「源泉、いいかげん、そのだらしない顔やめろよな」
「んん〜?♪」

「知らないひとが見たらヘンに思われるだろ」
「そんなことないぞ。子供の入学式に親が嬉しそうな顔してて何が悪い」


まあそれはそうなんだけど、とアキラは心中で思った。
(せっかくスーツ着てんのに、だいなしだろ…)



今日はアキラの小学校入学式だった。

源泉の気合の入れようは、それはもうはた迷惑なぐらいで。
アキラは今着ている洋服やランドセルを選ぶのに、どれだけ引きずり
回されたかしれない。


『やっぱりベーシックにこっちか…いやちょっと地味かもしれんな。
でもアキラにはシンプルなのも似合うし…おーいアキラ、とりあえずこの
5着全部着て見せてくれ』


お店のお姉さんにくすくす笑われたから、アキラははずかしくて 『…源泉、
服なんかなんでもいい…』 と言ったのだが。

もちろんそんな主張は聞き入れられはしなかったのだ。



それどころではなく、源泉は 『仕事でも使うから』 などと言い訳をして
デジタルハイビジョンビデオカメラとかいうのを買った。

その値段を聞いた時、アキラは源泉の向こう脛にキックをかましたものだ。
それぐらいとんでもない値段だった。


別に家は貧乏ではないとアキラは思うが、金持ちでもない。
というか、源泉の仕事柄、毎月の収入には波があるみたいなのだ。


(なのに、むだづかいばっかりして)

仕事に使うとか言っていたが、そんなのはついでに決まってる。
入学式の間中、自分が源泉のカメラに追いかけ回されていたのを知って
いるアキラは、もうため息しか出てこなかった。



……でも、ぜんぶ自分のためだと分かっているから、怒るに怒れない。

本当は嬉しいし、ありがとうって言いたいんだけど。
それもちょっとはずかしかったから、代わりにアキラは繋いだ源泉の手を
きゅっと握った。





「なあ、余所のお母さんたちが、アキラをすごく可愛いって言ってたぞ」

男親で、周囲よりかなり若く、しかもスーツを着ても会社員には見えない
源泉は相当目立っていたらしい。

入学式の始まる前から、着飾ったお母さん方にやたらと話しかけられた。


源泉としては、アキラをカメラに収めるのに集中したかったのだが、
今後の事を思うと、余所の親との社交もないがしろにできない。

仕事柄、他人を丸め込むのは得意だ。
良い機会だと思い、盛大に愛想を振りまいておいた。



だが、それを聞いた途端、アキラは急に不機嫌そうな顔になった。
繋いでいた手もあっさりと放されてしまう。


「……べつにうれしくない。俺、男だし」
「そっか?でも俺が見たとこ、アキラが一番可愛かったけどな」
「全員の顔、見たのかよ」
「おう、見た見た」
「うそつき。よそのお母さんとずっとしゃべってたくせに」



おりょ、と源泉は瞠目した。
見ればアキラは口をへの字に曲げて、ツーンとそっぽを向いている。

(…おお、拗ねとるぞ)

ヤキモチをやいているという自覚がないあたりがまた可愛らしい。
源泉の口元に、抑えきれないような笑みがこみ上げてきた。


「へんな笑い方すんなよ!」
だが、源泉のニヤニヤ笑いを見咎めたアキラは、怒った様子で
ランドセルの背中を見せてずんずん先へと歩きはじめる。

「なんだ、アキラは俺がどんな顔してても気にいらないんだな〜」



まだ中に筆記用具とノートぐらいしか入っていないせいで、アキラが歩くと
ランドセルの中身ががさがさいっているのが分かった。

…まだまだ小さなアキラ。

だがこの子が新しい感情を見せる度に、嬉しくて。
源泉の心の中は、温かなものでいっぱいに満たされるのが常だった。





「あのな、ちょっとトラブルがあったんだよ、あの時」
「……?」

気がかりそうにアキラが立ち止まったので、その隙に源泉は大きな歩幅で
追いかけ、また横へと並ぶ。

なんかあったのか?と言いたげに丸い瞳が見上げてきた。



「余所のお母さんたちがアキラを褒めてくれたら、俺をすっげー睨んできた
人がいてなぁ」
「にらむ…?」
「お前のクラスの女の子で、子役でテレビとかに出てる子がいるらしいんだ。
知ってたか?」
「…ああ、そういえば、まわりの奴らがそんなこと言ってた…」
「その子の母親らしいんだけどな」


アキラはそういう事に関心がなかったが、確かにその子は目立っていた。
どっちかというと悪目立ちだったようにも思ったが。

ヒラヒラした服を着て、大人みたいに髪を巻いて結っていて。
どうやら化粧もしているようだった。

アキラの目には、それらは特にきれいに映りはしなかったのだけれど。



「余所の子が褒められるのが気に食わなかったみたいでなぁ。けど他の
人も、いつも自慢ばっかされてムカついてたみたいだ」

かなりフラストレーションが溜まっていたと見えて、源泉の周りにいた
母親たちは、アキラをしきりに褒めてくれた。

勿論、問題の人物に聞こえるようにだ。

女の争いに巻き込まれた源泉は、内心辟易していたのだが。
その一方で、個人的にああいう親は好かなかったから、つい自分も
挑発的な態度を取ってしまっていたのかもしれない。



(…子供を、自分の好き勝手なレールに乗せる親)


