夜半に降った雨があがった次の日、もう季節は秋に移り変わっていた。

夏は好きだけど、いつまでも続くと良さがなくなるな、とツナは思う。
思ってから、ほんの少し笑った。
自分が夏を好きだとか、そんな風に言えるのが嘘みたいだったからだ。

春も夏もない。
ずっと自分は、学校にいる時間をひたすら耐えては家に逃げ込む生活をしていた。
失敗してバカにされたくなかったから、人目につかないよう必死に息をころした。

でも縮こまっているのに、すぐつかまった。
本当は一人の女の子以外には誰にも見えなくてもよかったのに。
(透明とまでいかなくても、半透明ぐらいだったかもなー…)

誰かと楽しい夏を過ごすなんて、以前は想像したこともなかった。
花火とかお祭りとか海とか、そんなの別世界の出来事みたいに思ってた。

(今年の夏も楽しかったな…いつもどおり騒がしかったけど)


学校の屋上に立つと、部活へ行こうとする生徒たちの喧騒がかすかに伝わってくる。
切り離された空間のように、この場所だけがひそやかだ。
けれど寂しくはない。
かつて自分が感じていた居場所のなさ、いたたまれなさに苛まれることは今はもうない。



……彼も、生まれ育った国でそんな疎外感を感じていたのだろうか。
目を閉じて、ツナは彼のことを考える。
完全な理解などありえないけれど、深く深くまるで海に潜るように。


出会った頃は、その無茶苦茶な言動はともかく、こんなに何でも揃っている人という
のがいるんだなとびっくりしたものだ。

銀色の髪と灰碧色の瞳。整った顔立ち。
頭もいいし、服装も独特ではあるがいつもかっこよくて。
イタリアではお城で暮らしていたと聞いても、疑う気にもならないような雰囲気が彼には
あった。

(いやもう、ホント、王子様だよね)
黙って立ってればの話だけどさ、とツナは一人でおかしそうに笑う。


彼にこういう事を言うと喜びすぎておかしな行動に出るから、あまり言ったことはなかっ
たが、ずっと 『はじめての友達』 だと思ってきた。
初めてできた友達。いつも一緒にいてくれるひと。

自分の世界を無理やりこじ開けたのが、あの赤ん坊ヒットマンであるのは明白だが。
彼の存在も大きかったのだと今は知っている。


自分の世界には家と学校しかないのに、学校がいやでたまらなかった。
なのに彼は、毎朝にこにこしながら家まで迎えにやってきた。
ぐいぐい、ぐいぐい、引っ張るみたいにして歩くから、最初はそれに抵抗もしたけれど、
人間慣れるのも早いというかすぐに普通になってしまって。

『10代目、昨日夜なにしてたっすか』
『数学の補修?10代目が分かるように教えられないなんて無能な教師っすね!』
『土曜日ですか、もちろんどこへでもご一緒します!……えっ、山本の試合…?』


誰もが振り返るようなこの人が、自分だけに笑いかけて、話しかけてくれるのが嬉しか
った。
多分に彼の思い込みの激しさが、脳内で理想のボス像を作っている気もしたが。

家族以外の誰かに大切にされたことなどなかったから、困らされることも多かったけど、
どうしても笑みがこぼれて。
自分が笑みくずれるのを目にすると、彼が照れくさそうにぱっと視線をそらすのを、長く
何とも思わずにいた。


なんでそんな鈍感でいられたかなあ…オレ、とツナは嘆息する。
優しくされて、守られて、切なそうに見つめられて、触れかけた指先が寸前で止まるのを
何度も見てきたのに。

彼が、何を堪えているのかを考えもしなかった。
もう自分でもどれだけ傷ついているのか分からずに、それを当り前と笑いとばすような人
だったのに。
一番そばにいる自分が、誰より早く気づいてあげるべきだったのに。



自分はただ勝手に彼のことを好きになった。
それはもう本当にいつの間にかで、何がきっかけだったのかも思い出せない。

肩を並べて、夕暮れの道を遠回りして帰った時も。
ひとつのアイスを半分に割って食べた時や、教わった数学の問題がちゃんと解けた時
の彼の笑顔も。
『おはようございます、10代目!』と弾む、朝一番のその声も。

ささやかな嬉しさはいくつもいくつも降り積もり、だけどもっと感じたくなった。
それは自分が他人に対して抱いた、初めての欲だった気がする。

彼の過去を知るにつれ、一人で抱え込まないでほしいと願った。
苦しみを見せないこの人が、心になにを隠し持っているのか、とても知りたかった。


気がつけば彼のことばかり考えている自分に赤面し、緊張して、だけどそれってそういう
ことだよね…?と自問自答を繰り返し。

その時は、男同士って普通じゃないかもしれないけど、それでも彼は喜んでくれるんじゃ
ないかと思っていたのだ。
好きだよって言ったら、きっと笑ってくれると信じてた。
見た事もないぐらいきれいな笑顔を返してくれるはずだって。


