンカ腰に
なって挙句に逃げ出して…」
「でもそんなのは、俺が悪いだろ」
「…そっすね。でも俺もダメなんだ、きっと…」

巻いたマフラーに顎を埋め、俯いてしまった海堂には、何か他に言いたいことがあるらしかった。
困り顔の彼からそれを汲み取ってやりたくて、乾は必死になる。

「…海堂?なあ、言いたいことを言ってみて。上手く言おうとしなくていいから、俺に聞かせて」
サイズの合わない手袋をした指で、彼のこめかみのあたりの髪をさらさら梳くと、海堂は撫でられた
猫のように目を細め、しばらくじっとしていた。
それから思い切ったように、黒い瞳をもう一度向けてくる。

「…先輩は、いつも俺に優しい」
「だ…ダメなのか?」
「そうじゃないけど…俺はあんたの恋人だから」


海堂の口から初めて出た“恋人”という言葉に、乾の心臓は止まりそうになった。
だが海堂は相変わらずもどかしそうに眉を寄せながら、言葉を選んでは口にする。

「もっと弱音っていうか、今日こんなやな事があったとか、そういうのも話してほしいんすよ…良いこと
だけじゃなくて…」

海堂のとぎれとぎれの言葉は、お世辞にも分かりやすくはなかった。
だが乾もだてに、海堂がほとんど喋らなかった頃から彼を好きでいたわけではない。
自分たちがすれ違っている根本的な原因を、乾はようやく悟った。
(俺は…海堂にいい顔ばかり見せようとしてたのか…?)

好きな人に心配かけたくないのは当然だ。格好悪いところだって見せたくない。
だが今日の一連の出来事も、『こんな事あって、まいったよ』 と気軽に彼に打ち明けてしまえば、笑い
話ですんだのだ。

なのに自分は無意識に、ダメな部分を見せまいとした。
いやきっと今日だけでなく、だいぶ前からこんなことをやっていたのだろう。
偽りを重ねたあげくに、彼を傷つけたなんて本末転倒もいいところだ。


「俺…先輩にも俺を頼ってほしいんすよ。俺もそうしてもらえるようになるから…だから」
なのに彼は乾を責めることもせずに、ただ懸命につたない言葉を紡ぐ。

「笑ってばっか、いないでほしい」
「…海堂」


暖かな掌を握り合わせたまま、二人はどちらからともなく手袋をはめた手を伸ばし、確かめるように
互いをかき抱いた。
感情のストッパーが外れたのか、海堂が泣きそうな声で乾を呼ぶ。

「先輩…乾先輩…」
「大丈夫だ、海堂。もうちゃんと分かったから。俺、よく分かんなくなってて怖かったよな。ごめんな」

愛しい人の暖かな身体を、乾は必死でひきよせた。
こんなにそばにいるくせに寂しい思いをさせて、自分はいったい何をやっていたのだろう。

ダメなところも、弱さも、醜い感情も、目を逸らしては通れない。
それこそが、相手を知ってゆくという事だった。
自分ではない誰かを好きになること。
……彼はその混沌を恐れるような人ではなかったのに。


「大丈夫…もう大丈夫だよ」

情けない話だが、海堂との大事な場面であるほどに、自分はろくな事が言えたことがない。
彼に告白された時も、自分の反応ときたら支離滅裂で笑ってしまうほどだったのに。
それなのに何を今さらかっこつけていたのだろう。

乾はすっぽりと抱きしめた海堂の髪や耳元や額に、羽のように軽いキスをいくつも落とした。
固く閉じたままの目元に涙がたまっているのに気がついて、それも優しく唇でぬぐってやる。

キレイじゃないものも、分かち合ってゆくのだ。
ずっと二人でいたいのなら。



肩を震わせる海堂をなだめるように、乾は彼の体を軽く揺すりながら長い間抱きこんでいた。
艶のある黒い髪に頬を触れさせると、甘い香りがして眩暈を覚える。
凍りつくほどの寒さなのに彼は暖かで、見上げた空には細く冴えた月がかかっていた。

もうきっと日付は変わっているのだろう。バレンタインデイだ。
菓子業界の陰謀ぐらいにしか思っていなかった日だが、こんなふうに恋人と過ごせるのなら、やはり
それなりに意味があるのかもしれないと思えた。


「海堂、でも俺やっぱり海堂の顔見ると笑っちゃうんだ。だって嬉しいからね」
緊張を解くような乾の軽口に、海堂は涙で汚れた顔をようやく上げた。
身をよじって離れようとするが、乾がそれを許すはずもない。

「…つまり俺は、あんたのだらしねーツラばっか拝んでるってわけかよ」
「まあそういうことになるのかな。好きなんだから、仕方がないよ」

臆面もない発言にアホかと言われるかと思ったが、海堂は俯いたままぼそりと何かを呟いた。
「え、なに?」
「…俺も、あんたが好きだ」


唐突な愛の告白に、乾はまばたきを数回繰り返した。
記憶を辿ってみれば、海堂に好きだと言ってもらえたのは、告白された日以来のような気がする。

「…なんてカオしてんすか、アンタ」
「いやその…バレンタインの神様って本当にいるんだなと思ってさ…」
「なんだそれ…」

海堂が小さく吹き出したのを見て、乾はこのまま家に連れて帰りたいなと思ってしまった。
だが、そんなこともできない。
今、彼がここにいてくれるだけでも充分にスペシャルな事なのだから。

「今日、学校帰りにチョコレート渡すから、家に来てくれる?」
「今日って…ああ、もう日付変わってるんすね」
「うん、離したくないけどね。帰らなきゃ」


そう言うと乾は、特別な意味をこめて彼の顔をもう一度のぞきこんだ。
海堂がそれを理解したように目を閉じたのを見届けてから、そっと唇を合わせる。

いつもキスの瞬間に起こる、甘い衝動。
何度も触れた後に、柔らかな唇の裏側を舐めてやると、背中に回っていた海堂の手がコートを
ぎゅっと握るのを感じた。

きっと二人とも体温が上がって、お互いをつよく求め始めている。
愛しくて、愛しくて、もうこのまま溶けあってしまいたい。
彼の髪を撫で、きつく抱きしめながら、乾は溺れるように口づけを深くした。

恋人たちには特別の日だから。
言葉を100重ねるより、キスした方がよく分かることがあるんだろう。



ケンカの後に仲直りもたまにはいいかもしれねぇなと、海堂は終わらないキスにぼんやりする頭の
片隅で考えた。
(さっきより、ちょっとだけアンタに近くなれた気がする…)

きつい抱擁も、頭の芯を痺れさせるような唇も、吐息交じりに呼ぶ声も。
それらすべてが乾を形づくるものならば、もう少しも怖いとは思わない。


だから海堂は微笑むと、残った理性を投げ捨てるようにして自分から乾のキスに応えてやった。