建て付けの悪い扉を開けると、誰もいないその部屋はガランとしていた。

先ほど降り出した雨のせいか、気温が低く感じられる。
ひどく寒々とした、室内。
軽く眉をしかめると、獄寺は銜えていた煙草を柱に押し付けて消した。


こんなところを彼に見られたら、きっとたしなめられてしまうだろう。
ただでさえ大きな瞳を見開き、『獄寺くん、ダメだってば』 と言う声が聞こえてくるようだ。

その考えに、不機嫌そうだった獄寺の口元はふ、と緩んだ。
同時に、たった数分の間も彼を思わずにいられない自分に呆れもしたが。

……幸福な、幸福な、孤独感が満ちてくる。

雨が窓を斜めに叩く、パタパタという音がしていた。
どうやら本降りになってきたらしい。
電気を点けてみてもなお、音楽室の中は薄暗いままだった。


彼は今日は日直で、何か面倒なことを教師に言いつけられたらしい。
お手伝いしますよと言ったのだが、すぐ済むから待ってて!と返されてしまった。

だが昔と違って彼も、「先に帰っていいよ、獄寺くん」とは言わない。
勿論、いかなる時も獄寺が一人で帰るはずなどないのだが。
それが、一緒にいたいというツナの不器用な意思表示だと気づいた時には、本当に嬉し
かったものだ。

音楽室にいますね、10代目、と告げたその瞬間に。
振り向いた彼が、ふと気がかりそうな目で自分を見たように思った。
あれは、気のせいだったのだろうか。



五線譜のひかれた黒板は、ぞんざいに消されたせいで白く汚れていた。
音符の跡があちこちに残っている。
その前には、公立の高校にしては立派なグランドピアノが据えられていた。

部屋の中には、他にも物はたくさんあるのに。
楽器というのは何故こんなにも存在感があるのだろう、と獄寺は思う。

昔住んでいた城には、父親の収集した悪趣味な飾り物が溢れていた。
だがそんな中でもグランドピアノは、穢されることなく、泰然としてそこに在った。

(それが好きだったのかもしんねえな…)
ずっと異端な存在だった自分と。
周囲の物と馴れ合うことを知らない大きな黒い楽器。
それが、どこかしら似ているように思えていたのかもしれない。


自分の顔を歪んで映す、真っ黒なピアノの蓋を見つめた。
子供の頃は手が小さかったから、これを開けるのも重いと感じていた。

最初は姉のビアンキが習っていたのだが、獄寺が興味を示すと彼女はあっさりとピアノ
の練習を放棄した。
半分だけ血の繋がった姉のことは、嫌いではないが好きでもなかった。
その時はただ、ピアノが自分専用になったことにだけ、僅かに喜びを感じたように思う。



不規則に、雨の音が響く。
獄寺はピアノの上に乗ったメトロノームを指先で動かしてみた。
カチ、カチ、カチ、カチ…と、こちらは決まったリズムを半永久的に刻んでいく。

それらが混ざり合うのを、きつく目を閉じながら聞いた。
そうしているうちに、忘れかけていた記憶がざわざわと蠢動し始める。
(なんか…頭、痛ぇ……)

誰にも言ったことはなかったが、雨がきらいだった。
イタリアにいた頃は、行き場もなく、毎日ただ暴れては誰かを傷つけてばかりいた。
その報いか、終いには必ず自分も怪我を負った。
いつも惨めな気持ちで、フラフラと一人さまよい続けていた。
そんな自分を嫌でも思い出す。吐き気が、こみあげてくる。


普段は明るく陽気なはずのイタリアの街も、獄寺には優しくなかった。
獄寺が東洋人の血をひいていることは、常に蔑みの目で見られる理由になった。

『東洋人とのハーフなんかにボスの命をあずけられっか!』
『てめーをやとうファミリーなんて、イタリア中探してもありゃしねーよ!』

暴れ回っているうちに、 『スモーキンボム』 という通り名はいつしか有名になっていた。
だが、それだけのことだった。
その悪名のせいで、却ってどこのファミリーの人間からも忌避される結果となった。


どうして。
どうして、自分には居場所がないのだろうと思った。
どしゃ降りの雨の中、汚れた路地にしゃがみこんでは嗚咽だけをもらした。
それでも涙は、出てこなかった。

寝て起きる場所はあっても、そこを 『家』 とは思えず。
生まれて育った国だというのに、半分流れる東洋の血のせいで、誰もが獄寺を拒絶した。

異端だった、いつも。
世界のどこへ行っても、それは変わらないのだと思い込んでしまっていた。
あの頃。


(ただ欲しかった…それだけなんだ、オレは…)
自分の力の使い途。 共に戦える仲間。
生まれてきて死ぬ、その理由と、帰るべき場所。

(10代目…)
ふわり、と脳裏に彼の人の面影がよぎった。
やわらかな、控え目なその笑顔。
獄寺の中で悲しみと安らぎがせめぎあい、やがて視界はうすくぼやけていった。

