自分が自分を罵るのは勝手だが、それすら後回しの時がある。




車から寒い外へ連れ出されるのを、アキラは嫌がって暴れた。

できるだけ、ありったけ、色んなものを着せたつもりだったが、熱の高い
今の状態では、そんなのは何の役にも立たないらしい。

「やだ…源泉…さむい…さむい……」

すすり泣く声に、胸がはり裂けそうな思いがした。
頼りない、ガラガラに掠れた声。

無理やり抱きあげた小さな体は細かく震えていたが、源泉の首すじに
当たったアキラの頬は、痛いと感じるぐらいに熱い。



何もかも全てが、後手後手にまわってしまった。
痛恨の極み。

自分が小さな子供を育てているのだという自覚が、知らぬ間に薄れていた。
この子の出すサインを見逃した。





夕方ごろから、アキラはやけに機嫌が悪かった。

だがそれも、学校で何かいやな事があったかぐらいにしか思わなかったし、
夕飯をちゃんと食べないので叱りもした。



熱がある、とやっと気づいたのは9時も回った頃だった。

ふと気がつくと、アキラは頬を真っ赤にして、リビングのソファに丸まって
震えていた。

慌てて抱き起こせば、「もと…みぃ…」とすがるような声で呼び、コンコンと
激しく咳こむ。


息が苦しいのか、目にいっぱい涙をためたアキラの頬や額に触ってみて
源泉は血の気がが一気に引いた。

ありえないような熱さ。

本人も自分を襲う気分の悪さや悪寒などをどう散らしていいのか分から
ないのだろう。ただぽろぽろと泣きじゃくるだけだ。




高熱、咳などから、インフルエンザである可能性が高いと踏む。

病院など、とうに閉まっている時間だ。
救急病院と思いついた瞬間、源泉はまたも自分の準備の悪さに愕然とした。


妻が死んでからこっち、自分もアキラも病気知らずだった。

どこが救急外来をやっている病院なのかも知らない。

まだ小さなアキラをかかえていながら、そんな大事な事も調べていなかった
自分に、源泉はあらん限りの悪態をついた。




近所のアキラのクラスメートの家に電話をして、そこの母親に病院を教えて
もらった。

嫌がるアキラをなだめすかして一度熱を測り、40度近いことにぞっとする。
できるだけたくさんの服を重ね着させて、小さな体を大切に抱きあげた。


「アキラ、すぐ病院連れてってやるからな。ちょっとだけガマンな」
「…っ…ふぇ…ぇ……」
「ほら、泣くな。泣いたら息が苦しくなる」
「もとみぃ…」
「寒いから、俺にぎゅーってくっついてろ」


病院を調べていなかっただけで、軽く30分はロスをした。
その分だけ、アキラが苦しむ時間を長引かせたことになる。




焦る心をなんとか抑えつけ、速くしかし丁寧な運転を心がけた源泉は
ようやく教えてもらった病院の駐車場へすべりこんだ。

個人経営だが大きな総合病院で、夜も更けているのに建物には煌々と
明かりがついていて、ホッとさせられる。



正面の自動ドアをくぐると、そこは広い待合スペースになっていた。
驚いたことにこんな時間にもかかわらず、待っている人数が多い。


一瞥して、源泉はアキラと同じような年頃の子供を連れた親が幾人も
いるのに気がついた。

(インフルエンザ、流行ってんのか、やっぱ)


自分の上着を脱ぎ、それでアキラをくるみこんで待合のベンチに一旦
寝かせると、受付に行く。


若い看護婦が、寝かされたアキラの姿を見て、「お熱が高そうですね」
と心配そうな声を出した。

「だいぶ待ちますか」
「ええ、インフルエンザの方が多くて。まずただの風邪かインフルエンザ
かを検査しないといけませんし、点滴も打ちますので…」



それでは、熱が高いから早く診てくれとも言えない。

源泉が気遣わしそうにアキラを見やると、看護婦は体温計と一緒に
毛布を差し出してくれた。

「お熱を測ったら、これでくるんであげてくださいね」

待合スペースは充分に暖房は効いているものの、がらんと広いせいで
どこか寒々としている。


すみません、使わせてもらいますと頭を下げた源泉に、看護婦は労わる
ような目をして頷き返した。


よほど自分はひどい顔つきをしているらしい、と源泉は思う。

これではアキラが不安がるだろうと思ってみても、泣きたくなるほど不安
なのはむしろ自分の方なのだ。





なんとかもう一度熱を測り、借りた毛布でアキラをくるむと腕に抱き上げた。
寝かせた方がいいかと思ったが、抱いてやった方がまだ寒くないかも
しれないと思う。


こんこんとアキラは激しく何度も咳こんだ。
熱のせいで、目までまっかに充血してしまっている。

背中をさすってやると、か細くすすり泣いた。苦しくて、どうしていいのか
分からないのだ。


「アキラ…」
「…ぁさん…おかあさん……」


…小さな手は、ぎゅうっと源泉の服を掴んでいるのに。
朦朧としながら、アキラは何度も母親に助けをもとめた。

彼女が死んでから、めったに母親のことを口に出さなかったこの子が。

おかあさん、苦しい、助けてと呼んでいた。




「アキラ…アキラ、ごめんな…ごめん…」

自分は父親失格だ、と源泉は心の中で自分をひたすら責めた。


アキラと暮らし始めてから、それでも何とかいい父親をやっているような
気分になっていた。
上手く二人でやっている。寂しい思いもさせていない、と。


(こんな肝心な時に、ちゃんとしてやれなくて、何がいい父親だ)