『オレね、びっくりするかもしれないけど、獄寺くんのこと好きみたいなんだ…』
『……』
『あ、ちがう、そうじゃない。ちゃんと言う。好きなんだ、きみが』

うちのめされたような、表情をした。
それから、片手でくしゃりと髪を乱暴にかきあげて、一瞬見えなくなった彼の顔は。
次に上げた時には、苦しみに大きくかき乱されていた。
泣き出しそうなそれは、ただ拒絶の匂いだけをさせていたというのに。

その瞬間、理解した。
全部分かってしまった。
自分よりずっとずっと前から、彼は恋心を抱き、ひた隠しにし続けてきたのだと。




「ああ、ツナ君、やっぱりここにいた」
背後で重いドアを押し開ける音がして、涼やかな優しい声がそれに続いた。
振り返るまでもなかった。

「……京子ちゃん」
先に彼女の名を呟いてから、ツナは柔らかな笑みを浮かべそちらを見やった。
以前よりもほんの少し髪を伸ばした彼女は、頼りない秋の日差しの中でも、愛らしさを
少しも損ねていなかった。

「こんな所で寒くない?」
「そうでもないよ。オレのこと探してくれてたの」
「うん。獄寺くんと山本くんがツナくん探してて…私はツナくんが階段上がっていくのを
ちらっと見たから、たぶんここかなって思って」

そう言いながら彼女はごく自然にツナと肩を並べ、眼下に広がる校庭を見つめた。
この中学に入った時から、男子の憧れの的だった彼女。
だが昔と変わらず、おっとりとしていつもニコニコ笑顔を絶やさない。


(京子ちゃんと二人っきりとか、普通誰にでもやっかまれそうだな…)
なのに自分の心は、以前のように浮足立ったり、反対に緊張でガチガチになったりしなく
なっていた。
ただ、家族に対するように、穏やかで優しい気持ちだけがある。

守りたいと思っていた。どんなことをしてでも。
好きになった女の子を。
知らずに済んだはずの戦いに巻き込んで辛い思いをさせてしまった彼女を。

だが今になって思うのだ。
自分の『好き』はどこまでも一方的で自分勝手だったと。
守る守ると言いながら、あの激しい戦いの日々、彼女が笑顔の下で本当は何を思って
いたのか考えようともしなかった。


「とうとう夏も終わっちゃったね」
「うん、なんかちょっと寂しい気がするなって思ってたんだ」
「それはきっと楽しかったからだよ。ツナくん、ずいぶん変わった気がする…」
「オレが?そうかな…」
そう言いながらも、ツナは変わってしまった自分を本当は誰よりよく分かっていた。

こうして、大した用もないのに探しに来てくれた彼女には。
うぬぼれかもしれないが、以前よりも自分に対する好意がほの見えた。

もしかしたら。もう少し時間をかけたなら。
互いの気持ちが同じであることを確認できたかもしれないな、とツナはぼんやり思う。

タイミングが合わなかったのか。
望みがあるかもという時になって、もう自分が彼女に恋をしていないなどという未来を、
本当に想像もしていなかった。


(きみが、大好きだったんだ…)
それが子供っぽい、自分に都合のよい『好き』だったとしても、自分は彼女に会えるから
学校に毎日行っていたのだ。

彼女は、他の連中のように心ない言葉のつぶてを投げつけたりはしなかった。
『ツナくん』と呼んで、陽だまりのような笑顔を見せてくれた。
それは普通の、何てことのない行為だったのかもしれない。
だが、灰色に曇った毎日の中で、自分には彼女の笑顔はずっと特別なものだった。


「なにか考えごとしてた?」
「うん、そうだね。京子ちゃん、オレはさ、ずっと思ってたんだ…」

一瞬言葉が途切れる。
季節が変わったことを示すひやりとした風が、真正面から二人に吹きつけてきた。
目を閉じ、自分の心を占めている人のことを考える。
考えればもう、今すぐ会いたいと強くどうしようもないほどに願っていた。

「誰かを好きになるのって、楽しくて幸せなことばっかりなんだろうなって…」

コンクリートの縁にかけた彼女の細い指が、ぴくりと動いたのを見た気がした。
少しだけの沈黙のあと、京子は確認するようにそっと問いかけた。

「そうじゃない人を、ツナくんは好きになってしまったの?」
「うん…その人がオレから欲しいものはもう決まっててね…それ以外はいらないみたい
なんだ」
「それ以外…って」
「オレの 『好き』 はいらないって言うんだよ。いくらなんでもひどいよね」

茶化すようにそう言って笑えば、傍らに立つ京子の大きな瞳が気遣わしげな色を浮かべ
ていた。
きみは優しいね、とツナは思う。
自分の方がひどい事をやっていると思うのに、傷ついたそぶりを見せない彼女は、思っ
ていたよりずっと大人なのかもしれない。

(それともオレがうぬぼれてただけかな)
それならそれでいいとツナは思うが、ボンゴレの血がもたらす超直感が力をいや増して
いる今、思い過ごしではない事も知っていた。