気が狂いそうな雨の音を聞きながら、すがるようなつよさで祈った。
ただ一人の、守るべきひとのことを。
自分から取り上げないでくれ、と。

両手を組み合わせ、頭を垂れて、どこにいるかも知れない神へとすがる。
唯一無二のその願い。
だが覗き込んでしまった深淵はずるずると暗く、底は容易に見えそうにもなかった。




「案外はやく終わって、よかったな〜」
沢田綱吉は口の中で小さく呟くと、校舎内の屋根のある場所を選びながら、歩みをより
一層速めた。
その声は強さを増した雨音にまぎれ、やがてかき消されてゆく。

時折、風に煽られて雨が体にあたったが、気に留めなかった。
待たせている人がいる。急がなければならない。


だが、思い返せば獄寺は、昔から自分を待つのが好きだった気がした。
大抵は補修だのなんだの、ツナの出来の悪さのせいで遅くなるのに。
迷惑がるどころか、彼はいつでも嬉々として自分を待った。

何かとてつもない幸せを感じているような、ゆるく弧を描いた口元。
そういう時の獄寺は、とても優しい表情をしていた。
それが不思議で。でもそれを見るのはなんだかすごく好きで。

『獄寺くんさ、遅くなるから、先に帰っていいよ…』
そう言いつつも待っていてほしかった自分は、今考えれば相当タチが悪かったりする。
だが獄寺は、どんなに遅くなってもツナを一人にすることなどなかった。
長い間、他者に軽んじられることの多かったツナには、それが本当に嬉しかったのだ。


彼に大切にされるのは、今でも変わらない。
(いや…変わった、かな…?)

『待たせてごめん、獄寺くん!』 と、息せき切って駆けよる自分を見つめる獄寺は、灰碧
色の双眸に滲む甘さを、今はもう隠すことはしなかった。
そのあからさまな恋情に触れると、心臓が止まりそうになる時もあるけれど。
きっと自分も同じような顔をしてるんだろうな、と密かに思う。

途端に、かーっと頬に血がのぼるのが分かった。
指先でペタペタと頬をはたいて、なんとかやり過ごす。
(うわ、オレ、すっげー恥ずかしいこと考えてるよ…)


こんな気持ちは、どうしようもない。
昨日今日付き合い始めたわけでもないだろ、オレ…と頭を抱えてみてもだ。

あの恐るべき家庭教師に 『ガキのくせに色ボケしてんじゃねーぞ』 と言われたような
気がして、ツナは思わず周囲をキョロキョロと見回してしまった。
傍目から見ればおかしな行動だろうが、気は抜けない。
昔ほど頻繁ではないものの、どこで見張られているか分かったものではないのだ。



屋根のついた長い渡り廊下を封じ込めるように、雨は降っていた。
時間的にももう遅い。
芸術棟へと続くこの廊下を使う者は、ツナ以外にもういないようだった。

カバンの他に、右手には折り畳みの青い傘。
朝、母親に押し付けられた物だったが、本降りになった今は素直にありがたい。

(まあ、獄寺くんと二人で入ったら、役にたたないかもしれないけど)
最近また背が伸びたみたいだし、とツナは密かに笑った。
ツナは10年後の獄寺を見たことがあるから、彼がどんなに成長するかは知っていたが
その過程を見つめてゆくのも悪くない。

(ていうか、他の誰にも見せたくないな)
我ながら了見の狭い考えが、ふと脳裏をよぎった。

先刻も、彼が音楽室で待っていると告げた時には、ひやりとした。
獄寺がピアノを弾いているのを誰か女子にでも見られたら、大騒ぎになるだろう。
普通にしていても彼は目立つし、怖がられつつも人気があるのだ。

(なんで自分のことには無頓着なんだろうな〜獄寺くんは)
苦労性な性格だけはそのままのツナは、ハァ…と肩を落とした。
もちろん獄寺の気持ちを疑うわけではない。
だが、やきもきしないかというとそうでもないのが複雑なところだ。


いくら年月がたっても、ツナは自信というものと縁が遠かった。
周囲からダメツナダメツナと言われ培われた卑屈さは、そう簡単には抜けない。

なのにリボーンが現れてからできた知人が上玉ぞろいなのには、正直眩暈がした。
そんな中、自分一人だけが悲しいぐらいに平凡…というか出来が悪い。
昔に比べれば努力も実を結ぶようになったが、それでやっと人並みというところか。

