アパートの階段を上がろうとして、近所のおばさんに呼び止められた。

  「まあ、アキラちゃん。どこ行ってたの。源泉さんが夕方から探し回って
  たんだよ」


  言われなくとも分かっている。もう日はとっぷりと暮れていた。
  小学校一年生になったばかりのアキラが、帰ってくるような時間ではない。


  バツが悪くなって黙ったまま俯くと、相手は何かを察したようだ。
  「おばさん、一緒に行って謝ってあげようか?」と聞かれた。

  だがアキラは首を振ると、重たい足取りで階段を登っていった。




  (怒られる、よな。やっぱり…)

  学校帰りに遊びに行っても構わないが、日が暮れるまでに帰ること。
  それか、源泉の事務所に電話をすること。

  小学校に入学したとき、約束をした。指切りまでした。
  背負った真新しいランドセルが、今はやけに重く感じられる。




  普段なら、源泉の言いつけを破るようなアキラではなかった。
  だが今日は放課後、クラスメイトに遊びに誘われてしまった。

  『みんなで町外れの空き家を探検するんだ。おまえも来いよ』

  何となく面白そうに思えた。
  だが、そこは思っていたよりもずっと遠かった。

  早く帰らないと、と何度も思いながらも。

  古びた大きな家の中には、色々変わった物が残されていて。
  夢中になって探検しているうちに、こんなに遅い時間になってしまったのだ。





  ……しばらくアパートの扉をじいっと見つめていたアキラは、おそるおそる
  それを押し開けた。
  思ったとおり、鍵はかかっていない。

  そして玄関のあがり口には、源泉が怒った顔でどっかりと腰をおろしていた。


  「た…ただいま……」
  やっとの思いで小さな声を絞り出したが、答えはない。


  それが突き放されているみたいで、怖くなった。
  男は泣いたりするもんじゃないって思ったけれど。
  アキラの目には早くも、じわりと涙が浮かんできた。



  ……お母さんが 『天国』 ってところに行った時。
  みんながアキラを 『いらない子』 だと言っているのを聞いた。

  だけど源泉は、ちがった。

  源泉は、もうお母さんは帰ってこないんだと教えてくれて。
  だけど、俺がいるから寂しくないだろう?と笑った。



  (どうしよう…)
  (源泉に嫌われたかもしれない…どうしよう…)

  誰に嫌われても、いらない子だって言われても、別にどうだっていい。
  でも、源泉にだけは、いるって思われたかった。

  (だから、いい子にしてようと思ってたのに…)




  「………アキラ」

  低い声で名前を呼ばれた瞬間。
  アキラの目からは、堰を切ったようにボロボロと涙が零れはじめた。

  持っていたランドセルを落とし、溢れた雫を手でぬぐう。
  「……っ…っく…」
  泣いたらダメだと思えば思うほど、嗚咽は止まらなくなった。


  小さなため息が、源泉の口から漏れた。
  だがそれと同時に、向けられた眼差しはほんの少し和らいだようだった。



  「アキラ、今何時か分かってるよな?」
  「……っ」
  「どんなに心配したと思う。お前のクラスの子が行き先を教えてくれなかったら
  警察に電話してるとこだぞ」


  それは、アキラを叱る言葉で。
  だけどそこからアキラを案じる気持ちが伝わってきたから、もっといっぱい
  涙がでた。

  じんわりと胸の真ん中が熱くなった。
  …うれしかった。




  「……ご、ごめん…なさ……」
  泣きじゃくりながら、アキラは何度も何度も同じ言葉を言った。
  「ごめ……ごめ、ん…もとみ……」


  そんなアキラの様子を、源泉はしばらく黙って見つめていた。
  だがやがて、アキラに向けて大きな手が差し出される。
  「こっち来な、アキラ」


  おそるおそる数歩近づくと、源泉は顔を覗き込み「あーあ」という感じで笑った。
  泣きぬれたアキラの頬を、そっとぬぐってくれる。
  「目が溶けちまうぞ。悪かったって思ってるんなら、もう泣かんでいい」



