昨日降った雨が嘘のように、鮮やかな青空が広がった。


体感的にはむしろ暑さを感じるぐらいで、目の前を元気よく歩く小さな
アキラの半袖姿の方が正解のように見える。


いいと言ったのに、アキラは歯磨き粉や髭剃りやセッケンの入った
ビニール袋を一人前に下げていた。

雨の名残りのような水溜りを、ひょいひょいっと避けながら、たまに確認
するように、源泉をふり返る。


「源泉、おそい」
「おいおい、んな急いで帰らなくてもいいだろうが」



(……最近、あんまり手を繋いで歩いてくれなくなったよなあ)

内心、少し切ない気分で、源泉は笑いながら手を振った。

小学校にあがってから、よその子供を見て知恵がついてしまったのか。
アキラは、『親と手を繋いで歩くのは恥ずかしい』と学習したようなのだ。



これまではいつも右手に荷物を持ち、左手はアキラの為にあけていた。

今だってそうだ。
買い込んだ大荷物を、わざとらしく右手にまとめて持っている。

だが源泉の必死のアピールもむなしく、左手はあきっぱなしだった。




それでもアキラは、買い物に行こうと誘うと必ずついてくる。
荷物の多い時は車を使った方が楽なのだが、源泉と歩いて行きたがる。

(それで満足せにゃならんか…)
(しかし、なんであいつはこう自立心旺盛なんだ)

あれこれ思い巡らすうちに、源泉の口からはため息が漏れてしまっていた。



勿論、それはアキラの境遇に拠るものだと分かってはいる。

だが源泉はアキラが可愛くてしょうがなかったし、もっと甘えたりワガママを
言ってくれないものかと思うのだ。



…同時に、不安でもあった。

この子を、のびのびと育ててやりたい。
だが、親との間にあまり楽しい思い出のなかった自分に、そんな事ができる
のだろうか。


アキラが素直に甘えられないのは、自分に問題があるのではないか。
そんな埒もない思いに、捕らわれる。

だが、堂々巡りの思考を笑い飛ばせない程に、源泉にはこの子が大切だった。






その時、近道しようと公園の中を歩いてゆくアキラの視線が、傍にあった
屋台へと流れた。

同い年ぐらいの子が、ソフトクリームを買ってもらっている。
それをつかの間見つめると、アキラはまた何事もなかったように歩き出した。


背後から見ていた源泉は、それに少しショックを受けた。

「アキラ!…ちょっと待て、アキラ」


きょとんとした顔で振り向くアキラに、源泉はとっさに何と言えばいいか
分からなくなる。
だが、さりげなさを装って、屋台の方向を顎でしゃくって見せた。

「アイス売ってるぞ。今日暑いから、食いたいだろ?」


買ってきな、と言いながら、ポケットの小銭を探る源泉を見上げ、アキラは
少し困ったような顔をした。

「…べつにいい。いらない」
「なーんでだよ」
「……」
「いいから行ってこい。俺はあそこのベンチにいるから、な?」


小銭を小さな手に強引に握らせてやる。

アキラは、自分の掌と源泉の顔を交互に見比べていた。
だがようやくコクリと頷くと、荷物を預けて、屋台へと駆け出していった。






荷物を足元へ置くと、源泉は脱力したようにどっかりとベンチに座りこんだ。
その間も、視線は屋台の前のアキラの姿を追っている。

(アイスひとつねだらないなんて、気ぃ遣いすぎだろうが…)


…いや、元々アキラは物を欲しがらない子供だった。
子供というのは、何かを買ってほしいと泣いたり駄々をこねるものだと思って
いた源泉は、最初驚いたものだ。


おそらく、母親と二人で質素な生活をしていたせいだろう。

だがアキラの母親は、物などなくても何かしら楽しい事を考えついては
アキラをよく笑わせていた。

その光景を、源泉は今もはっきりと思い出せる。

彼女さえいれば、アキラの小さな世界は幸福だったのだ。



(そして、その居場所を失くしたあいつは…)
(必死になってる)
(俺に嫌われないように、俺と引き離されないように)

(……自分の居場所が、なくならないように)






強い日差しに目を眇めるようにして、源泉はこみ上げた感情を飲み込んだ。

その時、いつの間にか戻ってきていたアキラが、傍らにちょこんと座った。
「源泉、これ、お釣り」
「…ん、ああ」

受け取った10円玉をポケットにねじこむと、煙草の箱が指に触れたが、吸う
気にはならなかった。
だいたいアキラが物を食べている時に、吸うものではない。



所在なさげに両手を下ろす。
その時、ふと目に入った情景に、源泉は目を瞠った。



……ふわりと、口元を緩めて。
手に持ったソフトクリームを見つめ、とても嬉しそうな顔をする。

その表情は柔らかくて。
見ているこっちが幸せになるような笑顔だった。

(アキラ…)