誰かに一番好きになってもらえたのが信じられなかった。
これはきっと奇跡だ。
一生分の運とひきかえに、手に入れた奇跡。

(大好きですよ、10代目)
瞼の裏でひらめく、彼の笑い顔。
整った面差しをくしゃくしゃにして、笑いかけてくれる。
それを見る瞬間の、たとえようもないしあわせ。
眩いぐらいに、光る。


(きみを好きになって…オレはずいぶん欲張りになっちゃったよ)
目を伏せながら、ツナは少し大人びた顔でくすりと笑った。
何に対しても諦めのよかった自分が、誰にも渡したくないと思うなんて。

だが彼をとりに来る者が本当にいたら、自分はきっと戦う。
泣きじゃくりながらかもしれないけど、カッコよくはないけれど、譲らないと決めている。
それって、すごいことだと思うのだ。



その時、降りしきる雨の向こう側から、かすかなピアノの音が聞こえてきた。
ツナはうっすらと煙るその風景を、透かし見るように目を細める。
(弾いてる…獄寺くんが前に聴かせてくれた曲だ)

メロディは耳に馴染んでいた。
だがどうしようもない程の違和感が、ツナをその場に立ちすくませてしまった。
美しい旋律の中に、はらりはらりと混ざりこむ悲痛な音。

同じ人間が、同じ曲を弾いているというのに。
「なんで、こんな……」
こんなにも、空気が、悲しみにふるえるのだろう。

伝わってくるものが痛くてたまらなかった。思わず制服の胸元をギュッと握りしめる。
不安、焦燥、孤独、悲嘆……慟哭。そういうものに、肌がひりひりした。

いけない、と思った。
こんな風に弾かせたらダメだ。
(獄寺くんのところへ行かないと、はやく)

冷たい空気を肺までヒュッと吸い込むと同時に、ツナはもう駆け出していた。
長い陰鬱な廊下を、自分にできる全速力でもって一目散に走りぬけていった。




ガタッ、と力任せに開けようとした扉が一度詰まる音がした。
それに驚いた獄寺が鍵盤を滑る手を止めるより先に、横開きの扉は今度こそガラリと
開け放たれた。
右手の和音が名残のように、重い音を部屋に響かせる。

走ってきたのだろうか、息をきらしながらツナが扉付近へと荷物を落とした。
それから、まっすぐこっちを見る。
獄寺くん、と安堵したように呼んだ。 小さな声だった。

いつもなら彼は、獄寺がピアノを弾くのを邪魔したくないのか、音もたてずにそうっと室内
に入ってくる。
それを知っているからか、獄寺は今のこれが現実のことのように思えなかった。

濁った思考もそのままに、ツナの姿をぼんやりと目に映す。
薄暗い部屋のなかで、彼の髪と瞳の明るい色がひどく美しく見えていた。


だが突然、獄寺は弾かれるように自分の『役目』を思い出した。
体中から血の気がひいていく。
彼に何かあったにちがいない、そう思った。

「じゅ、10代目!何で…どうなさったんですか!?」
自分でも情けなくなるような、ひっくり返った声でそれだけ叫ぶと、腕を伸ばし必死の思い
でツナを引き寄せた。

ケガをしていないか、撃たれたりしていないか。
震える指先で彼に触れ、痛みを訴えないかを確認していく。
混乱しすぎて、頭がおかしくなりそうだった。


「あのさ。 どうかしちゃってるの、きみの方だから」
オレなら大丈夫、と言い聞かせると、ツナは珍しく強引に獄寺の腕を取った。
そのままぐいぐいピアノ椅子のところまで連れていき、無理やりそこに座らせる。

それから、無機質なリズムを刻み続けるメトロノームへと視線をやった。
(こんなの聞いてたら、おかしな気分になるはずだよ)
腹立たしい思いが心をよぎる。
ツナは、ほとんど握りつぶすようにしてその針の動きを止めた。
とたんに、音楽室の中は雨音だけに満たされてゆく。


自分よりずっと背の高いはずの獄寺を、立ったままツナは静かに見つめた。
ひどく動揺した様子の彼の肩を、優しく撫でてやる。
ピクリ、と体を震わせて、獄寺は灰に碧が溶け込んだ美しい瞳を揺らした。

「どうしたの。なんで、泣いてたの?」

ランボやイーピンにでも言ってるみたいだな、と我ながらおかしくなった。
獄寺は、自分より体も大きいし頭もいい。何だってできる人だ。
子供あつかいなど似合わないと知っているけれど。

でも彼は、何かがとても悲しかったのだ。
目の前にいると、それが伝わる。
あのピアノの旋律と同じ、ひりひりとした波動に胸が締めつけられる。


「オレ 泣いて ない…です、よ…?」
ツナの唇からもれた優しい問いかけに、獄寺はほんの僅か首を傾げた。
だがそれとはうらはらに、今にも崩れ落ちそうに表情をゆがめる。