「ごめんな…もうちょっとしたら、診てもらえるからな。そしたら家に連れて
帰ってやるから…すぐによくなるから…」


髪を撫で、背中を撫でて、震えて丸まった体を抱きしめながら、囁いた。
アキラにとって何の足しにもならないことを。

ひどい無力感に苛まれながら。
掠れた声で繰り返し、何度も、何度も。



アキラの母親はもういない。
どんなに助けを求めてみても、どこにもいない。

自分がこの子を守ってやらなければならなかったのだ。


この世のあらゆる災いから。

……くるしいことからも、かなしいことからも。






小一時間も待ったあげく、やっと診察してもらうことができた。

今夜の当直は、幸運なことに内科医らしく、源泉は安堵のため息をついた。

救急の時間帯につめている医者は、専門がまちまちだ。
風邪をひいていても、診てくれるのは外科医だとかいうこともありうる。


鼻に綿棒状のものをつっこんで粘膜を採取するインフルエンザの診断法は、
かなり痛くて苦しいらしい。
泣いて嫌がるアキラをなだめるのに苦労した。


結果はやはりインフルエンザだった。



清潔さが取り得のような白いベッドに寝かされて、アキラの細い腕には
今、点滴の針がささっている。

ぽとりぽとりと液が落ちてくるのが、時を刻んでいるかのようだった。



薬品の匂いのするその部屋でベッドのそばに座った源泉は、頼りない指先を
握りこみ、ただアキラの顔を見つめ続けた。


目を閉じたその面差しは、この子の母親によく似ていた。
一瞬、血に汚れた彼女の死に顔が脳裏をかすめてゆく。



誰かを守るというのは、なんと難しいことなのだろう。

そのことを痛いほど噛みしめる瞬間だった。



『代われるものならかわってやりたい』 
そんな風に思う。
病気で苦しむ子供を見て、親なら誰でも感じるはずのその気持ち。



源泉は、相変わらず自分の両親に良い感情を持てなかった。
だがそれでも彼らとて、自分や兄を必死に守り育ててくれたのだと気づかされる。

今まで考えたこともなかった。

だが、急に病気になった子供を夜中に病院へ連れていったこともあるだろう。
ひどい不安と焦燥にかられながらも。



そんなことを、初めて思う。

今ようやく健やかな寝息をたて始めたアキラを見ていて、それを理解できた。
本当の意味で。
誰かの親になるということを。



(俺はおまえがいないと生きていけないよ)

ただあるがままにそう呟けば、じわり、とまぶたの裏側が熱くなる。


カーテンで仕切られた狭い空間で、源泉は少しだけ泣いた。

…誰にも知られずに、声をころし、幼いアキラの指先にすがりながら。










後頭部がごろごろするのがヘンで、それが気になって目がさめた。

しばらくぼーっとしていたアキラは、自分がベッドに寝かされていると気づく。


源泉の大きなベッドでいつも一緒に寝るから、これはアキラの寝床でもある。
だが一人だと、そこは泳げてしまいそうなぐらいに広かった。


額に乗せられたタオルが、身じろぎしたとたん、ズリ落ちてきた。

ごろごろしていたのは、氷まくらだった。
源泉、氷いっぱい入れすぎだって、とちょっと文句を言いたくなる。



その源泉は、ベッド脇に一人がけのソファを据え、ウトウトしていた。

とても疲れた顔をしている。
あんまり寝てないのかな、とアキラは回らない頭で考えた。



自分が病気になったんだというのは、何となくわかった。
とても苦しかったのと、源泉が病院につれていってくれたのは、ぼんやりと
だが思い出せる。



よいしょ、と思い切って起き上がってみると、なんだか頭がフラフラした。

(まだ、熱あんのかな)

自分ではよくわからない。
昨日みたいにおえーっとなるぐらい気持ち悪くなかったけど、まだ病気なの
かもしれない。


(…死んじゃわないかな?)