苦いものを噛んだような、嫌な気分が広がった。
まだ自分でも何がしたいかの判断もつかない子供に、無理やり何かを
押し付ける親を源泉はひどく嫌った。



自分が、ほとんど大人になるまで親の決めたレールを走らされ続けてきた
事を、嫌でも想起させられてしまうからだ。




…別に、自分は不幸な生い立ちでも何でもない。
むしろ家は裕福だったし、物質的には恵まれていた方だろう。


だが源泉の両親は、いわゆるエリート志向の強い人間だった。

良い学校で良い成績を修め、有名な会社に就職し、良い結婚をする。
それを源泉にも、5歳年上の兄にも強いてきた。

なまじ兄も自分もそこそこ頭が良かったのが、親の期待に拍車をかけた
のかもしれない。



…だが源泉は大学に入る頃には、自分の我慢も限界だと感じていた。

だから、逃げ出す準備をした。
4年間、学業そっちのけでバイトをし、金を貯めて。
卒業するまでには、探偵のライセンスも取得していた。

そして、卒業と同時に家を出た。
親にバレないようにと採用を貰っていた一流企業にも、断りをいれた。



驚いたことに、源泉のドロップアウトに一番逆上したのは兄だった。

『お前、今さら逃げ出す気か。そんな事が許されると思ってるのか』

おとなしい性格の兄が、大声で源泉を罵るのを見た瞬間に。
自分達がどれほど抑圧されてきたのかを思い知って、吐き気がした。

鏡の中の自分を見ているようだった。

『首に縄でもつけられてるわけじゃあるまいし、あんたも逃げたきゃ逃げ
ればいいだろう』



だが、一人で生きるようになってからも、あの時の兄を何度も夢に見た。

(……あれは、もう一人の俺だ)
逃げられなかった、もう一人の自分。


きっと兄は自分よりも優しくて、何もかもを捨てることなどできなかった。
優しくて、弱かったから。

そして未だに、親の敷いたレールを一人走り続けている。



ときどき、自分がひどく身勝手な人間に思えた。
後悔などしないと思っていたのに。

長い間、源泉はそんな自分を許してやることができずにいたのだ。




だが、そんな源泉を包みこんで、幸せを教えてくれた人がいた。
今はもういない彼女と……そしてアキラだ。


…その幼な子は。

小さな小さな手を差し伸べ、澄んだ目で自分を見上げてきた。
源泉がおずおずと笑いかけると、同じように笑ってくれた。

ふわり、と広がる暖かさ。

それは忘れることのない、美しい光景だった。
新しく得ることができた家族。
それを、自分も幸せにしたいと。ただ強くそう願っていた。



『……あら、あたしには分かってたわよ』
笑いながら、こちらを振り返る彼女の姿が、今も鮮やかに目に浮かぶ。

『アキラが一目であなたを気に入ったことぐらい、ちゃーんとね…』







「……とみ、源泉!」
「…え?あ、ああ、すまんアキラ……」

急にぼんやりと黙りこんでしまった源泉が心配になって、アキラはスーツの
袖口を軽く引っ張った。


(…なんか、イヤなこと言われたのかも)

自分のせいで源泉が嫌な目にあったような気がして、アキラはなんだか
悲しくなってくる。

(せっかくの入学式なのに…)
どうして関係のない自分たちを放っておいてはくれないのだろう。



ただアキラは、源泉にどうしても聞いておきたいことがあった。
だから背の高い相手を、首が痛くなるぐらい一生懸命に見上げた。

「なあ…よその人は子供がテレビに出てたら自慢なのか?」
「ん?そんなことないぞ。そういう奴もいるってだけの話だ」


どうしたんだ?と源泉が優しく目を細めたから、アキラは考えながらポツリと
言葉を紡ぐ。

「源泉は…?源泉だって、俺が褒められたらうれしいんだよな」


さすがにテレビに出るのは無理だと思う。
でも今日だって、余所のお母さんに褒められたのを喜んでいた。
もっと喜んでほしいんだけど、何をしたらいいのかがわからない。

途方に暮れたような顔で、アキラは源泉をじいっと見つめ続けた。




すると源泉は、道端なのもお構いなしに急にアキラの肩を引き寄せた。
少し屈むようにして、目の高さを近くしてくれる。

「あのな、アキラ。俺はいつだってアキラが自慢だぞ」
「……え」
「別に勉強とか運動とかができなくても、歌がオンチでも絵が下手でもどう
だっていいんだ」


源泉の茶色い目が、間近であたたかく笑っていた。

それを見ているだけで、アキラの心は真ん中からじんわりと緩んでくる。

大きい掌が、頬を撫でてくれた。
何だかほっとして、その手を自分の手で触る。


「アキラはアキラのまんまで、元気に大きくなってくれたらそれでいい」

分かるよな?と聞かれて大きく何度も頷いた。
よしよし、と源泉がアキラの髪をくしゃりとかきまわしてくれる。





…そのまま二人は黙ってまた手を繋いだ。
どこにも一滴の血の繋がりもない二人だった。

けれど寂しくはなかった。

源泉は、静かに心で思う。
血縁などなくても、自分は最初からこの子が愛しかった、と。

今、この瞬間も、とても幸福だと。




「なあ、アキラ。学校で友達いっぱい作れよ」
「いっぱいもいらないって」
「ともだち100人でっきるっかな〜♪」
「………ヘンな歌」


カタカタとまたアキラのランドセルの中身が鳴った。



もう散り始めた桜の白。
それはとても儚いものではあったけれど。

忘れることは、きっとない。


二人の記憶の中で、その日の世界はただとても美しいものだった。