今まで彼は、こんな悲しみをどうやって押し殺してきたのだろう。
涙を流すだけが泣くってことじゃないのに。
この人は、そんなことも知らない。

それは、とても寂しいことのように思えた。
だがその掠れた声は、ツナの胸の内に却って熱いものをこみあげさせる。

馬鹿だね、と小さく呟いた。
泣くに泣けないこの人が、ただ愛しかった。
頭で考えるよりもはやく、ツナは両腕を回すと、しっかりと獄寺を抱きしめていた。



どのくらいそうしていただろう。
お互いの体温が充分に交換された頃、獄寺は観念したように深く息を吐いた。

座ったままの自分を、くるみこむように抱いている人がいて。
離す気など、まったくなさそうな様子だ。
この優しさが自分だけに向けられているのだと思うと、頭の芯がくらりとした。
心からも体からも、いつしか余計な力は抜けおちていた。

「10代目…」
「なに、獄寺くん」

彼には、ボンゴレの血を持つ者特有の 『超直感』 が備わっている。
だが、それでなくても昔から、他人の気持ちには聡い人だった。
過去に、周囲から心無い言葉を投げつけられる事が多かったせいだ。
傷ついてきたその数だけ、それがどんな痛みなのかを、彼はよく知っていた。

(なのにこの人は、他人を拒絶したりしねーんだ…)
自分の弱さが少し気恥ずかしく。
だが、彼に大切にされている自分を誇らしいとも感じられた。

ゆっくりと体を離し、主であり恋人でもある人をまっすぐ見あげる。
ぽつり、ぽつりと、胸を塞いでいたものを言葉にした。

「今朝、雨が降ってたせいか、へんな夢見ちまって…」
「……うん」
「なんか色々、いやなことばっか 思い出してきて」
「イタリアにいたときのこと…?」
「そうです…」

「獄寺くん、イタリアにいた頃のこと、あんまり話してくれないもんね」
「すみません、10代目…」
「いいけどさ…オレ、ホントは無理やりにだって聞き出したいとこなんだよ?」


少しばかり拗ねた口調でそう言ってやったが、ツナは内心とてもほっとしていた。
獄寺は、自分の前で弱みを見せたがらない。
『右腕』 としてあるまじき事だと思っているからだろう。

だが自分は、彼の 『恋人』 でもあった。
分かち合えるものは、たとえ悲しみでも分け合いたいとツナは思っていた。

(今は…これが精一杯なんだよね…)
辛かったと口に出して言ってくれただけでも、大進歩なのかもしれない。
それに、そんな時に傍にいてあげられたのも、すごく嬉しい。

急ぐ必要はないのかもしれなかった。
だから、ションボリと俯いてしまった獄寺の髪をそっとかきあげてやる。
そこに、大好きだよ という気持ちを込めた。

「待ってるけどさ、いつまでだって」
「10代目…」
「時間はいっぱいあるんだし。ずっと一緒にいるんだよね、オレたち?」
「えっ…」
「いっしょにいられるよね」
「は…は、ハイッ!!」



「じゃあ、いいよ。でも帰る前に、オレに一曲弾いてくれるかな」
そう言うが早いか、ツナはピアノ椅子の足元にぺたんと座り込んでしまった。
それでなくても室内は冷えているのに、気にもとめない。
10代目、そんなところに汚れます!と獄寺は訴えたが、いいからいいからと手を振って
笑うだけだった。

「うーんと幸せになれる曲がいい。こんな天気だし」
「踊りたくなるような、ですか」
「うん、そうそう、踊りたくなるような!」

ツナのふわふわとした茶色の髪と明るい声に、獄寺は知らず微笑んでいた。
胸の内側がどんどん暖かくなっていく。
こんな幸福があるなんて、想像したこともなかったのに。
会いたいと思っていた人に本当に出会うことができた。


自分には、当たり前に捨ててきたいくつかの願いがあった。
この人の傍にいると、それをもう一度望んでもいいのかもしれないと感じる。
あの薄暗かった日々が、だんだん遠くなっていくような気がした。


かつての自分に教えてやりたい。
雨が地をたたき、雲が覆い尽くすような日でも
その向こう側には、何もかもを許容する大きな青空がどこまでも広がっていることを。
だから、絶望することはない。もう悲しまなくてもいいのだと…


「あなたのリクエストならば、いくらでも」

美しい白と黒の鍵盤にそっと指を触れさせる。
その硬い感触ですら、今は心地いいと感じられた。
そして獄寺は、愛する人のために 晴れやかな曲を部屋いっぱいに奏ではじめた。