  それから、静かに静かに抱きよせられた。

  暖かな腕と、煙草の匂いに包まれ、アキラは心の底から安心する。
  ガチガチになっていた体からは、ふっと力が抜けた。


  小さな手で源泉の服をぎゅうっと掴み、涙にぬれた顔を肩口へとすり寄せる。
  源泉も、アキラの髪に頬をよせるのを感じた。

  あったかい。このまま眠ってしまいたいぐらいに。



  「あのな、お前になにかあったら、俺はどうすりゃいいんだ…」


  それは、冗談めかしたような口調だった。
  だが幼いアキラにも、源泉が本気でそう言っているのが感じられた。

  だから大きく頷きながら、もっと抱きつく。



  一人じゃないってことぐらいしか、伝えられず。
  でも源泉が本当に欲しがってるのは、それのような気がしていた。

  (……さびしくない…から……)

  だからアキラは泣きながら、自分の持っている温もりを必死で分けた。
  自分には、それぐらいしかできないけれど。


  冷えていた自分と源泉の体が、同じぐらいにあったまるまでは。


  ずっとずっと、こうしていたいと思った。
















  読んでいた本をパタンと閉じると、源泉は自分にもたれかかって眠る小さな
  重みへと目をやった。
  

  叱られて不安になったのか、あの後アキラは食事や片付けの間も源泉に
  ついて回った。
  食後は、同じソファにちょこんと座ってこっちを伺っていた。


  (俺もまだ、色々と上手くいかんな……)

  そっと髪を撫でてやりながら、嘆息する。

  アキラは、自分に突き放される事を何より怖がっている。
  叱るにしても、もう少しやり方があったはずだと反省せずにいられなかった。


  だが今日アキラが帰ってこなかった時は、理性が吹っ飛んだ。
  また失くすのかと、恐怖に打ちのめされそうになった。




  アキラの母親は、源泉と結婚して一年後、車に轢かれて死んだ。
  彼女はその時、源泉の子供を身ごもっていた。


  愛する人と生まれてくるはずだった子供。
  その両方を失ってなお源泉が立っていられたのは、アキラがいたからだ。


  この子が遺されていなかったら、自分は死にたいと思ったかもしれない。

  自分よりもずっと悲しくて、何倍も不安なこの子を守りたかった。
  その思いが、源泉をつよく支えた。




  ……今も、大事な人を失った痛みは消えない。
  時々思い返しては、生きてゆくというのは何て残酷なんだろうと思う。


  だがその一方で、諦めに似た気持ちもあった。

  たった一年しか共に暮らせなかった彼女。
  それはやはり、縁が薄かったのかもしれないと感じたからだ。
  




  「…よいしょ、っと」
  疲れたのだろう、完全に熟睡しているアキラのくったりした体を、源泉は
  軽々と抱きあげた。

  無事でよかったと、心の底から感謝の念がわいてくる。
  


  『まだ若いのに、血の繋がりのない子供なんか引き取ってどうするんだ』
  周囲はみんな、そう言っていた。
  
  なんにも分かっちゃいないよな、と思いながら、アキラをベッドへと運ぶ。

  自分の方が、この子を必要としていた。
  アキラが一緒にいてくれる。
  だから、もう一度生きていこうと思うことができたのだ。





  「……もとみ…」
  ふいに小さな声で名を呼ばれた。
  驚いて、顔を覗き込む。
  だがアキラは、相変わらず眠りの国をさまよっているようだった。


  腕の中の重みと温もりに、知らず微笑みが浮かんでくる。

  「俺とほんとに縁があるのは、お前なのかもな、アキラ…」




  この小さな光を絶やさぬように。

  ただつよくそう願いながら、源泉は宝物のようにアキラを腕に抱きしめた。