そんなアキラにつられて、源泉の口元もいつしか同じようにほころんでいた。


今の今まで、源泉の心を曇らせていたものを、吹き飛ばす。
めったに見ないアキラの笑顔には、それぐらいの威力があった。





「早く食わんと、溶けるぞ〜」
そう言って軽く頬をつねってやると、拗ねたように唇をとがらせる。


「うるさい、食べるから、あんまり見るなよ」
「んーアキラがにっこにこしてるから、カワイイなーと思ってな」
「かわいくなんかない!」
「そっかー?俺はアキラより可愛い子は見たことないけどなぁ」


それを聞いて、アキラは少し照れくさそうな顔をした。

ソフトクリームを舐めながら、「そういうの、親バカって言うんだぞ」と、
いっぱしの大人のような口調で言う。



(あーもう、ずっとちっちゃいままでいてくれんかな)
バカみたいな思いが溢れてきて、源泉はまた笑った。

だが大きくなったアキラも、はやく見てみたい。

この子を見つめ続ける特権を、自分だけが持っているのだと。
当たり前の事に、今、やっと気づく。




「なあ、アキラ」
「んー?」
「お母さんいなくて、寂しいなって思うことないか」

コーンの部分をシャリっと齧ると、しばし口をもぐもぐさせていたアキラは
丸い瞳を見開いて、源泉を見た。

「べつにない。源泉いるから」

あっさりとそう答えると、またソフトクリームに関心を向けてしまう。
だがそれは、源泉をニヤニヤさせるには百点満点の答だった。



「そっか、そっか」
急にご機嫌になった源泉を呆れたように見ながら、今度はアキラが真面目
くさった口調で訊いてくる。

「……源泉は?」
「うん?なにがだ」
「お母さんいなくて、源泉はさびしくないのか?」


最後の細いコーンの部分を、シャリシャリシャリと齧る音。
それを聞きながら、源泉は幼いアキラの顔をまじまじと見つめた。

「いや…俺は、ほら、大人だからな…そうだろ」
「大人は、さびしくならないのか?」




…いや、そんなことはない、と。
ふいに胸を衝かれるような気持ちで、源泉は思った。


(寂しかったよ。寂しくて、悲しくて、気が狂いそうだった……)

(だけど、アキラ)
(俺は、おまえを遺してもらえた…)

(だから、こうして、笑って生きていけるんだ)

(今日も、明日も、その先だってずっと、ずっとだ…)




「…そうじゃない。俺にもアキラがいるだろう?だから寂しくなんかないんだ」

心を込めてそう言いながら、源泉はアキラの髪をくしゃりと撫でた。

子供に向かって言うセリフではないと知っていた。
だが、アキラが欲しがるのが自分の本心なら、それでいい。




相変わらず口を動かしていたアキラは、それでもコクリと頷いてくれた。
どうやら源泉の答が気に入ったようだ。
全部食べ終わった時点で、「そっか」ともう一度つぶやく。


それから、ぴょんと弾みをつけるとベンチから降りた。
膝の上に散らばっていたコーンのかけらを、ぱんぱんっとはたく。

そんな姿を苦笑しながら見つめると、源泉も立ち上がり荷物を持ち上げた。




その時。

源泉の左手に、小さな右手が滑り込んだ。
そのままぎゅうっと握られたから、思わず自分も握り返す。


「アキラ…」
「なんだよっ」
「いや、手ぇ繋いでくれんのか」
「別にいいだろ、たまには」
「照れるな、照れるな。俺はいつでも大歓迎だぞ〜♪」


繋いだ手を、調子にのってぶんぶん振り回すと、「恥ずかしいからやめろよ」と
アキラは憤然としていた。

それでも、握った手は離さない。





……見上げた初夏の空は、目に染みるほど青かった。

これから自分たちは、繰り返し同じ季節を見つめていくのだと、ごく自然に
そう思えた。


いつか本当に、手を繋いで歩く事がなくなっても。
それでも、なにか変わらぬものが、自分とアキラの間には残るのだろう。

(まだまだ先の話だけどな)

遥か未来を思った自分の気の早さに、苦笑する。





それでも源泉はアキラの手をひくと、他愛もないことを喋り、笑いながら。

二人きり、ゆるやかな歩調で家路を辿っていった。