「10代目…っ」
ガコン、とさっきよりも大きな音をたてて、また背後の扉が開いた。
振り向けば、ツナの姿を視認した獄寺がほっとしたように小さく呼びかける。
しかし隣に立つのが誰か気づいた途端、彼は不自然にぱっと目をそらした。

(またそんな泣きそうな顔して…きみは)
オレを拒むのなら、せめて平気な顔をしてくれればいいんだけど、それもできないとか
困った人だなあとツナは思う。

だけど分かりやすい。
じわっと胸に歓喜が広がるのはどうしようもない。ちゃんと好かれてる。
そう実感すると、受け入れてもらえないこの気持ちまで勝手に走り出しそうだった。


「す…すみません。オレ、10代目探しに来たんすけどっ 教室で待ってますから!」
らしくもなく、顔を伏せたままで一気にそうまくしたてる獄寺を見て、京子はすっとツナの
傍らから離れた。

そのか細い背中を、ほんの一瞬、ツナは夢見るように見つめた。
ずっと好きだった人。
明日も会えるのに、永遠の別れのようだと思った。

「私もう行かなきゃ。花と約束してるの。ツナくんまた明日ね。獄寺くんも」
「うん、また明日」
「あ、ああ…」

彼女を傷つけた以上、もう後戻りできないとツナは悟っていた。
(なにもなかったことにはできない)
閉じこもってうずくまるのは得意だったけど、そんなこと今さら許されるはずがない。



京子が立ち去った屋上で、ツナと獄寺は無言で向かい合った。
やがて、その沈黙に耐えかねたように獄寺が呟いた。

「すみません、10代目…オレ、気がきかなくて」
「気がきかないって、なんのこと?」
「や、だから…せっかく笹川と二人きりだったのに邪魔して」
「京子ちゃん?オレが好きなのは誰か、オレちゃんと言ったよね」
「けど…っ 10代目はずっと笹川を!」
「獄寺くんはそういうことにしたいんだよね。でももうムリなんだ」


彼の灰碧の瞳の中には、溢れそうな苦悩が見てとれた。
自分はボンゴレのボスになると明言したことはないけれど、かつて彼が言ってくれた事
は本当に嬉しかった。

『オレの目指す右腕は、ボスと共に笑い、そのために生き抜く男です』

獄寺が自らの命を大事にしない事がとても怖かったから。
でもまだ全然足りてない。
彼はきっと、自分が幸せになる道など考えたこともないのだ。
そういう目をしてる、とツナは痛む胸を押さえた。
(オレをひとり占めしちゃいけないなんて、誰がきみに言ったの)


「10代目は…オレのボスで」
「……」
「やっと見つけた…オレの居場所なんです。あなたは!」
「うん、それは分かってるよ、獄寺くん」
「だったら…!」

お願いです、もう言わないでくださいとうなだれる獄寺には、ツナの好きなめちゃくちゃな
強引さも晴れやかさも見えなかった。
ただ頑なに、彼が張り巡らしたルールで彼が大事と思うものを守ろうとしている。


(手を伸ばせばきみに触れることはできるのに)
だが今のままでは、この境界を越えて彼の心に触れることはできそうにない。
それを承知でツナはそっと指先を伸ばし、俯いていた獄寺の顔を上げさせた。

(オレの…嵐の守護者)
(そしてオレが、誰より好きだと思う人)

何故だかこちらまで泣きたいような思いがした。
恋なんてしなければきっとラクでいられただろうに。自分も、獄寺も。
だけどもう手遅れだ。
あとは、彼と自分、互いの覚悟をたたかわせる以外に道はない。


「だけどさ、オレは、うぬぼれてると思われるかもしれないけど」
大切そうに獄寺を見つめ、告げた。想う気持ちまで伝わればいい。

「オレときみの気持ちは、おんなじだって思うんだ」


じゅうだいめ…と掠れた声を聞き、これ以上追い詰めれば彼が泣き出してしまうと感じて
ツナはすっと身を引いた。
緊張を解くように、ほっとひとつ息をつく。

まあそもそも、獄寺と両想いになれたらなれたで、リボーンに殺されそうな気がしたが。
それでいて、あの赤ん坊に殺されるぐらいの覚悟がないと認めてもらえないだろうことも
心のどこかで分かっていた。


ムリを承知で、自分は、恋をしてゆく。
今度は、好きな人をただ守るんじゃなく、幸せにしたいとそう思う。
(本気だから、オレはきみにも譲れない)


「今日はもう帰ろっか、獄寺くん」
「……はい」

疲弊しきったようでいて、獄寺の表情には頑なさが変わらず見てとれた。
だが、ほんの僅か彼に触れた時の温もりはまだ消えてはいないだろう。

それだけが頼りだった、今は。
思いは同じと分かっていながらも。
ツナと獄寺の恋心を頼りなくつないでいる、か細いただひとつのよすがだった。