おかあさんがいなくなったのが「死ぬ」ってことだと教えてもらった。
だが、実際はどこに行くのかよく知らない。

もう源泉には自分だけだから、死んじゃうのはちょっと困るとアキラは思った。
なんだか心配だ。




「もとみ、もとみ…」

手をのばして、袖口をひっぱりながら、源泉を呼んでみる。
ものすごくヘンな声がでた。
がらがらで、割れてて、おじいさんの声みたいで びっくりした。


だがそれでも、源泉はぱっと目を開けた。
ベッドの上に起き上がっているアキラを見ると、すぐにベッドの端へと座る。


「アキラ…起きたのか、苦しいとこないか?」
「だいじょうぶ」
「すごい声だな…熱は」
「わかんない」

しゃべると喉がイガイガしたから、アキラは必要なことだけ話すことにした。



源泉はアキラの頬を手のひらで包むと、まずこつんと額を合わせて熱をみた。

「ああ、まだ熱あるな…でもだいぶ下がってる」

それから今度はアキラの頬に自分の頬をくっつけてくる。

ちょっと不精ひげがチクチクして痛かったけど、くっついた源泉の顔はひんやり
していて、悪くない気分だ。

だからアキラは、ぎゅーっと源泉にしがみついてみた。
ほわん、と抱きしめ返してくれる。



「俺、病気…?」
「ああ、インフルエンザだ。ちゃんと治るまで、4・5日学校も休まないとな」
「そんなに休んだら…勉強わかんなくなる…」
「真面目だなぁ、お前。俺はガキの頃、学校休めるなんて大歓迎だったぞ?」


源泉は間近でにやにや笑ったが、アキラはややうなだれてしまった。



アキラだって、特別勉強が好きなわけじゃない。
でも、自分が出来が悪いと、源泉がバカにされるだろうと思った。


源泉には余所に、お父さんとお母さんとお兄さんがいる。

一回しか会ったことないが、源泉がアキラと一緒にいるのに反対で、大きな
声でアキラを「しせつ」にやってしまえと言っていた。


「しせつ」って何だか知らないけど、きっとこの家じゃない所だ。
源泉がいない所だ。

そんなのは絶対いやだから、アキラは勉強もがんばろうと思っていた。


そうは見えないけど源泉はすごく頭がいいらしい。
だから自分だってできないと、源泉はきっとまたいやなことを言われてしまう…




いつのまにか泣きそうになっていたみたいだ。
源泉が心配そうに顔を覗きこみながら、頭を何度も撫でてくれた。


「どうした…?心配しなくても、分からなくなったとこは俺が教えてやるぞ」
「うん…」
「治らないまま学校行って、友達にうつったらいけないしな」

アキラは大きくうなずき返した。

こんなに苦しいのがクラスの子にもうつるのは、やっぱりダメだと思った。
勉強は、源泉にまた教えてもらおう。




「薬飲むからなんか食べなきゃな。食えるか?」
「うん」
「まあちょっとの間、おかゆとかうどんだけどな」


アキラがあからさまに「えぇ〜」という顔をしたのに気づいて、源泉は笑った。

「その代わり、アイスかプリンつけてやるから」
「ほんとに?」
「体力落ちないように、そういう口当たりのいいモンも食った方がいいって
看護婦さんが言ってたからな」



それを聞いて、アキラは病気になるのも悪くないなと思った。
アイスもプリンも好きだった。

でも苦しいのはイヤだし。
何より源泉が心配そうな顔をするのは、見たくないから。

(…やっぱり、はやく元気にならないと)



源泉が体を支えて、そっとまたアキラを寝かせてくれた。
さっきより氷が溶けたのか、枕はあんまりごろごろしなくなっていた。


「なあ、源泉…」
「んー?」
「きのう、看護婦さんが、お大事にってゆってた…」
「なんだ、お前、あん時起きてたのか」
「どういういみ?お大事にって」


源泉の大きな手が、アキラの髪をゆっくりと撫でていく。
もう片方の手は、毛布と布団を首のあたりまで引き上げてくれた。


「アキラは病気だったから、体を大事にして、早くよくなってねって言って
くれたんだ」
「そっか……」

知らない人なのに心配してくれて、看護婦さんて優しいんだな、と思った。



すると、濡れタオルをアキラの額に乗っけて、源泉は笑顔でこう言った。

「アキラくん、お大事に」

看護婦さんのマネをしてるつもりなのだろうか。
それがなんだか気取っていて、アキラは笑ってしまった。
こんな不精ヒゲのはえた看護婦さんは絶対いないと思う。


声をたてて笑い、また咳き込んだアキラに、オイオイ大丈夫か、と源泉が
慌てた。



(…むずかしいことは、なおったら考えよう)

(それに源泉は、余所のやつの言うことなんて気にすんなって言う)

(いっしょにいていいって言うにきまってる)

(ずっと、ずっといっしょなんだ…)



まだ少しふらふらしていたが、アキラはそっと目を閉じた。
熱の名残りでまだ赤い頬を、氷まくらにおしつける。


もう不安にはならなかった。

窓から朝のざわめきが聞こえる中で、アキラは一人、しあわせな夢をみた。